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短編

空街少年

作者: 黒檀






ソラマ島の話をしよう。

できるだけ克明に、ぼくが見た世界を説明しよう。


ぼくの友人、ホサカについて話をしよう。

結末はまだ先だから、ぼくと彼の出会いと、ラクダという男について。


君が聞いていなくても構わない。

君はそこで目を閉じて、海に浮かぶ巨大なコンテナの山を思い描き、波の音に耳をすませているだけでいい。




だからもう一度言おう。

君は話なんか聞かなくていい。










挿絵(By みてみん)










「カミは在るのに、カミが無いとはな。」


 驚きだな、と母さんは言っていた。

 ソラマ島のことだ。

 当時の僕よりも背の高いライトテーブルの明かりを下からうけて、挑戦的に見えた表情は今でもよく覚えている。

 それから間も無くして、彼らはソラマ島へ向かった。そして僕は両親をなくした。信じられないほどの、突発的で圧倒的な嵐の前に、J社の某F機はまるで歯がたたなかった。だから僕は未だに、空を飛ぶものが嫌いだ。

 僕に不幸せな幼年時代をもたらしたのは何か、と聞かれたとして、その答えを迷うことも間違えることもない。他でもないソラマ島だ。僕が15際の時、この島について知られていることも語られることも多くはなかった。興味を持つ人どころか、存在さえ知らない人のほうが多かった。しかし、好奇心旺盛で、遵法意識の低かった型破りな研究家ふたりは、その島が存在するがゆえに命を散らした。文字通りに。


 

 揺れの少ない水上バスは、静かにソラマ島へと近づいて行く。外部の存在を寄せ付けまいとする雨雲は厚く、いびつな島の形をよりおどろおどろしく見せた。船の中では、透明ながら重厚な屋根が雨風から僕を守ってくれる。恐れる必要なんてなかった。

「205697465号」

 ヒステリックに呼ぶ声がする。この船の中に限っては、僕の名前は205697465号だ。頬に丸みが残った水平服が眉毛を釣り上げていた。

「1300に着く。荷物をまとめろ」

 海兵たちは、ゴミを見るような目をするのがほんとうに上手だ。僕はうっすら笑った。

「まとめるものなんて。荷物はこのかばん一つ。君たちが指示したことだ」

「口ごたえをするな」

 自分のほうが大した存在であるのだと誇示するように、彼はまた叫んだ。人を力で制することを甘んじて受け入れることができた人間だ。でも、声を張るとどうしても甲高くなってしまうみたいだった。

 僕は日時計を懐から取り出す。間も無く正午から一時間が経つところなので、彼の急いた様子に納得する。

「出口前に移動し、両手を体に付けた姿勢で待て」

 背中に銃創を突きつけられ、多くの海兵たちのニヤニヤ笑いに見守られながら行進した。キャンバスシューズのゴム底が、キュッキュと、絞め殺される生き物の断末魔のような音を奏でる。


 曇りは解消されつつあり、巨大な人工物の山は陽の光を反射する。

 ソラマ島に降り立つ方法は、僕の知る限りたった一つしかない。世界でいちばん駄目な15歳になること。それだけしかない。行きたくて行くわけではないことを、誰かには知っておいてほしかった。

 やがて島の周囲は、目もくらむような快晴に変わる。水兵は僕一人のために船着場に橋を渡す。塩辛い風が船のなかに吹き込んで、シャツの袖をばたばたと揺らした。

 他に降りるものは何もない。たった一人、ここに置いていかれる。





 水上バスは、僕を船着場に落とすと直ぐに再び海へと出て行った。島の人たちへ挨拶もないし、手続きもない。ゴミを廃棄処分場に置くがごとくだ。だとすれば、大仰なごみ捨てだし、これじゃ不法投棄だ。バスが進み行く海の方を名残惜しく思って、眺めていた。

 彼らが水平線の彼方へ消えたとき、諦めに似た覚悟が決まった。

 海に背を向けた先には、不協和音的に積み上げられた人工物の高い山がそびえ立っていた。ふもとから見ると、この魔の山に親密さはひとつもない。

 建物の中の様子は見通せない。建物、というほど高尚な出来じゃない。行き当たりばったり的にコンテナを重ね続けたみたいに見えるし、実際そうなんだろう。そこにあなを開けて窓を作ったような家らしき代物が、奇跡的なバランスで支え合っている。細胞分裂的に増え続けたキューブのタワー。そんな印象だ。

 無秩序にポールが立ち、先っぽに紐状のものがいく本か絡まっては、また別のポールの先端へと伸びている。ハタハタと色とりどりの吹き流しや、布切れが風になびいている。

 陽は高く、船着場にむかって深い影が落ちている。積み重なった家々の外かべも暗く影の中にあった。錆びて老朽化した壁という壁に絵や文字が隙間なく描かれていて、凄まじい情報の渦が生まれている。

「リョン、45度藻荘に集合 ジニより」なんていう個人的なやりとりとか、

「172度の日に魚配ります」とかいう不特定多数への匿名の呼びかけ。

 あるいは、「こねくとえあをしっているか」「あれっぽひめのあし」という、僕には意味の取れない文。

「我々の総意を軽んじたカヒナ氏に報いを!」「革命! 革命!! 革命!!!」と、政治色を帯びたもの。

 果ては、美しい女性の写実的な絵とともに「ビクニ愛してる!」とかの魂の雄叫び。


 船着場の足場のはるかはるか下方。僕をここへ連れてきた海が、穏やかで小さな波となって跳ねている。それは、僕がもう、この島の外へは出られないことを意味していた。父さんの形見の革のトランクを紐で背中に括り付け、足を踏み出す。

 赤茶に錆びた船着場の鉄くずが砂のようにもろもろになって剥がれた。この足場でさえも、個人的なメッセージと広告で満ちていた。さすがに、壁面の比じゃなく風化しているけど。


 整備された道は見当たらない。

 ただ、可変式のはしごがそこかしこを繋いでいる。遠くで、カン、カン、と金属が鳴る音と、子どもの笑い声がしている。奥に行けば誰かには会えるだろう。無人島じゃない、確認できただけでも心強い。

 梯子を伝って、朽ちた家々の上面を渡り歩いて、限界に突き当たってはまた梯子を登る。その繰り返しだ。ほとんどてっぺん近くまで登りつめた気がするほどだ。怖いので後ろを振り返ることなんてできない。かわりに、陽の光が漏れ出る隙間へと進んで行く。細くて暗い家々の隙間を歩いていくと、突然目の前が開ける。

 広場だ。

「すごい……!」

 高いところまできた、というのは僕の思い違いだ。すり鉢でいえば、ここはまだ底でしかない。まだまだ高いビル状ブロックが遠くに見える。そんな大きな広場に出たのだ。斜面にそって四方八方、坂が伸びている。

 広場で球で遊んでいた子供たちが、僕をみて動きを止めていた。きっと、さっき笑い声を響かせていた子たちだ。みんな、空気を含んだ半ズボンに、憎き水平服を着ている。袖や裾からのびる手足は艶やかに陽に焼けている。

 僕は彼らに近づいてたずねた。

「初めまして。今日からソラマ島に住むことになったんだ」

 うまい言葉が出てこない。

 彼らは、純粋な好奇心で僕のことを見上げる。溜まっていたものが噴き出すみたいに、腹の底から弱り切った声が出た。

「……どうすればいい? わからないんだ」

 彼らは互いに顔を見合わせる。戸惑っている、というよりも、何言ってんだこいつ、という顔つきで。言葉自体は通じているみたいなんだけど。

 リーダー格ふうの勝気な目つきの少年が、みんなを代表するように一歩前に出てきた。

「あっちか、そっち」彼は、右斜め向こうと左手側を指す。

「トキワの家か、ファティの家に行け」

「有力者の家なのかな」

「しらね。でも、ファティのじっちゃんは金魚坂いちのものしりだぜ」

 彼の気分はすでに、ソワソワと球技に向いていた。

 僕はキンギョ坂と言われた方へ歩き出す。下を向いて気付いたけれど、広場の地面に描かれた装飾をよく見たら、入り組んだ案内図になっていた。金魚坂に行くには、赤いラインをなぞるように歩けば良かった。それは川に見たてた意匠らしく、赤い魚が跳ねている絵が散りばめられている。


 なるほど、これは坂だ。

 狭い坂の始点に立って見上げた。坂道の両端にはもう、家々が押し迫っている。広場と坂との接着地点には、妙な雰囲気の赤い石門が立つ。上部中央には、金で縁取りされた深緑の版に、金文字で「金魚坂」と書かれてる。

 石門の足元には、たくさんの風車が生えていて、風に煽られてガラガラと激しく回って揺れている。色とりどりの布の吹き流しがはためき、坂の奥から風が吹きおりてきているのがわかった。

 掲示板も立っていて、やっぱり、お知らせや広告が板に直接、しかも手で描かれているようだ。何度も塗り重ねたようで、ぼってりと重たく塗料が張り付いている。船着場に比べたら新しいけれど、古い塗料が剥げていたりもする。

 石門のすこし奥には、付け足しに付けたしたらしい不恰好な矢印型案内板。ファティの家、との矢印は坂の先を指していた。

 少年に礼を言おうと思って振り返ったけど、彼はもう、仲間との玉蹴りに夢中だった。

 僕は踵を返し、風の流れに逆らうようにして金魚坂の石門を潜った。





◇◆◇





「……いったい、いつになったら、ファティの家とやらに着くんだ」

 汗はとめどなく流れ落ち、何度も額を拭った。前髪は張り付いて邪魔だし、トランクに接した背中はジメジメして気持ち悪い。


 坂に面した家々の素材は、船着場のように明らかな廃コンテナもあれば、土壁やコンクリートのようなものまであった。坂の本筋に面した建物は、庇だったり、屋根の傾斜だったり、ある程度の建物たる機能は備えているようだ。坂の本筋から遠ざかれば遠ざかるほど、建築物はただの直方体になる。坂に従順に設置されているせいか、巨人用の階段とでも言うべき構造を作り出している。

 ところどころ商店が混じるようになってきた。たくさんの人とすれ違ったし、生活者の顔を見ることにもなった。一面ガラス張りのパン屋にはもくもく煙を吐き出す親父さんたちが集まっていたし、プランターに植わったままの野菜を並べている八百屋もある。彼らの表情は明るく、楽天的に見えた。僕が想像していたような、曇天と臭気と暗闇からは程遠い世界だ。

 ベンチが出ている氷屋があったので、座って飲み物を頼んだ。おばさんが、透明な青みがかった液体をコップに入れて手渡してきた。それが何なのか考えるまもなく口に流し込んだ。それだけ喉が乾いていた。海兵は、僕が船上に液体を持ち込むのを許しはしなかったし、液体を持ち出すのも禁止した。

 青い液体は、ソーダのように刺激がある。風味は独特だ。海のように塩辛く、ハーブ水のように香りがあとから効いてくる。身体に染み込むようにうまい飲み物だ。

「おばさん。この金魚坂にファティの家、というのはあるだろうか。ひょっとして、見落としてここまで来てしまったんじゃないだろうか」

 おばさんは、目を丸くしたあとに僕の背中(というか、トランクだ)を叩いて笑う。

「まだまだ先だよ。坂のてっぺん、水瓶広場の手前の屋敷だ」


 おばさんは軽く笑ってくれちゃったけど、ほんとうにまだまだ先だった。トランクの重みに耐えかねて足がぷるぷるしだした頃に、ようやくそれらしき案内矢印が見えてきた。矢印は右手を向き、アプローチのありかを示している。

 アプローチと言っても、大陸においてよくあるようなそれじゃない。プラントに巡らされた足場のような代物だ。他の家の壁や屋根すれすれを抜けて、貯水タンクに片手を預けながら、短い階段を何回か昇り降りして、ようやく、ぽっと抜けた不思議な空間に出る。

「……秘密基地のようだ」

 建物の隙間に広がる小さな空は、額縁で切り取ったかのようだった。そんなエアポケットに、庭付きの平屋と言っても許される家が建っている。ニワトリが地面をつついて歩いている。巨大な陶器や酒ツボが並び、花々と草木が生い茂っている。

 ロッキングチェアには、水タバコを足元に置いた老人が座っている。この人が、少年の言っていたファティのじっちゃん、なんだろう。

「お邪魔します。あなたが、ファティさんですか?」

 午睡を楽しんでいたであろう老人は、目やにたっぷりの瞼をゆっくり上下させた。

 僕は自分の境遇を話し、知恵を授かろうとする。何の手土産も渡さないままに、坂一番の賢人の助けを求めたのだ。すると彼は、黙って僕の手を握る。

「よく、来ましたね」

 うん、と僕は頷く。孫か誰かと勘違いしているのかもしれない。

 しかし、彼は次の瞬間、屋敷に向かって声を張り上げた。

「おおい、ファティ! 来なさい!」

 この人がファティじゃないの、と混乱していると、屋敷の中からドタドタと人がおりてきた。蜂蜜色の髪の、とびきり男前の青年だ。

 つまり、君のことだけど。

 貝殻ボタンのシャツにハーフパンツといういでたちで、つっかけを履いて彼は庭に出てきた。

 トランクを背中にくくりつけた僕を眺め回し、それから老人に言う。

「ファティじいちゃん、誰こいつ。どこの坂のモンだ」

 老人もまた、ファティと呼ばれている。なるほど、と僕は一人合点する。この老人は惚けてはいないし、「ファティ」という名は代々受け継がれているんだと。

 老人は、僕に代わって、ソラマ島流の解釈で僕のことを説明した。孫は、ふうん、と興味なさげに頷いて、僕の背中のトランクを引き受けてくれた。その重さはまったく堪えていないようで、「ついて来い」とたるたると歩き出す。彼の木底のサンダルがアプローチに踏み出され、カツリと小気味の良く響いた。おぼつかない足取りの僕とは対照的に、青年は、慣れた様子でひらひらと鉄板を渡る。

「僕らはどこへ行くの?」

 トランクを肩に担いだ青年は、は? と気だるげに僕を見下ろす。彼は僕よりも頭ひとつぶんくらい背が高い。

「僕ら、じゃなくてシュレイくんが、な」

「うん。では、僕は何に向かっているんだろう?」

「お前の家」彼はさらっと言った。

「家?」

「お前らはそうなんだと。じいちゃんが言ってたぜ」

 そう、とは、どうなのだろうか。お前ら、はどんな集団を指すのだろうか。

 なるほど、とひとまず納得の意を伝えた。

「僕のほかにもいるんだろうか? 外からきた人が」

「そりゃ、いるだろうよ。どの坂にもな。永住者でなけりゃ、物資配達員もよく来るぜ」

「永住者は、何をしているの?」

 彼は大あくびをする。

「生きてるよ。それぞれな」

 青年ファティは、丸まった葉っぱを口に咥えて空を見上げた。

「ファティさんは、……つまり、あなたのことだけど、」

 彼は僕の言葉の続きを奪い、少し気恥ずかしそうに言う。

「俺のことはハチ、って呼んで。なんかこう、ファとかティとか、そういう音がムズッとするんだよね。じいちゃんの名前を聞いてるみてえで変な感じするし」

 わかった、と頷いたのと一緒に、何を聞こうとしていたのか忘れてしまった。


 金魚本舗、とのれんの出た古家具屋の手前で彼は歩みを止めた。さまざまな種類の金魚の、ぶら下げ雛が軒先に垂れている。戸口のカウンター下には地図板が描かれている。これまた装飾過多の楽しい代物だ。

 そっちじゃねえよ、とハチが道の反対側で手招きする。金属の橋を足で踏んで、この横道の奥を指差す。

「ここをまっすぐいくと、階段がある。左に上がれば、少し広い屋上に出る。そこを右向けば、あたりから頭ひとつ飛び抜けた、ツタの絡まった家がある。テラス付きのな。眺めサイコー」

「ちょっと待って。いっぺんには覚えられない」

「大丈夫だって。どうせ一本道だし、行けば分かる。シュレイくんが屋根の上を飛び回る人種ってんなら話は別だが」

「いや。違うよ」

「なら、心配するな。玄関へは、いったん階段を下る。さあ行け。そこがお前の家だ」

 彼は、深い緑のガラス瓶とトランクを僕に押し付ける。

「ちょっと忘れ物。先行ってて。後から行くから」

 彼は気軽に言い放ち、もと来た坂をあがっていく。彼に手渡された瓶は蓋がされていない。中には酸っぱい香りのする液体が入っている。

「ご新居さんかい?」

 家具屋のお兄さんに話しかけられた。セールストークが始まったけど、荷物を置きにいかなきゃ、と彼の話を振り切って、鉄パイプの手すりのついた細い鉄回廊へと逃げ込んだのだった。


 家の間にようやくできている通路は暗く狭かった。突き出た雨樋の下をくぐり、ゆらゆら取れかけている手すりに肝を冷やされる。ファティの屋敷へのアプローチよりも狭く気難しい足場を辿って行く。今度は両手がふさがっているぶん、より慎重に進む。

 鉄階段の終わりから、光が差し込んでいるのが見えた。のぼりきると、鉄の足場は途切れた。そこから先は、石造りだ。蔦が萌えに萌えている立方体の頭が見えた。僕はここに来て始めて小走りになる。 階段を降りて、目指すはテラスだ。

 ハチの言ったとおりだった。

 壮観だ。

 斜面を、さっきの広場さえ見通せる。突き抜けるような空と海の青には終わりがない。塩っぽい風が、僕の汗まみれの全身にぶつかってくる。ここが今日から僕の家なのだと思ったら、憂鬱な気分は吹き飛んでしまった。早く中に入って休みたい。

 家の扉は、石造りの引き戸式でとても重たい。扉を開けることだけに集中していたのだから、中がどうなっているかなんて気を払う暇もなかった。それが悪かった。まったく知らない誰かの乱暴な手によって口をふさがれ、中に引きずり込まれてしまった。





◇◆◇




 両手の自由と発言の自由を奪われて、僕は床に転がされていた。布の猿轡を口に突っ込まれて、ほとぼしる叫びを全部飲みこまないといけなかった。

 僕をこんな状態にした二人の賊は、革鞄の中身をひとつひとつ検証していた。

「動物革だ。高く売れるぞ」

 長ズボン一枚だけを着た男は、下品な笑みを浮かべ、相棒らしき金髪の男を見上げる。金髪の男は、僕から少し離れて立っている。長ズボン男の感想ひとつひとつに、口の端の笑みだけで返事をしているようだった。

 あとから行く、といったファティ三世は一向に現れない。胃が血を流すような焦りと危機感を感じながら、彼らが何も持っていきませんようにと願う。

 長ズボン男は、僕のなけなしの服を広げて目の前に掲げては、脇にポイと投げ捨てる。

 にわかに彼は、トランクの底深く沈めていた僕の日記と図鑑と、童話集や地図本など幾冊かの本に目をとめた。彼はそれを抜き取ると、ぶんぶんと上下に振った。背表紙を親指と人差し指でつまんでみたり、表紙の装丁をはがそうとしたりする。

「おい、坊主。こりゃあ何だ。貴重なもんか?」

 僕はいいえ、と言ったつもりだ。唸っているようにしか聞こえなかっただろうけど。すると、金髪の男のほうが気を利かせて猿轡を取り外してくれた。かと思えば、素足で僕の頬を蹴りつけた。

「腹を蹴るのは嫌なんだ。始末が汚いから。彼に聞かれたことだけを端的に答えてほしいと思う」

 叫んで助けを呼ぼうとした僕の試みは、先んじて封じられた。それでも、金髪男はずいぶん手加減してくれたみたいだ。口のなかを切っただけで済んだ。めまいもない。たしかに、今この時点でこれ以上痛くされて再起不能になるのは避けたかった。

「……それは、」しゃべると口の中がじんじんと痛んだ。「本だ。貴重でも何でもない。ありふれたもの」

「ホンだあ?」

 長ズボンの男は、疑い深い表情で言った。図鑑を取り、カレンダーをめくるようにしてパラパラと流し見る。童話を手に取り、「ぷろっぷはいわのうしろにかくれて、おおかみをやりすごしました」という一文を読み上げて首をひねる。

「……てめえ、何者だ」

「15歳の平凡な男子」

「嘘つけ。何を隠してる」

「何も。僕は普通だ」

 立ったまま僕らの問答を眺めていた金髪は、ふいに口を開いた。

「自分で自分のことを普通だと言う人間は、最も警戒すべき人間だと俺は思う。そうでなければ、他者性を赦さないファシストだ」

 僕は彼を見上げた。彼は、仲間にではなくて僕に話しかけていた。とても穏やかな調子で。なぜ、いまここで、偏狭な人間論になるのかさっぱりわからなかった。

「断然、『普通』を自称する人間は前者である確率が高いと俺は思う。むろん、おまえさんもね」

 気味が悪い。金髪男はにっこり笑い、僕の頭をつま先でぐりぐりと回して仔細に観察する。

「ゲン。この坊やは、『外』から来たのだと思う」

「……なるほどなあ。『流刑者』ってわけか。久しく見てねえな。だとすりゃ、吟味する意味もねえや。ぜんぶお宝だ」

 長ズボンの男は、合点した顔になって笑った。彼は再び、僕の服を鞄に詰め込み始めた。金髪男のほうは、「ゲン」によって散らかされた本や図鑑を腕に抱え込んだ。

「……それをどうするつもり?」

 長ズボンは、トランクの蓋をこれみよがしに押し閉めて笑う。

「どうするってそりゃ、……売るんだよ。どうしても取り返したきゃ、市場で高値で買ってくれよ。歓迎するぜ?」

「ふざけるな!」

 口中に痛みが響いた。トランクを抱えて気分よく出発しようとしていた長ズボンは、物騒な顔つきで振り返るが、金髪男のほうが彼を制した。金髪男は、ゆっくりと片膝をついた。

「利口そうな目をしているのだから、この島に『紙』が無いということぐらい、おまえさんは察してもよかったと俺は思う」彼は残念そうに言った。

 紙が、ない? 僕は彼の言葉の一部を抜き取って、その味を確かめるみたいに繰り返した。男は、うん、と頷き僕の横っ面に厚い童話集をこすりつけた。本の表紙の汚れを、人の肌で拭き取ろうとしているかのようだ。

「『神の御業』とでも言えばいいのか、」ごくまじめに、言葉を選んでいる様子だ。「だとするならば、在り難くあるべき神の痕跡が氾濫していては困るだろう? だから回収させてもらおうと思う」

 それを言うなら、回収じゃなくて没収だろう。

「おめー何わけわかんねえこと言ってんだよ。ずらかるぞ」

 長ズボンの男は、早く行きたそうにイライラとしている。こればっかりは、僕も長ズボンに同意せざるを得ない。金髪男はまるで相手にしていないけれども。

 どう転んでも盗人なのだから、彼らふたりの人間としての品格はどっこいどっこだ。なのに、長ズボンと金髪男の知能レベルは、坂の始点と終点くらいの落差がある気がする。どちらにも識字能力はあるけれど、金髪はたぶん「本」も知っていて「紙」も知っている。長ズボンはどちらも知らない。

 そのちぐはぐ感は、役所の待合室で出会ったまるで接点のない二人といったところ。バックボーンが大いに異なる二人が、強盗という目的のために手を組んだような。

「……困るのはこっちだ。本だけじゃない、ぜんぶ大事なものなんだ」

「過去の荷物などないほうがいい。過去は足を引っ張るだけ引っ張って、新しいおまえさんには何のたしにもならない。俺はそう思う」

「僕はそうじゃない」

「それは、おまえさんが過去に執着しているからだ。一度手放してごらんよ。きっとすっきりするし、なくなったところで何の問題もないことに気づくと思う」と金髪男は言った。

「ラクダ! さっさとしろ!」

 ぷっつんきてしまった長ズボンが、いよいよ扉を開け放った。ラクダと呼ばれた金髪男は、僕の両の襟を掴んで上半身を持ち上げる。より近づき、ほとんどささやき声で言う。

「おまえさんを見逃そう。恥知らずにも『普通』を自認してみせる人間の野心の成就が愛おしい。それがいかなる文脈であろうと」

 つられて僕も、歯ぎしりするように低い声になる。

「ならば僕は、お前の望む『普通』じゃないと告白する。世界で一番駄目な15歳だ」

「その言葉は受け付けない。なぜならおまえさんは、自分で自分を駄目だと思っていないから」

 ラクダと呼ばれた金髪男は、じゃあね、と呑気な別れのあいさつを放つ。

「せめて縄をほどいてくれ」

 金髪男は立ち止った。日記と図鑑と、童話集と地図帳と、その他の本を抱えて。彼は半分だけ振り返る。戸口からは陽の光が差し込んでいて、彼がどんな表情をしていたかまではわからない。

「必要ないだろう。そのナイフでさっさと切ればいいと思う」

 僕らは黙って動きを止めていた。決闘前の猫のように。果てしなく長い時間に感じたけれど、長ズボンのどったどったという足音は規則正しく遠くなっていくのだった。

 僕は衣の下からナイフを落とす。それを見届けた金髪男は、ひらりと身をひるがえした。

 自由になって即座に駆けだした。金髪男の姿はもうない。魔法のように消えてしまった。その一瞬で、鞄と着替え、本のどちらを追うべきかの選択に迫られる。決断はすぐだった。父さんの形見だから、鞄のほうが大事だ。それから、汗と血で汚れた服をもう一日だって着たくない。



 長ズボン男は、まだもたもたと数軒先の屋根の上を走っていた。トランクのせいもあるだろうけど、盗人のくせに、逃げ足がとろい。今なら、身軽な僕のほうが早く移動できる。

 階段を上って、鉄階段には移らずに、そのまま隣家のまっ平らな屋根を駆け抜けた。ゴム底シューズでよかった。僕が走る音はとても静かだった。

 数歩先で、盗人はひときわ高く跳び上がった。

 その時だ。

 長ズボン男に、人が飛んできた。

 スローモーションに見えた。その人は、鳥が魚を捕まえるように、斜め上の角度からキックをかました。彼らは一瞬で目の前から消え、下方から物が壊れるすさまじい音と砂埃があがった。僕は小走りで近寄った。僕の家と同じように、鉄柵で区切られたテラスがあった。そこから下を覗き込むと、「大丈夫か、おまえ」と、小さく瓦礫の落ちる音とともに明るい声が聞こえてきた。

 下の家の屋根の上に、笑顔の少年がいる。

 ふくらはぎまでのパンツに、くるぶしを守るようなスニーカー。

 風に靡く黒髪と、水色の水平服。

 紺色の海兵よりも数段軽やかで正しい姿が立っていた。

 左手には男の襟首が、右手には僕のトランクが。

 取り返してくれたのだ。

「……きみ、すごい! ほんとにすごいよ! 鳥みたいだった!」

 彼は鞄を持ち上げる。

「平気そうだな。じゃあ鞄受け取れ」

「え? あ、うん」

 彼はトランク投げてよこした。本の重みがないぶんは軽くなっていた。

「ありがとう!」

「どういたしまして」

 少年は、歯を見せて笑った。

 鞄を足元に置いて、彼の立っている屋根に飛び降りた。彼は手を差し伸べてくれた。

「血が出てるぞ」引っ張り起こしながら彼は言う。

 ここ、と言って自分のシャツの胸元を指す。

「これは血痕。もう血は出てないよ」

 僕は彼の左手側に膝をつく。長ズボンの男は、気絶したふりをして起きている。さっきのナイフを彼の頸動脈に向かって振り下ろした。長ズボン男は、女のような悲鳴をあげてのけぞった。

「ちょっ! 何やってんだよお前!」

 少年がとっさに男を引っ張ったせいで、首を外して肩を刺してしまった。ナイフは骨で止まっている。血はみるみるうちに男の体を流れて屋根にしみこんでいく。

 ナイフの切っ先を半回転して引き抜くと、男は耳障りな声を上げた。皮膚に刺さったくらいのものなのに、大げさだ。

「……やりすぎだ」少年は顔をしかめる。

 彼は、芋虫みたいに丸まって肩をかばう長ズボン男を覗き込んだ。

「よお、稚魚坂のゲンさん」

 男は、息も切れ切れに少年を見上げた。目に涙がたまっている。

「こ、こいつぁ、今壱の、坊主じゃねえか」

「毎度ひいきにしてくれてありがとうな、オッサン」

 少年は屈託ない笑顔を浮かべた。

「な、なんの。こんな暑い日も、配達御苦労なこって、」

 そう言われてみれば、少年は巨大なメッセンジャーバッグを背負っていた。

「そっちこそ、こんないい日に盗みだなんてしみったれてんな」少年はあきれ顔と笑い顔が混じったような表情になる。「なあ、オッサン。お互い、キレイな商売をしたいもんだな?」

 彼は左の手を開く。ごち、と盗っ人の頭は地に落ちる。男はうめいた。

「へへ……見てろよ、クソガキども」男は青い顔で歯をむき出しにする。「調子に乗んなよ。俺にゃ、ラクダ様様がついてんだぜ……」

 くたばってもよくしゃべる。やっぱり傷は浅いんじゃないかと思ったら、しらけてしまった。

「ラクダ?」少年は首をかしげる。「おいおいオッサン、おとぎ話を信じる歳かよ」と、少年はおかしそうに笑い声をあげる。彼の反応はいちいち素直で瑞々しくて、おまけにくるくる変わるものだから、目が離せなくなる。

「アハア……信じてねえな。みてろよ……あいつの手にかかりゃ、てめえんとこの軟弱な店を潰すなんざわけもねえ。クソ生意気な女主人もなあ、地下に売り飛ばしてやろうか!」

 少年は、ふううと長く鼻息をもらした。

「ハハ……だめだな」

 首を横に振り振り僕を見上げるので、頷き返した。だから、こいつダメなんだってば。

「それが嫌なら、さっさと薬持ヤクモチを呼んでこいやクソガキ!」

「ヤクモチって何?」

「薬師のことだろ」少年は立ち上がって答える。

 僕も少年も、胡散臭い盗人の脅し文句も嘆願も聞いちゃいなかった。

「おい! チンタラしてるとぶちのめすぞ!」

 少年は、男を屋根のはじまで足で押し転がした。男は叫んだり喚いたりするが、彼は淡々と男を屋根のふちから蹴落とした。またしても、バキバキ、と何かが折れる音が立ち上る。

「まだ生きてる」僕は一歩も動かないまま、推測して言った。

「そりゃあな」

「きみ、やりかえされるよ」

「だから殺そうとしたのか?」

 少年は下を見ながら、静かな声で尋ねる。

「そうではないよ。復讐の権利は僕にも、彼にもある。僕は僕の裁量でやりかえしただけ」

「……イカれてんな」

 屋根の段差をよじ登ってテラスの柵を越えた。これで、家まではほとんど水平に屋根を伝えばいい。まだ下の屋根にいる少年に手を伸ばしたのだけど、彼は大丈夫だと言う。ぐっと膝を曲げた一秒後に、彼はテラスの手すりに片足を乗せていた。僕は大口を開けて彼を見上げる。超人的な跳躍力だし、驚くべき平衡感覚だ。

「……ひょっとしてさぁ、自分でどうにかできた?」彼は僕に訊く。

 黒々とした双眸が僕をとらえた。第一印象は鳥だったけど、こうして対面して、猫であると印象を改めた。

「できなかったんだ。だから、ほんとうに助かった。ありがとう」

「そうか。なら、ここを通りかかって良かった」

 店に帰るところだったんだ、と彼は言う

「俺はホサカ。保坂の焼鳥屋、『今壱』の宅配をやってる。学校は今三期目。好きなものは、アイドルとふつうの女の子とオタク男と携帯ゲーム。嫌いなものは、あばずれ女と勝気女と、もてる男と背の高い男。よろしく」

 彼は握手を求める。ソラマ島には、携帯ゲームも学校もあれば、アイドルもいるんだなあ、と妙なことを思った。好き嫌いの激しさが垣間見える自己紹介だ。

「僕はシューレイ。シュレイでいいよ。好きなものは図鑑と地形学。嫌いなものは空飛ぶ乗り物。こちらこそよろしく」

 彼は手すりを掴むと、腕の力だけで体を持ち上げ、そして尻を手すりに乗せて座った。自由になった両足をぶらぶらと揺らす。

「ズカン、って何?」

「図鑑、知らない?」彼のアクセントを訂正して聞いてみた。

「知らない」

 彼は真顔で首を振る。長ズボン男だけでなく、彼まで知らないとは。

「……そうだな。……写真とか絵とか文で、いろんなものが分かりやすく説明されている……、」

「ああ、あれか」

「そう。本の一種だね」

「本?」

 彼は足を揺らすのをやめた。そして真正面を向き、ぼうっとして呟く。

「……そっか。おまえ外から来たんだな?」

 どちらからともなく、沈黙の雰囲気に流された。遠い波の音が聞こえて、少年あらためホサカは、肩越しに海をみた。まぶしそうに細められた目で、いったい何を考えているのか気になった。モップと工具箱を抱えたハチが僕の家の脇の階段から頭を出すまで、僕のほうでは、文字と絵で埋め尽くされた家の壁を眺めていた。

 紙がない、というのはどういう世界なのだろうか。これほどに文字と絵が氾濫していながら、それは永久に残されることはなく上書きされていく。船着き場のメッセージのように、やがては風化する。





◆◇◆






 ホサカは、背の高い男が嫌いだと自己紹介した。なるほど、彼が地面に降り立つと僕よりも小さい。僕らは、ハチが待つ我が家のテラスまで屋根を伝っていった。テラスによりかかって葉を食んでいたハチは、眠そうな目をぱちくりとした。

「あれぇ。なんでお前がいるの、ホサカ」

「いや、それコッチの台詞だから」ホサカは小さく舌打ちした。

「……二人とも、知り合い?」

 ハチとホサカは不本意そうに顔を見合わせ、見事なハモりっぷりで言い放つ。「腐れ縁」だと。学校も同期。おまけに、僕ら三人はまったくの同い年だということがわかった。

「それよりシュレイ君、待たせたな」彼は気軽に言い放つ。「……ってなんだ、その顔。どっかで転んだのか」

 ホサカは拍子抜けする。

「なんだ。こいつ、お前んとこのまれびとかよ。お前がちんたらしてる間に、出たよ、強盗が」

「……あー。 やっぱり?」

 話が通じてるのか通じてないのか、よくわからない人たちだ。


 僕に与えられた家は、酷く散らかされていた。チンピラたちが空き家だったここに住みついていたせいだ。ゴミだらけで臭かった。

 僕とハチと、それからホサカの三人で掃除をして、陽が沈みきったころにようやく心地よくなった。

 そこで急遽、歓迎の食事会を開いてくれることになった。二人とも料理の手際が良くて、僕の出る幕はなかった。それどころか、ソラマ流キッチンがさっぱりで手間をかけさせてしまった。

「なあホサカ、ちょっとイルマ呼んで来いよ」

 火の加減に苦しみながら、ハチはホサカを肘でつついた。

「あいつ、今日試合」

「じゃあモリユちゃん」

「ふざけんな。ぶっ飛ばすぞ」ホサカの頬に赤みがさしたように見えた。

「冗談だよ。照れんなよ。じゃあハルミは」

「あいつは筆持フデモチになっただろ。暇なんてねーよ」

 彼らは、共通の学友について話しているらしかった。たぶん、女の子のことも。そのへんの気軽さは、大陸とほとんど変わらないように思えた。違うといえば、僕らは10の歳にはすでに通える学校がなくなるということ。学校は大嫌いだったけれど、もう一度、同じくらいの子たちに交じって毎日同じ場所に通う。そういうことがしてみたいと思った。

「フデモチって何?」

 ハチは料理を皿に盛りつけるのに真剣になっていたけれど、快く答えてくれる。

「絵や文字を書く職人。お前も見ただろ。広告とか案内とか、メッセージ。あれは大抵、筆持って連中が、依頼を受けて書いてる。ナワバリ争いしながら変なルールでどうこうしてるらしい。一般人は決められた場所しか使えないし、そもそもかけない場所もあるから、気をつけろよ」

 雑然と、無秩序に書かれたように見えて、実はルールがあったとは。

 ハチは、よし、と小さく頷く。

「大陸の人間の口にあうかどうか。これでもごちそうなんだぜ?」

「わかるよ。とてもありがたいよ!」

 ソラマではポピュラーだという積乱鳥の丸焼き、人工栽培の野菜サラダ、ソラマ菌(キノコそれそのものだ)のあぶり焼き、ファティ家のハウスで採れた根菜を蒸かしたもの。飲み物は、ハチが僕に持たせたあの緑色の瓶。中身は果実エキスだった。水で薄めて飲む。

 おいしい食事を一緒に摂って、笑いながら話をする。歓迎されたのだと理解できたとき、僕の胸はとても温かく潤った。


 食後、ホサカは図鑑が見たいと言い出した。

 快諾したのだけれど、トランクを漁っていて思い出した。本類は、ぜんぶあの金髪男に持っていかれてしまったことを。この部屋で起きた顛末をかんたんに伝えた。あの男は、ハチよりも少し高いくらいの身長だった。ざくざくとした長くもなく短くもない金髪に、派手な柄のシャツ。特徴的だと思ったのだけど、ホサカは、眉間にしわを寄せて唸る。彼に言わせれば、島の大部分が彼の宅配エリアだから、大体の人間は分かる。分かりすぎて分らないという。

「そういや、ゲンは『ラクダ』がどうとか言っていたよな?」

 ホサカは僕に同意を求めた。何か心当たりがあるのかと尋ねると、洗い物を終えたハチが手をふきふきやってくるところだった。「知ってるぜ」と会話に参加する。

「『伽藍坂のアレッポ姫』の『ラクダ』のこと?」

「なにそれ?」

「あー……あれだ、子どもに聞かせるお話に出てくる、魔法使い」

「いや、『アレッポ姫』の話では魔法使いじゃねえから」ホサカは食ってかかる。

「保坂ではな。金魚坂では魔法使いなんだよ」ハチは、床に座り込んだ僕らに対面できるよう、椅子に逆向きに座った。

「つまり『ラクダ』は、昔話にでてくる架空の人物ってこと?」

「そ。ちょっと特別だから、ふつう名前には付けねーよな」

 ホサカとハチは互いに頷き合う。

「……紙がないのに、どうして君たちは共通のおとぎ話を知っているんだ?」

「いや、同じじゃねえよ?」ホサカはきょとんとした顔でジュースを吸う。ハチも「そうだ」と請け負う。

「実際、俺の知ってる『アレッポ姫』とホサカの知ってるそれはちょっと違ってたもんな?」

「ああ。大筋はどこの坂でも同じようなもんだけど、オチとか人の性格とか役どころが微妙に違う」

「だから、この島唯一の学校でクラス替えがあった日にゃ、お互い『伽藍坂のアレッポ姫』の話し比べたりもした」

ということは、『伽藍坂のアレッポ姫』は、事実上ほぼすべての島民が知っている物語だ。その登場人物の名を騙るということは、どういう意味を持っていたのだろうか。

「いきがった新人チンピラが名乗ってるんだろ。あいつら、凄そうな名前を持ちたがる生き物だもんな」

 いきがっている新人、そうは思えなかった。小物感をまき散らしていた「ゲン」に比べて、「ラクダ」はとても落ち着いていたし、僕が身に仕込んでいた武器にも気がついていた。いうなれば、悪事をこなすセンスが倍は違う。

「特別っていうのは、『ラクダ』が魔法使いだから?」

「違う。ラクダは、魔法を使わない人間、賢者ってこともある。姫様の手助けをするいい奴って話もあるし、黒幕みたいになってることもある。ただ、どんな話の中でも絶対に死なない。だから特別なんだよ。こういう話、俺のじいちゃんは詳しいぜ。昔の人間だから」

 紙によって蓄積されないのであれば、それはおそらく人の頭の中にしか存在しない。

 ラクダに言われるまでもなく、僕だって実はずっと妙に思っていた。

 ここには、建材だって建造技術だってある。僕らの食卓を照らす灯りを生み出す技術もエネルギーもある。絵も文字も、記号も言葉もある。街にはあれほど文字や絵や矢印が溢れているのに、情報が溢れかえっているのに、なぜたった一枚のポスターさえ無いのか。なぜ、壁という壁を使い、塗料を塗り重ね、情報を物理的に上書きしてしまうのか。

「……やっぱり本を取り戻したいな、僕は」

「なんで?」ホサカは真顔で言った。「俺たちには、印刷するって考えかたも、そもそも紙を作るって考えも無いし、必要ねえんだ。おまえも、それに慣れるだろう」

 誤解を与えないようにはからってなのか、柔らかく、ゆっくりとした話し方だった。

「それでも、印刷の概念は知っているんだね?」

「言っただろ。外から物資配達があるって。俺たちは外に出ることは出来ねーけど、外に何があるかはよく承知してる」

 島の外から、人以外のあらゆるものの出入りがあると仮定したら。「紙」が存在してはいけない世界というのは、すごく、不自然なことだ。

「……ソラマ島とは、いったい何なんだろうか」

 ホサカは、キラキラとした瞳で僕に笑いかけた。

「わからない。それこそ、何も。俺たちは自分たちが何者かもわからないし、どこからきてどこへむかう存在なのか、それもわからない。紙より先に、俺たちには家の壁があった」

 島民であるホサカはそう言うけど、事実はどこかに蓄積されているような気がする。たとえばそう、『ラクダ』という不死の象徴のなかに。

 ホサカは僕の手に、陶器のグラスを握らせた。僕の知っている世界のものといささかなりとも変わらない形と目的を持った器。これも、外の世界で製造されたものなのかもしれない。

「ようこそ、ソラマ島へ」

 グラスの中身を飲み干しながら、ずっとホサカと目を合わし続けた。ホサカは朗らかに笑って、明日は俺の店に案内してやるといい、二度目の握手を交わした。

 ハチとはともかく、僕とホサカが抽象的で概念的な会話を交わしたのは、この瞬間が最初で最後だったろう。



 それから数日後のことを、先まわって話しておこう。

「稚魚坂のゲン」と呼ばれた青年が殺害されたというニュースが巡ってきた。亡骸は、蠍広場のど真ん中に置かれていたのだという。直接の死因は、僕に刺されたことでもなければ、ホサカに骨折させられたことでもなかった。たとえば脱水による死であったとしたら、彼が動けなくなる原因を作ってしまった自分たちに咎があると考えたかもしれない。事実はそうでなく、ぼくら以上に圧倒的な目的意識と悪意と敵意を持った暴力が彼を襲い、彼の肉体をひどく破壊した。

 直感的に、ラクダと呼ばれた金髪男の手によるものなんだろうと思った。ラクダもまた、僕がわかっていることについて「おまえさんは分かっているだろうと俺は思う」なんて思っているのだろう。

 僕は、「ラクダ」をソラマ島の都市伝説に仕立て上げようと決めた。その任を背負えるのは、おそらくもう僕しかいないだろうから。









◆◇◆







話は終わった。

君はもう目を開けてもいい。


次は君が話す番だ。

ぼくが君の背丈を越してしまう間に、一体何があったのかについて。

ぼくらの友人であるホサカが、忽然と姿を消したあとの君の人生について。

いったいいつからそんなふざけた黒服を着るようになったのか、そのへんの可笑しな君の謎から。


せっかくまた会えたんだ。

君の話を聞こう。




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