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自殺未遂騒動で学校が賑わったその日、なんとか授業に間に合った僕の一日は恙無く進み放課後を迎えた。教室で帰り支度も終わり漸く一息。なんだかいつもの月曜日よりもより一層疲れた気がする。
そうそう、ここらで僕のただ一人の友人を紹介しておこう。目の前で頭を掻きながら悪態を吐き出す男、浜口優吾その人である。彼とは中学からの付き合いだった。
「公民だるすぎ。生態収束論のレポートなんて中学で散々書かされたっつの」
「あの時とは主題が微妙に違うよ。中学でやったのは生態収束論の概要。今日出た課題の趣旨は生態収束論が及ぼした社会への影響と価値観の変容で」
「あーはいはい、そーですね。八色は真面目くんかよ」
「お前の方がテストの点数はいいだろ、浜口」
「文武両道才色兼備は我が家の方針なもので」
実際その言葉が嫌みに聞こえない程度には当てはまるのだから浜口はすごい。家は代々医者の家系で、学校ではサッカー部のキャプテン。成績、教師陣の評判もすこぶる良く、寿命も程よく長い。顔も二枚目だからクラスの人気者だ。なんだこいつ。神様調整ミスっただろ。まあ少し捻くれている(自覚はある)僕と気さくに付き合ってくれている時点でいい奴である事は間違いないのだが。
「医者の家に生まれなくて良かったよ。僕じゃその荷物は背負えそうにないし」
「よく言うぜ。テストの点数なんてそんな変わらんだろ。サッカーだって赤紙がなけりゃぁ絶対にお前がうちのエースだった」
どうだろう。確かに特定保険カードを受け取る前の僕は今より活発で、プロを目指して毎日練習していた事もあった。が、あれは黒歴史である。今じゃ努力なんて椎茸の次に嫌いなものとして、八色憂鬱ランキング不動のトップ3の地位を手にしているのだ。簡単に諦めてしまえるのだから、続けていたって大した事はなかっただろう。
「お前のプレーは行儀が良過ぎるんだよ」
「医者が接触プレーで骨折るわけにはいかんだろ。御陰で今じゃトリックスターさ」
「おいおい、もう医者になったつもりかよ」
軽く茶化すと浜口はぽつりとこぼした。
「なるんだよ。それしか選ばせてもらえないさ」
勿論、嫌ならやめればいい、なんて事は言えない。わずかな時間を自由にできる僕と、それより長い時を地に足つけて歩まなければならない浜口とでは、生き方に対するスタンスが土台からして違うのだから。
「じゃ、俺もう部活行くわ。どうやらお前にお客さんがいるみたいだし」
スクールバックを肩に引っ掛けた浜口が立ち上がると、教室の入り口に視線を流す。その先を追いかけると、まだ記憶に新しい茶髪の少女が小さく手を振って微笑んでいた。それはもう、ニパァーっと。
「よっ!今朝ぶり」
「……七尾」
七尾奈々。
今朝知り合ったばかりの少女が、どうした事かそこにいる。
「八色くん借りていい?」
「どうぞどうぞ」
浜口はあっさりと僕を見捨てて教室を出た。
というか名前、何故知ってる。
「赤紙の男の子なんて珍しいからね。何人かに聞いてみたらすぐわかったよ。しかも同級生とか」
「うわー、心も読めるとかハイスペックー」
「顔に書いてあるし」
「マジか。ちょっと顔洗って来るっす」
と言って席から立ち上がり、七尾の隣を横切って教室から出る……その前に、彼女の細くて白い指に、服の袖口を軽く引っ張られたため、僕は足を止めた。
「レッドカード」
「えっ?」
「サッカーだったら退場」
「あー。そうだね。服のびちゃうね、ごめんごめん」
僕の皮肉っぽい冗談に、なんとも言えない表情で惚けていた七尾は慌てて手を離す。微妙に空気を悪くしてしまったが、中学以降は極端に人付き合いの減った僕に、女の子を上手くフォローする事なんて出来ない。そう、だから今朝だって関わり合いたくなかったのだ。
「改めて自己紹介。私、七尾奈々。数字の七に尻尾の尾、奈良の奈並べて七尾奈々!七夕生まれで、カードの数字も77」
「なんか縁起が良いね」
「でしょ?」
僕が適当に返した言葉に、七尾は自慢げに胸を張った。寿命が77歳までとなると、特定保険カードの色は白となる。現代の平均寿命から言えば人より短い人生ではあるものの、取り分け珍しくはない数字だった。
「そんな私ですが、なんと今日この後!予定が空いているのです!」
「友達いないの?」
「ふっふっふ、7から先は数えてないさね」
「そのキャラを77年間通すつもりなら、僕は七尾を尊敬する」
いつの間にか、先程までの気まずい空気は、まるで最初から存在しなかったかのように霧散していた。いや寧ろ僕は、このやり取りを心のどこかで楽しんですらいる。上手くは言えないけれど波長が合う、とでも表現すればいいのだろうか?
「まあ、それは今どうでもよくて。八色くんはこの後空いてる?」
先程まではあまり気にしていなかったけれど、七尾とこうして向き合ってみると、表情が豊かでとても可愛らしい。その丸くて大きな瞳と目が合えば、思わず吸い込まれそうになる。そんな彼女が続けてこう言うのだ。
「お茶、行かない?」
だから僕はとても穏やかな心根で、それはもう気持ちの良い返事をかえした。
「お断りします」