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ホラー短編集

ホラー小説「はさまれたメモ」

作者: sillin

「あなた、ちょっと」


 夜遅く家に帰るとすぐに奥から妻の声がした。硬い声色から察するに、また私のことを色々詮索しようと言うのだ。たしかに正美とはもう会っていないことになっているが、疑り深い妻は気づきはじめている。このところ帰りが遅いのを問い詰めようと言うのだろう。


「風呂だ、風呂!」


 奥へ叫ぶと、私は居間を迂回して脱衣所へ向かった。まったく不愉快だ。だがもう少し待てば、正美の身辺整理も終わって私と一緒になれる。それまで我慢するだけでいい。


 浴槽の中で私は文庫本を開いた。

 ゆっくりぬるいお湯につかりながら読書をすることは、夜の日課とも言うべき趣味である。

 半身浴は健康にいい。本を読むことが目的だから、長風呂も退屈しない。風呂場にテレビなど設置しなくてもいいから、節約にもなる。

 問題は湿気で本がふやけてしまう場合があることだ。もちろん浴槽に落としたり、水しぶきを散らせたりするヘマはしないが、湿気だけはどうしようもない。

 だから私が持ち込む本は、たいてい古本と決まっていた。


 今日持ち込んだのも、近所の古書店で買い求めた一冊である。

 夏だからと言う単純な理由で、私はホラーを読もうと思っていた。もとより乱読悪食の私は、ジャンルも作家名も気にせずなんでも読む。

 目に留まったのは薄い古びた本だった。

 作家の名前どころか出版社も聞いたことがない。『はさまれたメモ』と言うタイトルよりも、古印体の文字が使われていたことで、それがホラーであることを知れる装丁だ。

 実はいわゆるB級、C級、の作品も好きな私は、ぺらぺらとページをめくって即購入を決めた。稚拙な文体はそのどこかに必ず輝かしい一文を残している。無名の著者が心血を注いで作り上げたものは、必ずそうである。


 私はまず奥付を開いた。驚いたことに、昭和50年代の出版だ。まともなチェーンの古本屋なら、まず店頭に並ばない。近所の“古書店”表現するに相応しい店だからこそいつまでも埃をかぶっていたのである。

 次に目を通したのはあとがきだ。後ろから読むタイプなのである。

 あとがきはなかった。代わりに短い文章で、この本が出版されたいきさつが記されていた。

 それによるとこの本は、執筆後謎の死を遂げた著者に代わり、友人数名が自費出版で出したものらしい。いつか本を出版したいと言う著者の夢を、遺稿でかなえてやったのである。


 私は本文を読む前からのめり込んでいた。

 もし書かれていることが嘘八百でも、ホラーとしてこれほどうまい演出はない。冒頭へページを戻し、夢中で読み始める。


 予想したとおり、内容自体はたいしたものでなかった。主人公が図書館でたまたま見つけた呪いの本にはさまっていたメモの暗号を解いていくというものである。実はそのメモこそが呪いで、解読した瞬間呪いが発動するのだ。暗号が奇抜であればもう少し面白かったかもしれないが、数字の羅列は本のページ数、行番号、列番号を座標的に示したもので、使い古されたものだ。暗号の答えは記されず、呪いの発動によって唐突に主人公は死に、物語は終わっていた。


 読み終わるのに一時間もかからなかった。体もちょうど温まってきたころだ。

 湯船を出て身体を洗おうと本を閉じた私は、ひらりと舞い落ちたものに気づく。

 慌てて拾い上げると、湯に浸かった紙切れは一枚のメモだった。作中と同じように数字の羅列が刻んである。

 なるほど、前の持ち主がいたずら心を出したらしい。私はにやりとする。それならあまんじて挑戦を受けようじゃないか。


 しかし次の瞬間、おかしなことに気づいた。私は何度もページを繰っている。メモはどこにはさまっていたのだろう。

 怪訝な顔のまま、浴槽の淵に腰掛け、物語の主人公と同じようにメモと本を見比べる。ミステリーもよく読む私にとって、この手の古典的な暗号など児戯だ。


『後・の・前・お』


 数字と本のページを符合させた私は、再び怪訝な顔に戻った。前の持ち主が仕掛けた謎は、ここからようやく始まると気づいたからだ。

 うしろのまえを、とはどういうことだろう。


 身体を洗いながら考えることにして、私は洗い場に移るとシャンプーに手を伸ばした。

 後ろの前と言われてすぐ思い当たったのはかごめかごめの歌だ。あれは後ろの正面だったか。あの歌は歌詞自体が謎に満ちている。それで直感的に思い当たったが、そこまで壮大な謎かけではないだろう。


 もっと単純な何か。

 髪を洗う手が止まった。簡単なことじゃないか。私はメモを逆に解いてしまっただけなのだ。


『お前の後』


 おまえのあと、いやうしろか。それがメモの暗号の答えだ。

 お前の後ろ?

 それが、どうしたと言うのだ。お前と言うのは、次に本を手に取った人物――つまり私のことだろう。私の後ろが、なんなのだ。


 急にぞくっとした。

 髪を洗っている時と言うのは、得てして後ろが怖く感じるものだ。私は背中に物理的な寒さと、人の気配を感じた。


 なにくそ。そんなものは気のせいだ。

 これこそメモをはさんだ人物の思う壺じゃないか。

 私は力を込めて髪を洗い始め――すぐにやめた。


 いる。


 私の後ろには何かいる。荒い息遣いを抑えて、何者かが私の後ろに立っている。

 私は泡のついた手で目をぬぐうと、振り向いた。

 妻が青い顔で立っていた。


「一緒に死んでちょうだい」


 妻は見たことの無い目で私を見下ろし、包丁を振りかざした。


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