木内 3
オレンジに染まる空と海。虹色の五線譜。赤い傘、青いリンゴ。ついでにカモメ。
もう描けるものは描き尽くしてある気がする。この絵はもう完成で良いんじゃないだろうか。私はまたしても放課後の屋上に忍び込んでひとり、考えていた。
突然、誰かが階段を上って来る音が聞こえた。私は慌てて体をどこかに隠そうとしたが、焦れば焦るほど、足がすくんで動けなくなる。結局、ドアを開けて屋上に入って来た人と思いっきり目が合ってしまった。
「き、木内さん…………?」
恐れていた事態が起こった。今目の前で私の名前を呼んでいる男の子は、小学校の頃からの知り合いなのだ。
私はどうしていいか分からず、ただ気まずさから俯いていることしかできなかった。
「そっか。僕と一緒にこの絵を描いてたのは、木内さんだったんだ。知り合いだと思わなかったから、びっくりだよ。」
彼はそう言って私に微笑みかけた。
「も、もしかして、キャンバスを持って来てたのって、長野君……?」
「いや、それは僕じゃない。たぶんもう一人いるんだろう。『ご自由にお描きください』なんて、なかなか面白い人だよね。」
そうか。長野君は「あの人」ではないんだ。長野君は、青い線を引いた人。虹を五線譜にした人。昔からちょっと不思議な人だと思っていたけれど。
「それにしても、木内さんって絵うまいんだね。この絵の背景って、ここから見える夕景だよね。なんかこの絵の世界がいきなり広がったみたいで、感動しちゃったよ。木内さん、中1の時、美術部だったっけ?」
私はどう答えたらいいか分からなくなった。彼はどうして私のことなんかを聞いてくるんだろう。今の私は授業に出れない情けない人間なのに……。
「私のこと、変だと思わないの?」
「え?」
「授業に来ないくせに、毎日放課後、絵を描きに来てるなんて、変だとか、ずるいとは、思わないの?」
彼は震えた声でそう言った私を見て、少し驚いたみたいだった。
「う~ん。まあ授業なんて、無理して出るようなもんでも無いしねぇ…………僕だって気が乗らないときは休むよ。」
何故だか私は涙が出そうになるのを堪えながら、何とか声を絞り出す。
「でも……でも、いけないことだし……。」
「う~ん。あっ、そうだ。ちょっと待ってて。」
彼は何かを思い立ったように階段を駆け下りていった。一体なんだろう。
息を切らして戻ってきた彼は、ギターを抱えていた。
そして私の前に腰を下ろし、息を整えると、どこかで聞いたことのある旋律を奏で始めた。
すぐに彼の甘い歌声が重なる。
「Let it be, let it be Let it be, let it be Whisper words of wisdom Let it be」
思わず堪えていた涙が、溢れてきてしまった。だが幸いなことに、彼はギターに目を落としている。私は急いで涙を拭き取った。
「何事もあるがままに、無理に変えようとしてはいけない。知恵ある言葉をつぶやいてごらん。『あるがままに』……っていう意味なんだけど。まあつまり……あれだ。あんまり無理はしない方がいいよ。」
そう言うと、彼は照れくさそうに微笑んだ。
「あ、ありがと……。」
「あ、そうだ。この絵に最後、何か描き加えない? これでももう十分だけど。」
「う~ん。赤い傘、青いリンゴ……赤、青…………黄色。そうだ、黄色の物を描くとか。」
私が試しに提案してみると、彼は勢いよく立ち上がって言った。
「……よし! 左下に黄色い風船を描こう。」
風船か。良いアイディア。でも右下に傘があるし……。
「……ちょっとくどいような気もするけど。」
「明るすぎるくらいの方がいいよ。二人で一つずつ描こう。」
そう言うと彼は黄色の絵の具をパレットに出した。私は筆を使ってパレットに水をつけ、黄色の絵の具を薄めた。
そして私たちは二つ繋がった黄色の風船を描き加えた。
……こうして、翳りゆく屋上で、一つの作品が完成した。
エピローグ
それからも、僕は何も変わらない生活を続けている。
少し変わった事と言えば、授業中に暇を持て余した白川さんが時々ちょっかいを出しに来るようになったこと。あと、少しづつ、木内さんが授業に出るようになったこと。それくらいだ。他は何も変わらず、授業を受けて、友達と弁当を食べ、
昼休みには、屋上に絵を描きに行く。