4. 貴方じゃなくても
「この婚約は破棄とさせて頂こう」
次のお茶会の約束まで、後一週間もあるという日の早朝。
季節の挨拶でも述べるかのように、笑顔のままに婚約破棄を言い渡した父の横で、フレデリカは澄ました顔のままに向かいのコリンズ子爵とアーネストを眺める。
どちらの顔にも浮かぶのは驚愕で、まさか婚約破棄を言い出されるなんて思ってみなかったようだった。
「そんな、急に婚約破棄などと言い出されても。
うちのアーネストを選んだのはフォスター伯爵ではありませんか」
焦った声を上げるコリンズ子爵と対照的に、こちらはどこまでも涼し気な顔だ。
「とんだ見込み違いだったものでね」
さらりと言われた言葉に、アーネストが真っ赤になった。
おそらく羞恥と怒りだろう。こんなわかりやすい挑発に乗るなんて。
「私は成績優秀で将来性もあると自負しています」
声が震えている。
アーネストが睨みつけてきたが、フレデリカ自身も驚くぐらいに醒めた感情しかなく、心の表面でさざ波が立つこともない。
正面に座る婚約者を見ても、打ち消すように爽やかなお茶の思い出が胸に広がっていく。
大丈夫、これできちんとお別れできる。
「我が家の乗っ取りを触れ回っている方を、婿として迎え入れることはできませんわ」
声音に感情は乗せず、事実だけを淡々と述べると、コリンズ子爵の目が丸くなった。
どうやら次男は優秀だという盲目から、普段の素行がどうなのか管理できていなかったらしい。
「既にコリンズ子爵令息のクラスメイト、特に女生徒の大半から証言を貰っていてね」
父の言葉に顔色を変えたアーネストを見て、コリンズ子爵の額に大粒の汗が浮かぶ。
「しょ、証言とは……?」
「私の娘が子爵令息より劣る存在だと教え込むために、いかに貶められるかを他の男子生徒から教わって実践していたようで。
あまつさえクラスでは伯爵と呼ばれているのですよ」
ヒュッと息を吸い込んだコリンズ子爵が隣に座るアーネストを見る。
「アーネスト、今の話は本当か!」
もはや叫びに似た声に、隣のアーネストが仰け反りながら口を開いた。
「誤解です!別に呼ばせていたわけではないし、あれはクラスメイト達が勝手に言い出しただけです!」
「でも、否定もしなかったのだろう?」
笑顔で吐かれる言葉は鋭利な刃物のよう。
細めた目が少しも笑っていないことに、彼らが気づいたとしても既に手遅れだ。
「ああ、それと。学園でそういう態度なのだから、私が留守の間にもフレデリカに何かしていないか心配でね。
侍女と護衛だけでは証言にならないと言い出されても厄介だから、事前に申請を出して公的な第三者に依頼して記録してもらっていたんだ」
私の後ろに立つジェナが軽く会釈をしてから、王宮記録官見習いを名乗る。
聞かされたときにはフレデリカも驚いたが、確かに新しい侍女とはいえ仕事慣れしていない様子を不思議に思っていたのだ。
てっきりどこか裕福な家の行儀見習いかと思っていたのだが。
彼女から渡された報告書に目を通し始めたコリンズ子爵の顔色は、青くなるよりも先に土気色にまで到達し、報告書を持つ手がブルブルと震えだした。
「月に一度でのお茶会ではろくすっぽ交流もせずにフレデリカを罵り、婚約解消をちらつかせて脅す始末。
こんな人間を婿に迎える家があるかは知りませんが、当家ではいりませんよ。
令息が言うには他にも当てがあるのですから、ここで婚約破棄となっても困らないでしょう」
父の言葉にフォスター家から同伴していた家令が、音もなく書類をテーブルに広げた。
「さあ、こちらの書類に署名を。婚約の際の契約書では問題を起こした場合、有責側による慰謝料の支払いでしたね。
私も人でなしではないので、子爵家が傾くような額は請求していないからご安心を」
高額を吹っかけて、払えず逃げ出されたら元も子もないのだという本音と、もう一つ隠してある本音は欠片も漏らさない。
書類に書かれた金額は、領地を持たない子爵家からすれば相応の大金だ。すぐに用意が難しい場合は、どこかで借り入れる必要がある。
コリンズ子爵家ならば借金の類が無いことから、借りることは問題ないはずだ。
「え、いや、そんなことを言わず、アーネストの行動も若気の至りゆえですので!
今回の事はやり過ぎだとよく言い聞かせますので、反省したらフレデリカ嬢の良き伴侶となって支えるでしょう!」
コリンズ子爵の言葉に便乗するように、アーネストが言葉を続ける。
「優秀な私を婚約解消したと噂になれば、見る目のない家だと笑われて、フレデリカ嬢の次の相手なんて見つかるはずがないでしょう。
それにフレデリカ嬢は私のことが好きだろう?今まで散々言っても、私を慕っていたじゃないか」
父が私を見るので、微笑んで頷く。
それを同意と取ったのか、アーネストがこちらへと身を乗り出してきた。
「フレデリカ嬢、父君に伝えるんだ。
私を愛しているから婚約解消などしないと」
「お断りします」
アーネストが頷こうとして、ピタリと動きを止めた。
「フレデリカ嬢?」
「お断りすると申し上げているのですわ、コリンズ子爵令息」
扇を広げて嘆息してみせる。
「何か勘違いされているようですが、私達は単なる政略結婚の相手。
確かに政略結婚であろうとも愛は育めると申し上げましたが、どうして私に好意を持つ気の無い相手に愛情を持たねばならないのですか」
それから、と言葉を続ける。
「婚約解消ではなく、貴方の有責による婚約破棄ですので。
今までに何を言っていたのか自覚がおありなのでしたら、当然だというのに何を勘違いされているのだか」
「私だったら恥ずかしさで家から出られないね」
ちゃっかり便乗した父がアーネストを煽れば、握ったこぶしをコリンズ子爵同様に震わせながら、射殺さんばかりに父を睨むも、平然とした顔で笑みを崩すことのない父が署名を勧めるだけ。
「ほら、選択肢は沢山あるのだろう?
それとも見栄を張っただけで婿入り先など一つもないとか、まさかそんなことあるまい?」
「もう結構!フォスター伯爵家では私の価値など見いだせないのでしょう!
父上、さっさと署名をしてお帰り頂きましょう!
そして、どうか今度こそ私に見合った婿入り先を選んでください」
正面の父からのプレッシャーと、横からのアーネストの勢いに押されてか、この短時間でやつれたコリンズ子爵が緩慢な動きでペンを取る。
のろのろと署名を書き終えた書類を、素早く家令が手元に運んで確認し、父に頷けば親子揃って立ち上がった。
「それではお暇を申し上げよう。
これより私達は赤の他人。慰謝料さえ払ってもらえれば以降は何かするわけでもないので、そちらもフレデリカに関わろうとしないように」
子爵家の家令が蒼褪めた顔で扉を開けている。
彼だけが正しく、コリンズ子爵家の末路を想像できているのだとフレデリカは感心し、何かあったら雇用を検討してもいいか父に確認しようと心の片隅にメモを取る。
何かあるとしたら、コリンズ子爵家が傾くことぐらいだけれど。
フレデリカが先に部屋を出、父が出ようとして足を止めて部屋の中へと振り返る。
「後で難癖付けられてもいけないので重ねて言っておきますが、我が家は何もしませんよ。
ええ、これ以上に何かする必要がないのだから」
こちらに背を向けている父の顔は容易に想像できる。
先程とは違う笑みを浮かべているだろう。
喧嘩を売ってきた相手が不幸になるのを楽しみに待つ、嗤いを宿した笑顔。
「学園での子爵令息の態度は、既に高位貴族のクラスにまで話が伝わっていましてね。
いえね、私も親馬鹿を自覚しているのですが心配で周囲に聞き回ったせいで、学園に通う年頃の令息令嬢がいる家は全員知っているのですよ。
家の乗っ取りを企てる下位貴族の子息を欲しがるなど、そんな奇特なご令嬢は本当にいるのかな。
まあ、私が心配することではあるまい。早く新しい婚約者ができるといいですな」
わざとらしいまでの棒読み。
既に手遅れだということを暗に仄めかす父が、笑顔を絶やさぬままであっても本気で怒っているのだとフレデリカは気づいている。
「ああ、もしかしたら婿入りだなんて言いながら、愛人の話だったのかな?
それだったら見目と行儀作法に気を遣って、提供できる話題だって豊富でないと。
高位貴族の愛人になるのにすら、君は全然向いてないよ」
私だったら誰にもお勧めしないね、と会話を締めくくった父と共にコリンズ子爵邸を出た。
「さて、この書類を提出したらおしまいだ」
馬車の中で父はご機嫌だ。
「フレデリカ、半年は間を空けることになるが、ちょうど良縁を得られそうでね。
安心しなさい。次こそはフレデリカも好ましいと思う相手を選ぶから」
美味しい茶葉を取り扱う方かしらと聞いたら、ニッコリと父が笑う。
「この国の貴族ではないが、きちんと他国で貴族位を持つ家の者だ。
物珍しい異国の品々に詳しいから、きっとフレデリカを楽しませるだろう」
ポケットから小瓶を出す。
「さて、後は私が上手くやるから暫く学園は休みなさい。
せっかくだから領地に戻るといい。弟家族もお前に会えるのを楽しみにしている。
そして私に手土産を渡した相手も」
砂糖漬けの入った小瓶を受け取れば、あのお店のことを思い出す。
次に会う時にはフードで隠れていない姿を見られるのだろうか。
あの清涼感のあったお茶の味が少しだけ甘く変わった気がしながら、そっと外の景色へと目を移した。