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毒の雨

作者: 埴輪庭


 雨が降っている。

 

 窓ガラスを伝う水滴を眺めながら、俺は三日前から開いたままの段ボール箱の前に座っていた。箱の中には母の遺品が入っている。正確に言えば、遺品整理業者が「お客様でご判断ください」と残していったものだ。アルバム三冊、印鑑、通帳、それから臍の緒が入った桐の小箱。


 臍の緒。へその緒。母と俺を繋いでいた管。四十三年前に切断されたはずの、乾燥した肉片。


 俺は桐箱を手に取り蓋を開けた。和紙に包まれた黒く縮んだ紐状のものが、まるで干からびた蚯蚓のように横たわっている。これが俺と母を物理的に結んでいた最後の証拠だ。


 母が死んで二週間が経つ。享年六十八歳。肝硬変。最期まで酒を手放さなかった。


 俺は母に最後に会ったのがいつだったか思い出そうとした。七年前。いや、八年前か。親族の葬式で顔を合わせた。母は俺を見ると、まるで汚物でも見るような目をして、それから急に涙を流し始めた。「あんたのせいで」と呟いた。


 何が俺のせいなのか、最後まで主語は明かされなかった。


 雨音が強くなる。


 トタン屋根を叩く音が、部屋に響く。築四十年のアパート。家賃四万二千円。風呂なし。トイレ共同。


 俺は臍の緒を摘まみ上げた。軽い。驚くほど軽い。重さは一グラムもないだろう。この軽さが、俺と母の関係のすべてを物語っているような気がした。



 記憶の中の母はいつも何かに怒っていた。


 朝、俺が起きるのが遅いと怒った。


 早いと「うるさい」と怒った。


 朝食を残すと怒り、完食すると「食い意地が張っている」と怒った。


 学校から帰ると「なぜもっと早く帰らない」と怒り、遅く帰ると「どこをほっつき歩いていた」と怒った。


 父は俺が七歳の時に蒸発した。


 ある朝、いつものように仕事に出かけて、それきり帰ってこなかった。残されたのは借金だけだった。消費者金融三社。総額四百万円。


 母は昼はスーパーのレジ、夜はスナックで働いた。俺は鍵っ子になった。一人で夕飯を作り、一人で食べ、一人で寝た。母が帰ってくるのは深夜二時過ぎ。酒臭い息で俺の部屋を覗き込み、「寝たふりしてんじゃないよ」と言った。寝たふりではなかった。その声で目が覚めるのだった。


 小学校高学年になると、母の暴力は言葉から手に変わった。


 ビンタ。拳骨。箒の柄。何度も殴られた。


 理由は些細なことだった。


 茶碗を洗い忘れた。


 テストで八十点しか取れなかった。


 近所の子供と喧嘩した。そして最も多かったのは「お前の顔を見ているとイライラする」だった。


 俺の顔は父に似ているらしい。写真でしか見たことのない父の顔は、確かに俺と同じ細い目をしていた。同じ形の鼻。同じ薄い唇。母はその顔を見るたびに、裏切った男を思い出すのだろう。そして、その怒りを俺にぶつけた。


 中学二年の冬、俺は初めて反撃した。


 母が俺の頬を打った瞬間、反射的に手が出た。母の頬を打ち返した。パチンという乾いた音が、六畳間に響いた。母は呆然と俺を見た。それから、泣き崩れた。「私が悪いの。全部私が悪いの。でも、あんたも悪い。あんたが生まれてこなければ」


 その夜、俺は家を出る決心をした。



 高校は定時制に通いながら、新聞配達とコンビニのバイトで生活費を稼いだ。六畳一間のアパート。家賃三万円。風呂なし。今住んでいる部屋とあまり変わらない。


 母からの連絡は一切なかった。俺も連絡しなかった。互いに、互いの存在を消去した。


 二十歳を過ぎて、運送会社に就職した。四トントラックを運転して、関東一円を回った。朝五時に営業所を出て夜九時に戻る。月収二十三万円。手取り十八万円。贅沢はできないが、一人で生きていくには十分だった。


 二十八歳の時、母から電話があった。七年ぶりの声だった。


 「金を貸してくれない?」


 第一声がそれだった。「元気にしてた?」でも「久しぶり」でもなく、金の無心。俺は即座に電話を切った。その後も何度か着信があったが、すべて無視した。番号を変えた。


 三十二歳の時、親戚から連絡があった。母が倒れたという。脳梗塞。一命は取り留めたが、右半身に麻痺が残った。


 俺は病院に行かなかった。


 親戚は俺を非難した。「血も涙もない」「親不孝者」「人でなし」。好きなだけ言わせた。彼らは母の本当の姿を知らない。いや、知っていても見て見ぬふりをしていたのだろう。



 母の部屋は予想通り荒れていた。


 ゴミ袋が山積みになり、新聞と雑誌が床を覆っていた。流しには洗われていない食器がカビを生やしていた。浴室の壁は一面黒カビで覆われ、便器は茶色く変色していた。


 遺品整理業者は、防護服を着て作業をした。「かなり厳しい状態ですね」と責任者が言った。俺は頷くしかなかった。


 業者が帰った後、俺は一人で部屋に残った。母が死んだ部屋。母が最期の日々を過ごした部屋。


 仏壇の引き出しから、古いアルバムが出てきた。


 俺の赤ん坊の頃の写真があった。母に抱かれている俺。笑っている母。幸せそうな母。この頃、母は俺を愛していたのだろうか。それとも、これも演技だったのだろうか。


 ページをめくると、父との結婚式の写真があった。白無垢の母。紋付袴の父。二人とも笑っている。この時、母は幸せだったのだろう。父も、母を愛していたのだろう。


 何がこの二人を壊したのか。何が母を怪物に変えたのか。それとも、母は最初から怪物だったのか。


 アルバムの最後のページに、一枚の紙が挟まっていた。


 俺宛の手紙だった。



 「健二へ」


 震える文字で、俺の名前が書かれていた。


 「この手紙をあなたが読んでいるということは、私はもう死んでいるのでしょう。あなたに謝りたいことがたくさんあります。でも、謝っても許されないことばかりです。


 あなたのお父さんは、借金を残して逃げたわけではありません。他に女ができて出て行ったのです。その女のところで新しい家庭を作り、子供も生まれたそうです。


 私は憎みました。お父さんも、その女も、生まれた子供も。そして、あなたも。


 あなたの顔を見るたびに、お父さんを思い出しました。裏切られた屈辱。捨てられた惨めさ。そのすべてをあなたにぶつけました。あなたは何も悪くないのに。


 でも、止められませんでした。あなたを殴るたびに、自分が壊れていくのがわかりました。でも、止められなかった。あなたが出て行ってくれて、ほっとしました。あなたを殺してしまう前に、出て行ってくれて。


 私は母親失格です。人間失格です。


 あなたにこれだけは伝えたい。


 あなたは私に似ないで。私のような人間にならないで。私のような過ちを繰り返さないで。


 幸せになってください。私の分まで。


                       母より」


 俺は手紙を読み終えると、ゆっくりと折りたたんだ。


 涙は出なかった。怒りも湧かなかった。ただ、只管空虚だった。


 母は最後まで母だった。謝罪しながら、言い訳をした。俺を心配するふりをしながら、自己憐憫に浸った。「母より」という署名が、すべてを物語っていた。最後まで母であることに固執していた──随分と前から放棄していたくせに。



 俺は段ボール箱の中身をすべてゴミ袋に入れた。アルバムも、手紙も、通帳も。


 最後に臍の緒を手に取った。


 キッチンに行き、ガスコンロに火をつけた。


 青い炎が揺れる。


 臍の緒を摘まんで炎に近づけた。


 乾燥した有機物は、一瞬で燃え上がった。独特の臭いがした。タンパク質が焦げる臭い。髪の毛を燃やしたような臭い。


 炎は臍の緒を包み込み、黒い灰に変えていく。四十三年前に切断された絆の残骸が、今、完全に消滅していく。


 灰になった臍の緒を、流しに流した。水道水が黒い粒子を押し流していく。排水口に吸い込まれて見えなくなった。


 これで俺と母を繋ぐものは何もなくなった。


 俺は母を捨てた。いや、正確には互いに捨て合った。


 そして今、母は死によって、完全に俺を捨てた。


 捨てられた俺は軽くなったか。


 どうだろうな、と呟きながら窓の外を見る。


 雨は止んでいた。


 しかし、空は相変わらず灰色だった。低く垂れこめた雲が街を覆っている。


 またぞろ降りだすだろうなとおもっていたら、案の定ざあざあと雨が降り始めた。


 雨が止んだのはほんの一時、僅かな間だけだった。


 (了)

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