8 疲れた月
今日のお題は「疲れた月」でした。
夜道をたんたんと歩む。
コンクリートの冷たい青は何を告げることもなく、ただ足元に広がる。
行き交う人もない、真夜中の路地。
男はただたんたんと歩む。
アパート、住宅、マンション、店舗。
大通りを1本入るとどこでもこんなものだ。日本の町などどこでも似たり寄ったりだ。
見上げても電柱と電線が夜空を小さく切り取り、世界の狭さを地上に知らしめている。
同じように小さな空をながめ、小さく閉じ込められている人間がどこかにいることだろう。
その数は決して少なからず。
革靴の底は摩擦で小さく悲鳴を上げる。
鞄のファスナーは先日書類を噛んで以来、開け閉めがしにくくなっている。
角は擦り切れて色が落ち、表面は多くの傷がいい味を出してきた。
なめしが良いと年を重ねるごとに表面に艶が出て良いものではあるが、そろそろ取り替えの時期だろうか。手持ちのもので人間を判断する者は、結構多い。
皮革の重さがずっしり腕に響くようになった。次は布製にすべきか。
男は街灯の下でため息をつく。
そしてまた、たんたんと歩を進める。
そう多くはない給料はローンと家族へと消えていく。
戸建てなど自分たちにはおそれおおいと考えていたが、職場で「持ち家もない家に嫁にやるなどなんて情けない」などという会話を耳にして以来、1軒も家を持っていないのは子供のために良くないのだろうかと考えてしまい、少々値が張る物件に手を出してしまった。
かといって、それが著しく身不相応なわけでもなく、子供たちの教育費に影響がでるほどではない。
ただ趣味のものは捨てられてしまった。
「人間五十年」が真実だとすれば、自分に残された時間はいかほどであろうか。
男は年を数える。
平均寿命が世界トップランクにあるとはいえ、それをかんがみても半分はすぎているだろう。
残された時間の半分は身体的都合で思うようには動けないだろう。早々に働くこともできない可能性だってある。時間。身体。金銭的余裕。
だとすれば自由はどれほど残されているだろう。
なにができるだろう。
誰かに見られているような気がして、男はふりかえる。
しかしそこにあるのは、男が歩いてきたコンクリートとアスファルトの道だけ。
肩をすくめて男はまた歩き出した。
自分の生きてきた長くもない道を思い返した。
これから生きる大して長くもないだろう道を思った。
どうしようもない、ドロっとしたなにかに覆われている自分に苛立つ。
逃れるすべなどありはしない。わかっている。
堪えて堪えて、うまくたちゆくのがせいぜいだ。
起床後、簡単な食事を済ませ駅に向かい、ヨーロッパのどこかで戦中は拷問とされた「満員電車」よりはるかに過酷な「すし詰め電車」に乗り込み仕事場へ。
仕事を終えてまた「すし詰め」で戻る。
そんな毎日でも平和なのだろうか。
こうしていられるだけでも幸福なのだろうか。
家路の終わりはすぐそこ。インターホンを鳴らしてそして。
次の話も、どうぞお楽しみに。