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しばらくそうしてうずくまっていた彼だったが、やがて涙は止まり、気分も幾分か落ち着いてきた。大きく深呼吸をして、愛用のカメラを取り出す。
中学校の入学祝いに両親から送られた一眼レフ。大事に使ってきたおかげで、一度も故障のしたことのないこの機器の中には、実に七十四年分もの記憶が詰まっている。中学生の頃所属していた写真部で撮った数々の風景、家族の何気ない瞬間、月でできた家族との日々、そして、青く光る遠い地球の姿……。彼の人生とも言えるものが、皺の刻まれた両手の中にあった。
火星へ行けば、まだ家族といられる。――だが、月から離れたところで、一体どれだけ生きられるだろうか。この老体では、どうせ長くはないだろう。それに、月に深く根付いた自分には、今更動いて新しい生活を始めるなど、考えることもできなかった。
「お父さん」
おもむろに顔を上げると、娘の姿があった。その後ろには、ばつが悪いといった様子の孫が母の背に隠れるようにして立っていた。
「お父さん」
二度目に父を呼ぶその声は、先程よりもきつい口調だった。
「どうして火星へ行かないなんて言ったの?」
聞く、というより責めるように、娘は言う。
「……儂は、もう行けない」
「私は理由を聞いてるのっ!」
言い放ってすぐに、小さく謝る声がした。
「……済まない。儂は、お前達を困らせてばかりだな。
儂が火星に行ったところで、どうせ長くはない。最期まで月にいたいんだよ。月にはたくさん思い出があるから。だからどうか、ここに置いて行ってくれ」
静かに老体を見つめる意思の強い目は、一体誰に似たのか。しばらくの間無言が続いたが、やがて娘はその静寂を破った。
「本気、なのね」
「あぁ」
ためらうように一瞬だけ視線を逸らせてから、娘は問うた。
「最後に、一つだけ教えて。お父さんは、今でも地球に帰りたいと思ってる?」
「……確かに、地球は儂の故郷だ。儂に限らず、人類全ての、な。でも儂は、もう帰りたいとは思っていないよ。あそこには、ただ未練があるだけだ」
はぁー、と娘は深く息を吐く。
「分かった。じゃあ、これでお別れね。お父さん、元気で。……ほら、お祖父ちゃんにあいさつして」
「……お祖父ちゃん、さっきは、その、ごめんなさい。本当はね、もっとずっと一緒にいたいよ。でも、お祖父ちゃんが嫌なら、僕我慢する。元気でね」
「坊、こちらへおいで」
彼が片手を差し出して呼ぶと、少年は大人しく近づき、その手にそっと触れる。小さく柔らかい手に自身の記憶の結晶を待たせて、老人は言った。
「坊よ、儂の宝物をお前にあげよう。どうか、忘れないで欲しい。儂達人類の故郷のこと。そこでの暮らしの姿を。……離れていても、愛しているよ」
「僕も、お祖父ちゃん大好き。カメラ、ずっと大事にするね」
皺だらけの顔をさらにくしゃくしゃにして老人は笑んだ。少年も、涙目になりながらも精一杯に笑う。
「さ、お行き」
そっと幼い背を押し、暮らし慣れた家から二人を送り出す。母子の影が見えなくなるまで見つめ続け、そっとつぶやいた。
「これで、いいんだ」




