:藍色の天才と苦悩3
「うっそ。千影君、葵の友達だったの!?」
菅野原の姉、菅野原摩季さんと、少しばかり話すこととなった。菅野原違いとも最初は疑ったが、雰囲気と目元、あとテンションからして、菅野原葵のことを振ると、ドンピシャで実姉であった。菅野原とのことについては、中学からの付き合いと付け足して、それ以上は言わなかった。
「そうだったんだ。いやぁ、びっくりしたよ。あいつもすごい友達もっちゃったモンだ。弟がお世話になってるでしょ。ごめんね?」
「いえ、むしろ私の方がお世話になっています。菅野原には、いつも助けられて」
「本当に? まぁ、それならそれでいいや。なんかしたら、ブッ飛ばしていいからね!」
こういうところが似ている。菅野原も付き合いの長い身内には、このような冗談を言っていることが多い。だが、このお姉さんの言っていることは果たして冗談だろうか。笑ってはいるが、失礼ながら彼女の顔からは、遠い過去、菅野原葵を些細な事でも容赦なくシバいている画が想像できた。
「あいつバスケバスケで、おまけに馬鹿でめんどくさいけど、仲良くしてあげてね」
「……はい」
ふと、北校舎での出来事を思い出した。菅野原の唇が吸い付く感触がまた蘇り、口元を手で覆い、その中で唇を舌で舐める。
「どうかしたの? 顔赤いよ…?」
「い、いえ……。今日は少し、疲れて…」
「うそ、ごめんね。引き止めちゃって。…あ、そうだ」
お姉さんは買い物袋から、清涼飲料を出すと、私の手に持たせてくれた。
「あげる。これ飲んで寝て、明日万全で学校行ってね! あと、改めて、葵をよろしくお願いします。じゃぁね!」
こちらの返事を聞かずに、お姉さんは行ってしまった。
もらった清涼飲料は、冷たかった。
帰るとナナが出迎えてくれた。いや、単に飯を寄越せと寄ってきただけか。
「ただいま、ナナ…。ご飯用意するから、待ってて」
玄関をしめ、買い物袋をキッチンに置こうと足を運ぶ。学ランを着替えてから、ナナの餌を用意した。
「………」
それが終わった途端、私はすぐにソファに横になった。部屋には、ナナが微妙に動くたび聞こえる首輪の鈴の音と、餌を噛み砕く音が聞こえるだけで、私の部屋は静かであった。こんなにも静かだったのだと、改めて思った。
カーテンを閉めて、風呂に湯を張って、夕飯を作って、それを洗って、洗濯物を畳んでしまわなければならないのに、その一連が面倒であった。今日ほど面倒だと思った日はない。私は目を閉じた。
「……わたしのただひとつの愛が、わたしの憎しみのなかから生まれたなんて……」
私は続けた。
「ああ、悲しい。これほど、これほど、これほど悲しい日はない。これほどいたましい日はない、これほど悲しい日はない。まさか、こんな日をみることになるとは。ああ、いまわしい、いまわしい、いまわしい。これほど暗い日は、みたことがない。ああ、悲しい、悲しい、悲しい……」
「ああ、あの岸には野生のタイムが咲きほこり、サクラソウとうなだれたスミレが生えている。その上には、甘い香りのスイカズラが、かぐわしいマスクローズや野バラがしげっている。そこにタイテイニアはときどき寝ることがある。花とダンスと喜びにひたって……」
「『殺せ!』と叫び、戦いの猟犬を放ってやる。そして、この卑劣きわまりない暗殺の悪臭で地上をおおってやる…」
………。
「生か死か、それがむずかしい。悩み苦しむ者にとって、どちらが尊い? 残酷な運命の弾や矢に苦しむべきか。それとも、騒ぎたつ困難の波にむかって武器をとり、敢然と立ちむかい、それを終わらせるべきか。死んで永遠の眠りにつけば肉体につきものの苦しみは終わる。願ってもないことだが、眠りにつけば、夢をみるかもしれない。そう、それがいやだ……。死の眠りについたとき、どんな夢がやってくるかわかったものではない………」
そこで止まった。我ながらよく覚えているものだ。目を開けると、不思議に思ったのか、ナナがいつの間にか私の横で顔を伺っていた。
「…あぁ、ナナ。今のはシェイクスピアの作品の一説だよ」
「ニャー……」
「…て、言っても解らないか。……おいで……」
手を背に回すと、ナナは私の胸の前で丸まり、私はその小さくなった身体を抱いた。こんなに小さいのに、ちゃんとした温もりがある。
「…わんぱくな少年たちがつかまえた虫を殺すように、神々はわれわれを気まぐれに殺す……」
何故か過ったリア王の一説を読んで、私は目を閉じた。
「……しまった! 寝過ごしたっ!!」
起きた瞬間にこんな声が出るものか驚いたが、時刻を確認すると、午前五時であった。大分を通り越して、自身でも驚くほど寝入ってしまった。
「………」
気持ち悪い。部屋の空気がやけにこもっているのだ。私は口を押さえながら、もそもそと起き上がると、玄関に向かいドアを開けた。朝の冷たい風が流れ、明るむ空が見える。首や頬を撫でる風があまりに心地よく、肺に入る新鮮な空気に身体の力が思わず抜けてしまい、その場で膝をついてしまった。
「………はぁ、はぁ…ふぁ…ぁ…」
朝一番の欠伸を漏らすと、ナナが横に並んで、欠伸をした。
さてどうする。もう寝れる気分にはなれない。とりあえず、食べそびれたご飯を頂いてから、だ。
「………」
かなり早いが、学校に行こう。
「藤九郎兄ちゃん、おはよう」
近所の真宵神社の鳥居の前で、知り合いの小学生に出会った。黒いお下げの、見た目からおしとやかさを感じるこの子は、桜庭 弥做である。
小さい頃にお守りをしたり、朗読してやったり、親の代わりに入学式に出席したりと知り合い以上に世話をしていたせいで、私は弥做からお兄ちゃんと呼ばれている。
その弥做が、こんな早朝に寝床から出て、鳥居の前を竹箒で掃除をしている。
「おはよう、弥做…」
竹箒を立て掛けると、弥做は私に抱き着いてきた。いつものことなので、私はその頭を撫でてやる。
「もう登校するの…? なんでこんな早い時間に…?」
「早く起きてしまって、することがないんだ。…弥做は偉いな。もう起きて家の手伝いか…?」
「エヘヘ……」
素直に照れる。なんとも可愛らしい。
「弥做は将来、いいお嫁さんになるね」
「え、えぇぇ…っ!? そ、そそそ、そんなことないよぉぉ〜……」
そのわりには発言が弱々しいな。確かに、将来期待を寄せたお父さんみたいな台詞だが、いくらお兄ちゃんと慕っていても、恥ずかしいものなのだろうか。
「で、でで、でも、お、お嫁さんになるなら、と、藤九郎兄ちゃんのお嫁さんになりたいな〜……なんて…」
「…………」
いや、解ってる。さすがの私でも、ここまで白々しくはない。しかし困った、どう返せばいいのだ。確かに、同年代に弥做のような女性がいたら、それはそれで理想のお嫁さんだ。だが、私にとって、その理想に一番近い存在がこの目の前にいる、私から見ればまだ初々しい小学五年生の女の子である。その差は七歳、男子高校生と小学生。私は断じてロリコンではない。かといって、同年代の異性も気にしたことはないのだが。しかし、このまだ純粋なおさげ少女に、私はトドメと言わんばかりの発言かつ、性癖の誤解を招かねない発言はできない。では、どう返せばいいのだ、そのまだ希望に満ち溢れる目になんと返せばいい。
「弥做が、私を振り向かせることが出来たら、いいよ」
何故上から目線なのだ。いや年齢的にも身長的にも合ってはいるが。そうではなくまずい。大人びているがあくまで小学生の弥做は、勢いで親父さんに話すかもしれない。そうならないでくれと親父さんを信じたいが、もし親父さんが娘溺愛歴十年であった場合、私の『死』という名のフラグが立ってしまう発言をしてしまった。
「ほんと!? ほんとに!?」
「うん、約束」
更にバキバキに立たせてしまった。
しかし弥做は嬉しそうだ。だが、いずれ忘れてしまうだろう。
「でも弥做。弥做はこれから中学、高校と上がっていくんだよ? …弥做の人生はこれからなんだから、いろんな人と出会っていく内に、私よりいい男性がきっと…」
「ううんっ! ボクはお兄ちゃんと一緒がいいのっ!! お兄ちゃんとじゃなきゃイヤだ!!」
これは実にまずい。もう一度断っておくが、私は淑やかで落ち着き、かつ積極的で行動的な子が良いと思っているだけで、ロリータコンプレックスの性癖はない。ここはそれらしく流すとして、もし私がフラグに掛からなく、成人まで生きていられたら、今の発言を彼女の純粋枠に採用して、将来思い出に浸ろう。
だが、ここまで言われるとは。他のところで口走らないように釘を刺しておかなければ。
「ありがとう、嬉しいよ」
違う。お礼を言うのも筋だろうが、先手は違うだろうが自分。
「でも、他のところで言っちゃ駄目だからな…?」
「どうして…?」
私はいつまでこの無垢純粋な少女の前で、建前を並べなければならないのだ。
「二人だけの秘密だから…?」
しまった、疑問符が付いてしまった。私はどこかの、蒼い瞳を持った全身黒の好青年のように笑顔を常時張り付けることはおろか、こんな演技すら様に出来ない。…待て、全身黒の好青年とは誰のことだ? まぁいい、さて、弥做の反応や如何に。
「二人…。二人だけ……!?」
こうかは ばつぐんのようだ。
「うん、秘密! 誰にも言わない! お兄ちゃんも言っちゃ駄目だよ!」
「解った、言わないよ」
言えたものか。
「じゃ、またね」
「いってらっしゃーい!」
どうか弥做が、某ロールプレイングゲームの二つ結びの幼女に用いられるギャグのように『付き合いって大変だな』とか言ってないことを祈り、私はその場を後にした。
いつもより二十分ほど前に来てしまった。私が来る時間も人がいなくて、教室の状態も変わりないのだが、何か雰囲気が違う。とりあえず、席に着くことにした。
「…………」
静かだ。自分の息遣いも聞こえ、秒針が進む音が確実に聞こえる。放課後のように外も騒がしくない。いつものことだ、そうなのだが、静まり返った校舎はいつも以上に私を開放的にする。
「藤九郎君…?」
聞き慣れた声の先には、肆揮がいた。足音に気付かないとは。そこまで呆けていたらしい。
「おはよう、肆揮」
「おはよう。今日はやけに早いんだね」
「夕方に寝て、早朝に目覚めてしまってな」
「また随分寝入ったね……」
「あぁ、私も驚いている。そういう肆揮はどうして早朝に…?」
肆揮は私の横に立った。
「昨日のアレ……。大丈夫か、心配になって…。この時間なら藤九郎君いるかと思って来たんだ」
「…………」
「…あ、ごめん。逆に思い出させちゃった……かな」
私が相手だからだろうか、肆揮が気を遣うとは。いやそれは失礼か。
「いや、気にするな。もう、終わったことなんだから」
「だけど…っ!」
「肆揮…っ」
私は控え目に吠えた。肆揮は口を結ぶ。
「……ありがとう、気にかけてくれるだけ、私は充分嬉しいよ。…私はもう大丈夫だから…」
他人を巻き込むべきではない、これは自分の問題だ。それに、これ以上悩み事を増やしたくない。私はずっと、平気を装い、仮面を被ってきた。今更やめろというのが私にとっては無理な話だ。
「アオちゃんは……?」
指先が小さく反応した。
「藤九郎君がアオちゃんにしたこと気にしてるなら、アオちゃんにはどう言うの?」
「…………」
「…話すの?」
「それは出来ない…っ」
気にしてないと言えど、骨がいる。それに、そんな勇気、私にはない。
「…だけど謝る。そうしないと、私も菅野原も気分が悪いだろう」
とにかく、菅野原に早く謝らなければ。だが、やはり、
「…………」
いつか、言ってしまいそうな気がする。
「アオー。天才がお前呼んでるぞ」
「天才…? 一体だ……って千影…?」
昼休み、クラスの生徒に呼び出してもらった。菅野原はすぐに来てくれたが、その表情はどこか曇っている。
「どうした? 珍しいな、お前がこっちにくるなんて」
私は目線を下に落とす。
「…場所を変えてもいいか?」
菅野原が返事をしてくれると、私は立ち入り禁止の屋上前に行くことにした。私が教室から出るのは、基本、トイレか移動教室の時だけだ。それ以外だからか、周りの目がこちらに向いていなくとも気になる。そんなことを思いながら、薄暗い屋上前で足を止めた。
「…菅野原、その、昨日、は……」
いざ菅野原の目を見て謝ろうとしたが、言葉が詰まった。何故だ、たった一言だけのに、どうしてこうも喉につかえるのだ。
「…昨日? …あぁ、アレな」
「ごめん、あれには訳があ…って……。……っ」
菅野原は優しい。故に、その優しさに甘えていってしまいそうになる。
「決して、菅野原が嫌いな訳じゃないんだ……。あの時は……あの…」
あぁ、情けない。まずい、自己嫌悪か涙腺が緩み始める。早く、早く言わなければ。
すると、私の頬に温かい手が触れた。その手が移動して、私の頭を優しく撫でてくれた。
「……好きなんだろ、俺の手」
くしゃりと髪を掻き回され、私の細い髪を指の間に通して、毛先を弄った。私が顔を上げると、菅野原は笑っていた。
「あの時は払われたけど…。どう? あの時みたいに、落ち着く…?」
菅野原の手は、再び頬をなぞり、耳の下からまた頭を登り、柔らかく髪を撫でられた。やはり、心地よかった。私はそっと、菅野原の手に触れると、小さく縦に頷いた。
「…それならいいよ。お前だけに限らず、誰にでもいろいろあるんだってことは解ってるから。…だから、千影のそれが何かは聞かない。けど……」
菅野原が膝を曲げて、私と目を合わせると、指で私の目尻に浮かんだ涙をすくった。
「千影がどうしても、苦しくて、重くて耐えきれなくなったら、その時は千影の力になりたい。…俺じゃ頼りないかもしれないけど、俺は、そういうところも含めて、千影を好きでいたいから…」
優しい。菅野原は優しい。危うく、それにすがってしまいそうになる。それを望まれていても、私にはまだ出来ない。
「……どうしてそこまで、私を…」
「俺も最初は解んなかったさ。関係でいえば、中学時代からの男友達だもんな。…最初は疑ったよ。だけどやっぱり、単にお前が好きなんだ」
そう言って無邪気に笑うと、頬を軽くつねられた。
「ハハッ、変な顔…っ」
「ば、馬鹿、やめろって…」
払い退けようとするが、菅野原は両頬を引っ張る。
「…す、しゅがのはりゃ…」
「ハハッ、なんだよ。なに言ってんだか解んねぇって」
舌が上手く回らない。菅野原はやけに楽しそうだ。
「…好きだよ、大好きだよ、千影。まだ解らないなら、それでいい。…でも、答えを待つ間に、我慢しきれなくなっちまうかもしれない。…だから千影、俺がまたキスとかしそうになったら、止めてくれ。お前から返事貰えるまでしないって、約束するから……」
至近距離から見る菅野原の目は、真剣そのものであった。
「…触れるの我慢してるとか言っておいて、今もがっつり触ってるしな」
しかし、からかうと菅野原は顔を赤くした。
「な…っ! だから、言っても我慢しきれないんだって! …あぁ、くそ、俺、決心緩すぎだよな……。だけど、今言ったことは本当だから…! 約束するよ」
「わ、解った。…んぅ……」
頬を両側から撫でられた。
「でも忘れないでくれ。返事貰うまでとはいえ、俺は千影にこうやって、振り向いてって必死になる。…けど、解ったんだ。いくら好きだからって、お前にキスしたり抱き締めてっていう、愛情の表し方って、それもいいと思うけど、なんか違うって。だから、もうこうやって、あからさまなことはしない。好きだって言うのも最後。だから、普通の俺を好きになってほしい。キスするのも、抱き締めんのも、好きっていうのも、それが出来なくても、全部お前から返事貰ってからにする」
「うん……。うん、解った。ごめん、ありがとう…」
そう言うと菅野原は笑って、また頬を軽くつねり、とどめと頭をくしゃりと撫でられた。その状態で顔を上げると、私は自然と菅野原を見て、笑みが零れた。
まともな愛情を受けなかった私にとって、菅野原がここまで想ってくれることに、ただ素直に嬉しかった。
……嬉しい…?
「…………」
……………。
「……菅野原…?」
「え、あ……っ!? い、いいいいや、なな、なん、なんでもない…」
明らかに何かあっただろう反応をする。よく見れば顔も赤いではないか。
「ほ、ほら、もう昼休み終るぞ…! 帰ろうぜ!」
顔を見せまいと庇いながら、菅野原は去っていった。
「……………」
千影が、笑った。
「〜〜〜〜〜〜〜っ」
ものすごく、可愛かった。思い出しただけでも、顔を覆い隠したいぐらい恥ずかしい。胸が焼かれそうで、うまく息が吸えない。わなわなと動く手をなんとか口を覆い隠すのに使っているのがやっとで、あの時、リミッターが掛からなかったら、俺は千影を押し倒して、そのまま…。あの無情にもほどがある、千影藤九郎の笑顔が、ここまでの破壊力を有するなんて。
「…………」
独占したいと思った。幼馴染みの瀬能ツインズは、きっと千影の笑顔を見たことがあるだろうが、それでも、あの無情な藍色の天才の目に、自身しか映らないようにしたいと、本当に、本気で思った。
好きになってほしい、ではない。好きになってくれと、とんでもない我儘が、自身の本音だ。
「……千影…」
あぁ、頼む。こんなどうしようもない我儘を抱えて、こんなどうしようもない嫉妬心と独占欲を持って。だけど、こんなにどうしようもなく好きになってしまった、狂おしく愛してしまった自分を、どうか。
「……ほんっと…。どうしようもねぇな、俺…」