第一夜:死にたい夜にだけ現れる魔法少女2
闇を裂く電車。車内の蛍光灯は、僕たちをホルマリン漬けの標本みたいに照らしている。
隅っこの席。本当は帰りたかった。でも、あの「死にたい」気持ちが「興ざめな魔法」でぶち壊された後、残ったのはただの慣性。
――今ここで逃げたら、自分という人間がバラバラに壊れる。
そんな、どうしようもない恐怖だけだ。
午前四時のオフィスビル。空調は止まっている。古い書類と電子部品が混ざった、あの特有の臭い。 誰もいないフロア。モニターの白光。
仕事をしなきゃいけないのに、手はずっとコートのポケットを押しつけていた。
そこにあるのは、不合理なほど――生々しい「熱」。
耐えきれず、手を入れた。指先が触れたのは、円柱状の、ぬるりとした物体。
ゆっくりと、引き出す。それは、握りつぶされたイチゴミルクのアルミ缶だった。
塗装は剥げ、吸い口には乾いた白い泡。
最悪なことに、それは温かかった。
手のひらから伝わる温度が、僕の理性を笑っている。
石鹸の香りがした。彼女の匂いだ。
狂った。に違いない。
これはただ薬物の幻覚だ。そうに決まってる。
現実を否定するように、僕はその缶をゴミ箱へ叩き込んだ。書類の屑で、必死に覆い隠す。
その瞬間。モニターのExcelシートが、勝手に動き出した。
数字が、壊れたピクセルみたいに跳ね、消える。
真っ白になった画面の中央に、映像が浮かび上がった。
監視カメラだ。背景は、さっきのホーム。
誰もいないベンチに、あの子が座っていた。
彼女は、画面越しの僕を見つめながら―― ゆっくりと、イチゴミルクのプルタブを開けた。
血液が、一気に抜き取られた気がした。
スマートフォンを掴む。駅名と「人身事故」で検索。
画面が飛ぶ。墓石のような見出しの羅列。
視線が、十年前の記事で止まった。
『○○線人身事故:身元不明の少女が転落』
粗い画像。規制線。バラストに散らばる遺留品。
拡大する。
血まみれの石の間に、壊れたピンク色の変身器。
その隣に、踏みつぶされた――未開封のイチゴミルク。
僕は椅子に崩れ落ちた。オフィスが、崩落していく。
その時、ゴミ箱の中から音がした。
――「カシャッ」 プルタブが開く音。
覗き込む。
アルミ缶なんて、そこにはなかった。
代わりにあったのは、溢れんばかりの真っ赤な向日葵。
傷口から噴き出したみたいな花びらの隙間から、地雷メイクの瞳が、僕を見ていた。
シーッ、というノイズが反響する。
椅子を突き飛ばして、書類棚にぶつかった。
受話器を持ち上げると、聞こえるのは「ポタッ、ポタッ」という水滴の音。
柄から滲み出すのは、甘ったるいイチゴミルクと、消毒液の臭い。
足首に、冷たい感触。
床を這い回る真っ赤な花びらは、寄生体みたいに僕の足を覆い尽くす。
逃げられない。
照明が明滅する。
オフィスの白光が、地下鉄の青白い色に変わっていく。
壁の向こうから、重低音が響く。
それは「線路」の音だ。
デスクは金属製のベンチに。壁の業績グラフは「列車遅延」の文字に。
エアコンから垂れ下がるのは、ピンクと黒のレースのリボン。
窓の外を見やった。四時の東京は、もうどこにもなかった。
ただ、果てしなく続く漆黒のトンネル。 空間が、震えている。
「おじさん、まだ証拠を探してるの?」 声は、耳元だった。
項に、冷たい吐息。強烈な石鹸の香り。
青白い手が、僕の肩越しに伸びてくる。
そこには、捨てたはずの、あのアルミ缶。
「本当の魔法は、すごく興ざめなんだよ」 彼女は耳元で、皮肉っぽく囁いた。
「だって、自分が生きてると思ってた世界が、死人の世界と同じだって気づいちゃうんだもん」
無理やり、缶を握らされる。
「これ、あたしの飲みかけ。おじさん、大事にポケットに隠して……本当に気持ち悪いね」
アルミ缶を見る。ラベルの下から、見覚えのある顔が透けていた。あれは十年前の、僕自身の社員証の写真。
缶がまだ手のひらで心臓みたいに脈打っている。
「ねえ、おじさん。最後の総清算をしようよ」
その瞬間、オフィスが瓦解した。
仕事も、正常な生活も、すべてが石鹸とピンク色の液体に飲み込まれていく。
財務諸表は血を流し、血染めの乗車券に変わる。
鉄骨は錆びた手すりに、窓の外にはバラストの山。ここは、最初から線路の上だったんだ。
「やめてくれ……止めてくれ……!」 弱々しく叫ぶ。でも、手の中の缶だけは手放せない。
それだけが、唯一の「現実」だから。
「おじさん、知ってる?」 彼女の声が、鼓膜をなぞる。 「忘却っていうのは、偽造された決算なんだよ。過去を消せば、帳尻が合うとでも思った?」
重力が消えた。
床がブラックホールみたいに崩落する。僕は暗黒の中へ堕ちていった。
着地したのは、無数の「昨日」が積もったゴミ捨て場のような場所。
捨て去ったステープラー、名刺、残業で飲み干した缶コーヒー。 それらがゴミの山になって、僕を待っていた。
彼女は、その頂上に立っていた。
レースの褶曲、プラスチックの摩耗。心臓が止まるほどリアルな姿。 「これが、おじさんの誇りだった『正しい生活』。正常に見えるために捨てた、ゴミの山だよ」
風が狂暴になる。カビの臭い。 廃棄物の中に、淡い桃色が見えた。
かき分ける。最深部。指が触れたのは、ノートでも名刺でもない。 少し前に、心療内科で申請した――診断書だった。
「ねえ、おじさん」彼女の顔が、目の前にあった。
瞳の中に、無様な僕が映る。 「さあ、起きる時間だよ」
トンネルの端が、突如として輝いた。
二筋の、青白い光。すべてを破壊する速度で、この虚構のホームへ―― ヘッドライトが、突き進んでくる。




