02:腐った家にさよならを
「馬鹿なことを言うな。何故ルネがそんな真似をするというのだ」
「ルネ様は私を貶めるためなら何でもするんですよ。昔からそうです。すれ違いざまに足を引っ掛けたり、肘で小突いたり、死ねと囁いたり。私のコップに虫を入れたり、熱い紅茶をかけて火傷を負わせたり――」
「酷いわ、お姉さま! 私は心からお姉さまを慕っているのに、どうしてそんな嘘を言うの!」
ルネは整った顔を歪ませ、悲痛な声を上げた。
窓から差し込む光が彼女の金髪を照らしている。
涙をいっぱいに湛えたサファイアの瞳。桃色の唇。白磁の肌。
ルネは繊細なガラス細工のような美少女だ。
貧相でみすぼらしい私と違って、見る者の庇護欲を掻き立てずにはいられない。
「嘘ではなく真実です。火傷の跡が残ってはさすがにまずいと思われたらしく、直後に治癒魔法をかけられたおかげで傷一つ残っていませんが。私はあのときの痛みを確かに覚えております」
私は右手を下ろし、長袖に覆われた左腕を摩った。
「ルネ様は『どんな怪我を負わせようと魔法で治せるから大丈夫』『これくらい大したことはない』というお気持ちだったのでしょうけれど。一つ一つは些細なことであっても、積もれば山となるんです。私は意地悪されるたびに、貴女から気持ちが離れていきました――」
「私は意地悪などしてないわ! ねえお父さま、お母さま! 私とお姉さま、どっちを信じるの!?」
「もちろんお前よ、可愛いルネ。だから泣くのはお止めなさい。あなたを侮辱したフィオレットには厳しい罰を与えるから」
母はルネの肩を抱き、強い眼差しで父を見つめた。
以心伝心、といったふうに父は頷いて立ち上がる。
「そうだな。使用人の分際でルネを侮辱したのだ、許せぬ。今日は背中の皮が剝がれるまで鞭打ってやろう」
「待って、お父さま!」
棚に向かう父の前に回り込み、ルネは床に跪いた。
「お父さま。どうかお姉さまを許して差し上げて。お姉さまは次期公爵夫人となる私が羨ましかっただけなのよ。そうよ、ほんの少し魔が差してしまっただけ……ドレスは染みを抜けば済むことだわ。さっきの言葉だって、私は気にしてないから……」
ルネは胸の前で両手を組み、大きな目を潤ませ、お得意の『姉を慕う健気な妹』を演じた。
「おお、ルネ……大切なドレスを醜い嫉妬で汚した使用人を許すとは。なんと慈悲深く、優しい子なのだ。お前は外見だけではなく、中身までも天使であったらしい」
父は感極まった様子。
「エドガーったら、いまさら気づいたの? 誰もが羨む美貌。上級貴族すら凌ぐ魔力量。しかも、貴重な光属性!」
母が大声で自慢したくなるのも無理はない。
光属性を持って生まれる者は少ないけれど、その中でも『癒しの魔法』を使えるのは一握り。
遥か格上の公爵家との婚約が決まったのも、それが決定打となったらしい。
「ルネは才能に驕ることなく、ひたむきな努力で知識と教養を身につけ、期待通りの完璧な淑女に育ってくれたわ。社交界デビューしたばかりで公爵子息の心を掴み、この国の宰相との縁まで引き寄せたのよ? ルネが天使でなくて、誰が天使だというの?」
母は上機嫌で長椅子から立ち上がり、二人に歩み寄った。
「うむ、全くだな。よし、わかった。ルネに免じてフィオレットを許そう」
父に手を引かれて立ち上がったルネは、まるで花が咲くような笑顔を浮かべた。
「ありがとう、お父さま。大好きよ」
愛らしい娘の笑顔につられたように微笑んだ後、父は表情を一変させて私を睨んだ。
「ルネと比べてお前ときたら……もはやどれほど鞭打とうとも、腐り切った性根は矯正できぬらしい。この家にお前のような悪魔は要らぬ。出て行けフィオレット。望み通りに勘当し、お前は死んだものとする。二度と私たちの前に現れるな!」
父は虫けらでも追い払うように右手を振った。
父の隣で母は私を睨みつけ、ルネは勝ち誇ったかのような顔で笑っている。
「承知しました。十六年間、お世話になりました」
私は立ち上がり、深く頭を下げた。
「ふん。お前のような無能など、どうせ何の役にも立たないだろう。スラムで物乞いにでもなるがいい」
「まあ、嫌よお父さま。身内から物乞いが出たなんて噂されたら、家名に傷がつくじゃないの」
「ルネの言う通りよ。そんな恥を晒すくらいなら、潔く死んでほしいわ」
残酷な言葉を無視して扉をくぐろうとしたとき、父が私の名を呼んだ。
「おい、フィオレット。部屋に戻ることは許さんぞ。そのまま身一つで出て行け。私も悪魔ではないからな。いま着ている服と靴だけは恵んでやろう」
「ほら、お姉さま? 優しいお父さまにお礼を言わないと、裸で出て行くことになってしまうわよ?」
クスクスと、鈴の音を震わせるような声でルネが笑う。
「……旦那様の慈悲に感謝します」
私は棒読みで言って、今度こそ部屋を出た。