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 その日の夜は倉橋家に泊まることになり、夕食の席で、博士と倉橋さんの息子である明彦に会った。博士はその呼び名から連想する通りの、白髭を蓄え眼鏡をかけた白衣の老人で、明彦は今年で十歳になる、どちらかと言えば内気そうな少年だった。気になって、恐る恐る倉橋さんに年齢を聞いてみたところ、三十四歳、とあっさり教えてくれた。思っていたより年上だった。女性の見た目は当てにならない。


 倉橋さんは二人に、俺についての話を、一切誤魔化すことなく説明した。当事者である俺が驚くほど簡潔かつ要点を押さえていた。


「……それで、今日は一晩泊まってもらって、明日改めて答えを聞くつもり」


「そうか。……あかりさん、明日、私の分の朝食は用意しなくていい」


 博士の反応は拍子抜けするほど淡白であり、逆に明彦の方は、話を聞いてみたいという風な顔をして、俺と倉橋さんの顔をちらちらと見ていた。


「明彦、何か聞きたいことがあるなら、聞いて良いんだよ」


 苦笑した倉橋さんが少年を促すと、内気そうな表情はどこかへ消え、ぱっと笑顔になって身を乗り出した。


「お兄ちゃん」


 一瞬、結月の姿を少年の瞳の中に見た。お兄ちゃん、そう呼ぶ声は、かつて一つだけだった。


「お兄ちゃんは海の近くに住んでたんだよね? いっぱい泳いだ?」


「……あ、うん。みんな、夏になると泳いで、釣りもして」


「すっごーい! 僕、年に一回くらいしか行ったことないよ! ……でもね、もう行けないんだって。海も山も川も、もう、ずっと遊べなくなっちゃったんだって。

 だけどね、僕はそれでも良いんだ。月にはお母さんもおじいちゃんもいるし、友達とも遊べるから。

 ……お兄ちゃんは、地球の方が良い?」


「俺は……」


 月で生きていかなきゃいけない。それが、結月の願いだから。月ででも生きていけるかもしれない。倉橋さんだって、大切な人を亡くしても、生きてきたから。

 では、俺は? 俺自身は、どうしたかったんだ?


「俺は、結月を月へ連れてきたかった……」


 ぱたり、と落ちたのは、俺の目からあふれた涙。雫のこぼれる音は止まらない。


「たった一瞬、気が緩みさえしなければ、ここまで来れたんだっ。俺が先に囮になっていれば、結月は生きることができた、幸せになれたっ! あいつだって同じように考えてたけど、それでも俺は、結月を、守りたかった。ずっと、傍でっ……」


 結月が幸せになっていく姿を見守っていたかった。月でも、地球でも、どちらでも構いはしない。あの子の隣が、俺のいたい場所だった。


 結月よりも大きくてあたたかい、そのくせ震えだけは妹にそっくりな手が、俺の肩に置かれたのが分かった。


「気持ちは分かるよ。でもね、誰かのためにって思いだけでは、人は生きていけない。それが死んだ人ならなおさら……。君自身が生きたいと望まない限り、幸せにはなれないんだよ。

 たとえ遠からず死ぬと分かっていても、万一、もう妹さんが生きていないとしても、地球へ戻るというなら止めはしないさ。……だけど本心は、船に乗り込んだときから、決まっていたんじゃないのかな」


 そう……分かってる。今更悩むことなどない。


「でも、決まっているからこそ……」


 地球に全てを置いてきてしまったことを後悔する。結月を連れて来られなかったという自責の念が募る。


「後悔は先に立ってはくれない。だったらせめて、この先で後悔しないように、日々を生きていかなくちゃ……」


 微かに震えた声が、俺を丸ごと優しく包み込んだ。





 翌朝、博士を除いた三人が朝食の席に着いてから、俺は話を切り出した。


「あの、俺、月にいようと思います。これから迷惑をかけるけど、よろしくお願いします」


 結月、俺は、俺のために生きるよ。俺が幸せになるために。そうすれば、お前の願いも叶えられるだろう?


 心の中であの子に声をかけながら、頭を下げた。


「うん。迷惑だなんてとんでもない。こちらこそ、よろしくね」


 顔を上げて、倉橋さんの顔を見た。満足そうな笑みだった。

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