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第一夜:死にたい夜にだけ現れる魔法少女1

 頭上の蛍光灯が時折、チカチカと瞬く。 そこは私が毎日通勤で使っている、何の変哲もない地下鉄の駅だった。

 ホームには誰もいない。私は一番端に立ち、動かない暖房と静寂の中にいた。 電車は一向に来る気配がない。電光掲示板には『人身事故のため、運転見合わせ』の文字。 「クソっ……」 低く毒づいた。

 地下の空気は淀んでいて、息を吸うだけで頭がクラクラする。どれくらい待てばいいのかも分からず、私はベンチに座って目を閉じた。

 最後にあんなにぐっすり眠れたのは、いつだっただろう。 不眠症で精神科に通い、薬ももらった。でも役に立っていない。いや、正確には、薬を飲んだあとの自分はいつも、ベッドの上にはいないのだ。

 疲れた。

 仕事、行きたくない。

 でも、今期の決算処理はまだ終わっていない。 目を閉じても思考がざわついて、どうしても静かにならない。心ではこのまま眠ってしまいたいと願っているのに。

 あまりの静けさに、自分の呼吸音や、ドクドクと脈打つ心臓の音が嫌に鮮明に聞こえてくる。

 ゆっくりと、目を開けた。ホームの反対側に、いつの間にか人がいた。 少し離れたベンチに座り、足を宙に浮かせてぶらぶらさせている。

 通勤客でもなければ、電車を待っているようにも見えない。薄着なのに、寒がっている様子もなかった。 「誰だ」と思うより先に、こんな疑問が浮かんだ。 ――さっきまで、あんな奴いたか?

 蛍光灯が頭上でチカッと弾けた。 それでも彼女はそこにいた。まるで最初からずっと存在していたかのように。彼女はこちらを見ようともせず、ただ天井の、何があるかも分からない一点をぼんやりと見上げている。 声をかけようとしたが、喉が渇ききっていて音にならない。

 結局、何も言わずにただ座っていた。 どのくらいの時間が過ぎたのか、彼女がふいに顔をこちらへ向けた。

 その瞬間、地下の駅を覆う灰色の色彩が、無理やり引き裂かれたような気がした。 ピンクと黒が混ざり合う、幾重にも重なったフリルのスカート。この深夜のホームには、あまりにも不釣り合いな色。膝に結ばれたリボンが、彼女の肌の病的な白さを強調していた。

 彼女が私を見つめる。 赤いアイシャドウに縁取られたその瞳は、光を吸い込んだまま二度と返さないと言わんばかりの深さだった。

 「……見えるんだ」 少し枯れた声。驚きも喜びもなく、ただ、当たり前の事実を確認するような響き。        「こんな時にあたしが見える人って、大体もう壊れかけだよね」

 彼女が私の前まで歩いてくる。厚底靴がコンクリートを叩く音が、静寂の中で鋭く響く。距離が縮まるにつれ、不自然なほど濃い石鹸の香りが押し寄せてきた。綺麗すぎて、逆にかえって不快になるような匂い。

 「あんた……誰だ?」

 「魔法少女」 彼女は、臨時雇いの職種でも名乗るかのように淡々と言った。

 「バイトのやつだけど」 私の震える手に一瞬視線を落とし、すぐに逸らす。

 「緊張しなくていいよ、おじさん。あたしは助けに来たわけでも、殺しに来たわけでもないから」

 彼女はベンチに戻り、足を揺らしながらリュックからイチゴミルクを取り出した。カシャッ、という音がホームに刺さる。

 「あたしはただ、ここに現れただけ」 蛍光灯がまた瞬く。

 彼女の輪郭が、ノイズのように途切れかける。 「どうせ電車も来ないし……」彼女は暗いトンネルを見つめ、投げやりに言った。

 「暇つぶしに、どうでもいい話でもしようよ。先月の桜、お葬式みたいに人がすごかったね、とか。あんなの、毎年咲くのにさ」

 「奇跡なんてものは、」私は言った。「毎年起きるなら、それはもう奇跡とは呼べないんじゃないか?」 イチゴミルクを飲む彼女の手が止まり、缶が宙で軽く揺れた。

 「あはは。おじさん、やっぱり壊れてるね」

 彼女は笑った。嘲笑ではなく、何かをようやく確かめられたような、安心した表情だった。 駅の放送が再び響く。

 機械的な声で「人身事故」と「遅延」を繰り返している。地下空間で反響するその声は、誰も助けに来ないことを告げているようでもあった。

 「あたしが最初に現れたのは、病院の屋上だった」彼女がふいに呟いた。

 「誰かが青いシートの上に寝転がってて、星がすごく綺麗で、本物じゃないみたいだった」 彼女はストローで缶の底を突き、僅かに残った甘みを確かめるような仕草をした。

 「二回目は川。三回目はお風呂。四回目は……忘れた。まあ、どこも似たようなもんかな」 コンビニの支店名でも挙げるかのような、あまりにも無頓着な語り口。

 「その度にさ、いつも同じ質問をしなきゃいけないんだよね」 彼女が顔を向け、こちらを見た。赤いアイシャドウが、明滅する光の中でさらに深く沈む。

 「――あんた、まだ生きてたい?」

 胸の奥が微かに締め付けられる。それは、この空気の淀んだ地下空間でしか起こり得ない、酸欠のような感覚だった。

 「もし、生きたくないと言ったら?」

 「そしたら消えるだけ。任務完了、時給はもらえるし」 彼女は即答した。 「もし、生きたいと言ったら?」

 彼女は黙り込んだ。 トンネルの奥から風の音が聞こえてくる。蛍光灯が不規則に点滅し始め、彼女の輪郭が断裂し、再構成される。不安定極まりない姿。

 「そしたら、電車が来るまで一緒にいてあげる」 彼女は低く言った。

 「で、あんたが本当に生きたいと思った瞬間に、あたしは消えるの」

 「魔法少女らしくないな」

 「そうだね」 空き缶を握りつぶし、ゴミ箱へ放り込む。カラン、と短く乾いた音が響いた。

 「本当の魔法って、いつだって興ざめなもんだよ。おじさん、まさかキラキラした大団円でも期待してた? キモいよ」

 彼女の胸元にある変身アイテムを見つめる。プラスチックは摩耗して白んでおり、どう見ても世界を救う道具には見えなかった。ただのゴミの残骸のようだ。

 「君自身はどうなんだ?」私は尋ねた。「君は、生きたいのか?」 今度は、すぐには答えが返ってこなかった。

 彼女は天井を見上げた。そこにあるのは入り組んだ配管と、厚い埃。そして、星など永遠に見えない東京の夜だ。

 「あたしは死にたい奴がいる夜にしか現れないから」彼女は囁くように言った。「明日さえない説明書にそんなこと聞いても、意味ないよ」

 トンネルの奥が光った。 金属とレールが擦れ合う鈍い轟音が近づく。それはこの街の、重苦しい鼓動のようだった。 「あ、来た」 彼女は立ち上がり、スカートの埃をぱっぱと払った。

 電車が入線してくる瞬間、強烈な風圧が彼女の裾を翻す。ピンクと黒のレースが気流に舞うが、そこには重さというものが感じられなかった。現実に投影されたエラー映像のように。

 「それじゃあ、おじさん」 彼女は一歩下がり、黄色い線の外側に立った。

 「返事、どうする?」

 私は口を開いた。 けれど、その答えは風にかき消され、暗闇の中に消えていった。 ドアが開く前に、彼女の姿は薄れ、剥落していった。ピクセルが一点ずつ溶けていくように。

 最後に残されたのは、不自然なほど清潔な石鹸の香りと、ベンチの下に転がる、握りつぶされたイチゴミルクの空き缶だけだった。

 ドアが開く。 人の波が溢れ出し、私はそのまま車内へと押し込まれた。魔法少女がいたことに気づく者は、誰もいない。 ドアが閉まる音がしたとき、私は自分のグレーのコートに目を落とした。 溺れるような窒息感は消え、代わりに、もっと深くて冷たい静寂が降りてきた。

 ――本当の魔法って、いつだって興ざめなもんだ。

 電車が動き出し、地下の駅は再び灰色に飲み込まれていく。 だが、微かに感じた。コートのポケットが、さっきよりもほんの少しだけ、重くなっているのを。


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