:藍色の天才と苦悩4
「俺、なんかしちまったかなぁ……」
千影に手を払われた。
ものすごく、怯えた顔で。この世のモノを見ていないような、幽霊でも見て驚いているような。しかし、あの無情ぶりで知られる千影が、あそこまで表情を崩すとは。あのあと、千影は瀬能弟に連れられ、姿を消した。俺と瀬能兄は、そのまま部活に戻り、俺は家に帰宅して、現在は風呂と夕飯を済ませ、自室のベッドの上で寝転がっていた。
「…………」
正直、ものすごくショックだった。払われた右手にまだ感触が残り、瞼には今にも泣きそうな千影の顔が焼き付いていた。手を見るたび、胸が痛かった。天井を見飽きて、寝返りを打ち、自然と溜め息がもれる。
「アーオちゃんっ!」
聞きたくないぶりっ娘声が聞こえたと思った瞬間、いきなり扉が開いた。見ると、姉である、摩季が扉の前で何かよくないことをしようとしている笑みで、俺を見つめていた。
「どーんっ!!」
よくないことが起きてしまった。姉はその場で膝を曲げてバネ作用をつけると、助走といわんばかりに駆け出し、気付けば俺の真上に浮上していて、そして、落ちてきた。
「ぐ……っ!! あぁ……!!?」
変な悲鳴が出てしまった。姉の肘が俺の脇腹にクリティカルヒットを決め、俺のヒットポイントが大幅に減り、中で消化中であろう夕飯が飛び出るところであった。
「な、んだよ…っ、姉ちゃんっ!!」
「いいじゃない。サークル疲れの身体を動かして、お姉ちゃんが遊びにきてあげたんだから!!」
「まだ有り余っているようですが…っ!?」
少なくとも、ぶりっ娘声を出して弟にダイブしてくる分の力は。
「弟をいじる力はべーつー!」
「是非サークルで使って頂きたいっ!!」
そんなことに使っては、力が可哀想ではないか。あと俺も可哀想ではないか。
「あ、姉ちゃん。俺が頼んだスポーツドリンクは…?」
姉が買い出しに行くと言っていたので、頼んでおいたのだが。
「あぁ! あったねぇ! 買ってある買ってある。でもないよ!」
「ドユコト!?」
上げて下げてきたぞ、この女。
「なんでねぇの!? まさか飲んだ!?」
「ううん、葵より素敵な人にあげちゃったんだよ」
「え、誰……?」
「……私!」
「やっぱ姉ちゃんかよっ!!」
「違う違う、冗談冗談。スーパーでぶつかったお詫びにあげたんだけど、その人が、うちの大学の教授の弟さんだったんだよ! すごい偶然じゃない!? 葵も知ってる子だよ?」
俺も知っている人物なんて、ごまんといるが、一体誰だと姉に振ると、
「千影藤九郎君!」
噎せた。なんか知らんがいきなり盛大に噎せた。
「ち、ちょっと葵、大丈夫…?」
「ゲッホ…ッ、コホッ! な、なんでまた、千影が…!?」
「だから偶然だって。なんか一人暮らしで、買い出しに来てたみたいで、ほんと偶然。葵、友達なんだって? 千影君が言ってたよ?」
友達。その言葉に、また胸が痛んだ。今の俺は、まだその位置にいるのか。
「なんか調子悪そうだったから、葵のスポーツドリンクあげちゃったの。ごめんね?」
調子が悪い。あの顔を見てからなら、うんと頷ける。俺がしてしまったようなモノだから。
これから千影と、いつもどおり会話ができるのだろうか。正直、あまり自信がない。だが、千影はあの性格だ。きっと振りだしにくいだろう。
「あーおーいー?」
「……なぁ、姉ちゃん。突然で悪いんだけどさ……」
ここは、そういう経験が無駄に豊富そうな姉に聞いてみよう。
「俺、さ……。好きな人、が、出来たんだけど…」
「おぉ!! ついに春か!? 春がきたのか!? きてるけど!!」
食い付いてきた。
「だけどソイツ、好きっていう気持ちが解らないんだって。それで悩んでて、俺は待つって言ったんだとけど……。なんか、俺に会うたび、更に、悩ませてるというか……。どうすればいいと思う…?」
姉は身体を起こすと、考えてくれた。
「うう〜ん……。その子ってもしかしてだけど、…千影君?」
「な、は……っ!!?」
「海綺麗だよね。行きたいなぁ」
「いやちが……っ! って、なんで…!!?」
姉、恐るべし。俺の顔がみるみるうちに熱くなり、顔を逸らすが。姉がニヤニヤと俺を見ているのが解る。
「…別にからかってる訳じゃないよ。いいと思うよ? なんか千影君も、曇った顔してたから。それに、率直で失礼かもしれないけど、千影君て恋愛とかに初そうだし、むしろ知らなさそうっていうか…。やっぱ先生と似てるんだよね。モテるんだけど、全然そういうのには無関心で、いざ告白されると、深く考え過ぎちゃうっていうか…」
姉は淡々と語り出す。しかも、それはほぼ合っていると思うのだ。一年の初夏に、千影に初めて告白したその時も、千影は、好きという気持ちが解らないと、俺に申し訳ないという目で、しかし必死に答えようと言葉を選んでいたあの表情を思い出す。
「でも、まさか自分の弟が落とされるとは。確かに千影君可愛いよねぇ。ありゃ男でも落ちるわ。ほんっと顔も綺麗だけど、やっぱ目だね。惹かれるよ、あれは」
「……やっぱ姉ちゃんも解る?」
「解るよぉ。先生もそうだけどさ、あの子の目異質だけど、すっごく綺麗だもの。一瞬見とれちゃったもん」
千影の目は、藍色だ。巷で『藍色の天才』と呼ばれているほど、千影の目は特徴的だ。本当、綺麗の一言だけでは足りないぐらい、透き通っていて、暗い色なのにどこか光がやどっている。
「葵みたいなのが、じゃんじゃん吸い込まれそうっていうか。葵みたいな、バスケバスケで馬鹿やってる奴が落ちそうといいますか」
「どういう意味?」
馬鹿は否定しないが、千影に寄り付く他の奴と一緒にしないでいただきたい。千影は俺以外の同姓にも、異性にも、先生からも、年下からもモテるのは知っている。それを全て、振り払っていることも。
「う〜ん、でも、千影君悩んでるんでしょ? あんたが力になりたいっていうなら、私から策を提示しよう。…んじゃね、葵、まず、まだ千影君の判断力を信じて、あんたは千影君に抱きついたり、好きって言ったり、キスもしちゃダメ!」
「う……っ!?」
いや、正直我慢しきれるか不安になる策だ。
「あんたのことだから、どうせしてるんでしょ? これは遠回しに急かすことになるけど、まだ相手の気持ちも解らず、そういうことするのはよくない。ちゃんと返事を聞いてから、キス出来るか抱き締められるかは、あんたの普段と印章次第ってことよ。いいわね…?」
確かに、姉の言うことは合っている。結局、普段の俺次第なのだ。俺がいくらキスしても、抱き締めても、好きだと言おうとも、それは単にしつこく、千影を悩ませるだけだ。
姉は真剣な眼差しで、指を三本、俺の前に立たせた。
「んで、それでも千影君が悩むようなら、最終手段。あんたは千影君に質問をしなさい」
「……あれで、良かったのか…?」
教室に戻ってきた。
姉に言われた通り、俺は千影に宣言してきた。あとは千影がどれだけ考えてくれるかだ。姉曰く、俺が好きなら、今まで俺がしてきたキスや、手の感触が恋しくなる、らしい。
「…………」
試すような真似をして、申し訳ないと思っている。だが、これは俺のけじめでもあった。
「…好きだよ、千影……」
触れたい手を拳に変えて、小さく呟き、自分の机に突っ伏した。
この嬉しいという気持ちは、好きと同等なのだろうか。
放課後になり、文芸部もないので、私はすぐに学校を後にして、近くの本屋で新刊を立ち読みし、気を紛らわした。紛らわす気は、昼休みのことだ。菅野原に好きと言われ続けるのも、キスをしてもらえるのも、抱き締められるのも、私の答え次第。そうだ、正しい。私が一年前から答えを保留にしているのがいけないのだ。我ながら最低だ。考えているせいで、本の内容が頭に入ってこない。
「………」
菅野原は、まだ時間を私に与えてくれている。その優しさにこれ以上甘える訳にはいかない。だが、解らないのだ。
「…あれ、藤九郎君…?」
声の方向を向くと、美脚が飛び込んできた。いや違う。黒髪が似合う、綺麗な女性で、兄、誠十郎の恋人である、立氷維咲さんであった。
「学校帰り…?」
「えぇ、維咲さんは?」
「私は買い物だよ。ちょっと興味ある漫画があってね」
見せてくれた。表紙は、全面的に黒と赤、いや、深紅。タイトルのロゴも、おどろおどろしい、まだ可愛いよりの継ぎ接ぎのウサギの人形が、ニヤリとニヒルな笑みを浮かべ、血塗れの包丁を持っている。
ジャンルは何かと聞かれれば、スプラッタ、ホラーと真っ先に答え兼ねない。
「フリーホラーゲームなんだけどね、コミック化したって聞いたから、いても立ってもいられなくて! すごい面白いのっ! このウサギが可愛いんだ! 藤九郎君もそう思わない?」
いやはや、人は見掛けで判断するなとはよく言うが、こんな大和撫子張りの美人さんがまさかホラーゲーム好きで、血塗れ狂気丸出しのウサギさんを可愛いというぐらい、最近の女性の守備範囲は広くなってきているのか。聞けば、トークソフト特有の棒読み実況がお好きらしい。
「え、えぇ、可愛いです、ね」
可愛い可愛い。見方を変えて少しでもそう思うんだ、自分。
「そうでしょ? 今度良かったら見てよ! 面白いから!」
太陽と称しても過言ではない笑顔だ。私には眩しすぎる。そうだ、兄はこういう人が好きだ。自分とは違う、他人を日陰に置かない、切実にただ想いを寄せ、支えてくれる、そんな、純粋で飾らない美しさを持つ人が。
「藤九郎君…?」
私とは、違う。いや、当然だが、そういう意味ではない。ただ、やはり、違うのだ。
「えぇ、見てみます。題名教えてもらえますか?」
彼女のようになればなど、当然なれないし、なる必要もない。だが、考えても考えても、解らないのだ。私は菅野原をどう想っていて、彼とどうなりたいのか。
「…維咲さん」
「うん? なに? 他のも教える?」
「えぇ、それも加えて、なんですが……。今からお時間ありますか…?」
本屋を出て、近くの噴水広場のベンチに腰掛けた。付近にある自販機で缶コーヒーを二本購入すると、維咲さんに一本渡した。すると、お礼を言いながら開け、そのままぐいっと喉に流した。なんとも男らしい、いい飲みっぷりである。しかし、こういう女性の姿を見て、男性は引く傾向の方が多いと聞くが、何故だろう、彼女は下品にも引く傾向にもなく、男らしいうえ、なんか可愛い。
「それで、話ってなに? どうかしたの?」
私は缶コーヒーを開けて、そこで手を止めた。
「……い、維咲さんは、兄のどこを好きになったんですか…?」
以前、家に挨拶に来てくれた時には聞かなかったが、そう言えばあの、顔だけよくて、勉強は出来るくせに生活力のない兄のどこを好いたのか、疑問に思っていたところだった。
「う〜ん、どこを、かぁ……」
「………」
「…普通のところかなっ!」
……………。
「…え……」
「普段の教授を好きになったの。だって、他人の私が知れるのって、大学の講義してる時の教授しか見れないじゃない? だけど今は、寝てる教授も、実況見てる教授も、ネズミと会話してる教授も、好きだよ」
そうだ、私がいくら菅野原と付き合いが長いとはいえ、学校で会う菅野原しか知らない。そして菅野原も、藍色の天才などと呼ばれる、私しか知らない。菅野原は、その藍色の天才と呼ばれる私を好いた。
「藤九郎君も、誰か好きな人出来たの?」
維咲さんが私の頬に缶コーヒーを当ててきた。前屈みになり、顔を覗かれる。
「いえ、それが解らなくて……」
「解らない……?」
私はある程度要約して、事を話した。
「…う〜ん、一年の時から、か…。それで、自分の気持ちが解らないと…」
「はい……」
私は一先ず、コーヒーを口に含んだ。
「可愛いなぁ」
「ぶ……っ!!?」
盛大に吹いてしまった。
「藤九郎君、青春してるねぇ! 解らないで悩むなんて! …んじゃさ、藤九郎君、その子のいいなぁって思うところ、なんかない? 皆に優しいとか、スポーツしてるとか」
「……皆に優しくて、誰にでも好かれて、バスケをやっていて、頼りになって……。あとは……手…」
「手……?」
そうだ、あの大きい手のひらと、バスケをしているのに、すらりと長く、綺麗な細い指。あの手に頭を撫でられた時の、感触は今思い出しただけでも、緊張するぐらい、落ち着いた。
「頭を撫でられた時、すごく落ち着いて」
「へぇ、いいなぁ。そういうの。私も一回だけ教授に撫でてもらったことあるよ。教授もすごく落ち着くんだ」
すると、維咲さんはずいっと私に顔を近付けてきた。
「良かったら、藤九郎君も撫でてくれない……? 変なお願いで悪いけど、ちょっと興味があって……えへへ…」
駄目だ。この可愛い笑顔からお願いされ、断るなど出来るものか。私はこの年上の女性の頭を、おそるおそる撫でた。
「わぁ……。あははっ、教授とはまた違うけど、藤九郎君のはなんか、あったかいなぁ……」
うちにいるナナみたいだ。気持ち良さそうに目を伏せて、頬を仄かに染めている。あまりにも似ているので、私は思わず維咲さんの頬に手を滑らせて、そのまま首を撫でてしまった。
「ぅわ……っ!?」
「あ、す、すみません…! つい…っ」
手を離した。維咲さんは首を擦って、私を上目で私を見てきた。
「い、いや、私が頼んだんだから。ていうか藤九郎君、撫で方がなんかエッチだった、よ…?」
「え……」
そんな卑猥な事をした覚えはないが。
「なるほど。その子の手が好きなんだね。そこから始めてみたら?」
「え、どういう……」
「まずは手、次に腕、あ、足…? とにかく、その人のいろんなところを、ちょっとずつ好きになってくの。そして最後には、その人全てを好きになるっていうのは、どう、かな……?」
維咲さんの提案に、私は小さく頷いてみせた。すると、維咲さんは私の頭をぐしゃぐしゃと撫で回してきた。
「悩めよ〜っ! 高校生っ! コーヒーご馳走さま! じゃぁね!!」
維咲さんは、私の五メートル後ろにあるゴミ箱に缶を見事投げ入れると、私に小さく手を振って、去っていった。
一人残され、とりあえず、手元にある缶コーヒーを飲んだ。
「……冷たい…」
少しずつ、好きになっていけばいい。
「…………」
翌日、私は普通に学校に通った。途中、やはり弥做に会い、抱き着かれた。
「おはよう、弥做」
「おはよう、お兄ちゃん!」
頭を撫でてやった。気持ち良さそうである。質問をしてみた。
「弥做は、私に頭を撫でられて嬉しい…?」
「うんっ! 撫でてくれるのも、抱き着かせてくれるのも、とにかく、藤九郎兄ちゃんの全部がだーいすきっ!!」
なんと、朝一番に愛の告白を受けてしまった。しかも小学生に。
「ねぇ、お、お兄ちゃん…。し、しゃがんでくれない…?」
疑問を覚えつつ、弥做と目を合わせるようにしゃがんでやる。
「目、瞑って…?」
「目……? またどうして……」
チュッ。
「………? ………。………っ!!?」
閉じた瞬間、頬に可愛らしいリップの音がして、私は目を開けて、頬を押さえた。
「エヘヘ……い、いつもありがとう…」
こ、このおませさんめ。
しかし、小学生にキスされるとは。なんということだ。
「…将来が思いやられるな。まったく、このおませさんは」
私はひょいと弥做を抱き上げた。
「ち、ちょっと! ボクもう十歳だよ!? 抱っこはや……め…」
案の定、弥做は顔を赤くして、恥ずかしいのか目線を落としている。その額にコツリと私の額を当ててやった。
「やーなー…?」
すると、弥做は至近距離で視線を合わせてきた。
「お兄ちゃんの目、すごい綺麗だね…」
「よく言われる」
「こんなしっかり見たことなかったから。ほんと綺麗。サファイアとか、鉱石のラピスラズリみたい」
そう例えられるのは初めてだ。そこまで綺麗なのか。
「そうかそうか。なるほど、綺麗か」
弥做をそっと下ろす。
「お兄ちゃん、いってらっしゃい!」
「あぁ、行ってくるね」
「八重先輩、恋愛小説に興味ありますか……?」
目の前で課題をしている、八重先輩に声をかけた。
「恋愛…? またどうして…? 確かに、読むっちゃ読むけど、どうしてか、大体同じような展開なんだよねぇ。さっきまで読んでたのもそうだけど…」
手を止めて、私の前に一冊の文庫を出した。『北の渚』というタイトルだ。作家は知らない。恋愛小説など読んだことないが、大体は両思いオチに終わると言われている。
「いやいや、しかし、高校生ともなれば、恋多き年頃か」
「八重先輩は、想い人とかいらっしゃいますか…?」
「いや、いないよ。あんま興味ないし、それに、こんな根暗な奴を、好く物好きいると思わないし」
「ご謙遜を……」
「おっとっと失礼…じゃないか。だけど、したいっていう欲っていうの? 興味はあるなぁ。いい気分になるっていうけどさ、どんな感じなんだろうなぁ…ってね」
こんな事を半ば露骨に発言する人を初めて見た。
「君はどうなの? 天才藤九郎君?」
「千影です」
「おっとっと失礼」
「私は特に興味ありません」
「知識は…? ていうか千影君、君、官能小説とか真顔で読んでそうだよね」
「知識はまぁ、保健体育で習う程度は。官能系は読んだことないので、解りませんが………」
読もうとも思わないが。
「ふーん、そっかぁ。まぁ、そういうのは人それぞれだからね。…僕も興味あるとは言っても、する相手がいないから、恋人は本かな…?」
「なんでしょう、らしい感じがします」
「僕もそう思うよ」
教科書を一旦閉じて背もたれにかかると、八重先輩は長い前髪をかきあげた。やはり綺麗な顔をしている。鼻筋が真っ直ぐ通っていて、唇は薄く、淡く色付いている。開かれた目は、日本人離れした碧眼があった。
「ハーフ、ですか…?」
「あぁ、うん。母親がウクライナ人で。加え父親がイギリス人とのクオーターでね。果たしてジャパニーズの血は入っているのか不安になるねぇ。おかげで小さい頃は、よく解らない料理ばっか食べさせられたモンだよ。解ったことは、イギリス料理は日本食に勝てないってことかな。母親の作るボルシチは美味しかったけど。元々ソ連の一部だったからね。僕は母親に似たのか、そっちの方が舌に合ったなぁ」
「先輩、顔、綺麗ですよ。ウクライナは、世界一綺麗な女性がいるところで有名ですから」
「へぇ。それは知らなかったなぁ。僕は自分の目の色の事でからかわれたからさぁ、顔はこの通り隠してるんだよ」
「そんな勿体無い。先輩、せっかく綺麗ですのに…」
すると、八重先輩の目がこちらを向いたと思ったら、ゆっくり立ち上がった。前髪が再び下がる。何か言いたいのか、足を私の方に進めてきた。
「…駄目だよ、千影君。無闇に人のこと綺麗だとか言っちゃ」
「え……」
「特に、君みたいな人はね。やっすい社交辞令でも嬉しくなっちゃう、普段あまり人と関わりを持たない僕みたいな人間が、気をよくして寄ってきちゃうよ…?」
「は……」
「大分遠回しに振ってくれたけど、バレバレだよ? 君と恋愛は無縁だと思ってたけどなぁ。そうかそうか、天才藤九郎君は今誰かさんにお熱な訳か……」
「千影です。…ていうかま」
「……いや、お熱なのは相手の方と見た」
なんだ、なんだいきなり。しかし、当たっているといれば当たっている。いやむしろ、ドンピシャである。私はらしくもなく、冷や汗を流して下唇を噛んだ。八重先輩はそれを見て、口角を上げた。髪の隙間から見える碧眼と合わせて見ると、本当に綺麗な顔をしていると再度思う。
「どう? 千影藤九郎君…?」
お約束であったら、自分の中の緊張が少しでも解けただろうに。八重先輩は更に私に迫り、後退りしようとして、椅子と床が擦れる音が教室に響く。呼吸して息がかかるのではと変に気を遣い、息さえも止めてしまう勢いだ。
「あ、あの…その……」
「ん? なに……?」
その時、いきなり扉が開いた。私も八重先輩も驚いて、扉を見る。そこにいたのは、私のよく知る人物であった。
「…おや、君は……」
「す、菅野原…」
「……千影…?」
菅野原葵だった。私ももちろん、菅野原も、状況を飲み込めない顔をしている。沈黙の中、しかし八重先輩に目線を向けると、その顔は笑っていた。それに疑問を感じた瞬間、普段の気だるさ漂わせる、八重先輩から想像も出来ない速さで、手が回ってきた。それも、ただ回ってきただけではない。
「………!?」
焦った。八重先輩の顔が迫り、唇が頬にギリギリ触れた。キスとも呼べないほど、掠る程度のもの。
だが、私には解る。菅野原の位置から見た我々は、八重先輩が背中を向けて、私に覆い被さっているような構図である。つまり、いくら八重先輩が私にキスしていなくとも、菅野原から見れば、遠近法からしてどうしても、私と八重先輩がキスしているように見える。
何故このような事をしたのか。私はおそるおそる、八重先輩の身体の隙間から、菅野原を見た。
「…………」
あぁ、やはり、そういう顔をしてしまうか。
罪悪感と胸の痛みがこみ上げる中、彼は瞬き一つせず、微動だにせず、ただこちらを見ていた。
「…い、いや……ちが…っ、これ…わっ!?」
いきなり八重先輩の腕に抱かれた。咄嗟の事で、私の身体も硬直する。そして私を立たせ、八重先輩はわざと見せつけるように、身体の向きを変えた。
「やぁ、お噂は兼ね兼ね。バスケ部の期待の星、頼れる色男、菅野原葵君。こんな変境地にわざわざ足を運ぶとは、もしや千影君のためかな…? だけど生憎、僕は千影君と今、取り込み中なんだ。悪いけど……」
やめろ、余計な事を言わないでくれ。聞かれたくない。違う、違うんだ。こんなの、違う。
「………っ」
「菅野原っ!」
菅野原はその場を去って行った。いなくなった途端、八重先輩は呆気なく私を離した。身体がよろけ、膝をその場につく。が、私は直ぐ様、八重先輩を睨みつけた。
「………?」
「どういう、つもりですか…っ」
「………?」
まるで、何事もなかったかのような顔で私を見た。すると、扉を指差す。
「追いかけなくていいの…?」
そう言われ、私は扉の方を向く。しかし、もう一度八重先輩を見ると、小さく頷いて見せる。私は立ち上がると、菅野原の後を追った。
部活棟の出口のところまで走った。苦しくなるのは解っていた。だが、一刻でも菅野原に訳を話さなくてはならない。一階まで駆け降りて、左を見ると、菅野原の背中が見えた。
「菅野原…っ!」
酸素もろくに入らない僅かな息で、必死に菅野原を呼び止めた。菅野原は背中を向けたまま止まってくれ、私は胸を押さえながら駆け寄った。
「……菅野原…」
反応がない。私は呼吸を整えた。
「…違うんだ。はぁ、あ、今のは、先輩が勝手、に…」
「…………」
「菅野原…。だから…」
「もういいよ」
−−−……………。
その一言が、一瞬にして、私の呼吸を止めた。
−−−なんだ、何なんだ…。この気持ちは。この、息が詰まる感覚は…。
発作の時と違う。
痛い。
「…もういい。もういいよ、千影」
「す、がの、は…」
「じゃぁ、俺もう、行くな…」
私と目を合わせることなく、菅野原は部活棟を出ていってしまった。
一人、静まり返った部活棟に残されると、私はゆっくり息を吸い込み、その場に膝を着いた。
「はぁ……はぁ…っ、ぁっ、はぁ…」
痛い、痛い、痛い。
息が上手く吸えない。息の吸い方も忘れるほど、頭もぐちゃぐちゃになり、目が回る。胸を押さえていた手が床にずり落ち、身体も前にぐらりと倒れた。
「ゴホッ、ゲホッ、ゴフ…ッ!!」
発作だ。いつもよりまずい。メプチンに手も届かない。
よく解らない胸の痛みと、発作の痛みにやられて、私の視界は狭まり、やがて何も見えなくなかった。