2. それを魔法と呼ぶのなら
翌日、噂好きの侍女達から色々聞き出してもらい、貴族令嬢だとわからないようにネロリーのワンピースを貸してもらう。
コルセットをしない腰回りは少し不安になるも、それ以上に自由になった気がして、同じようにジェナから帽子を借りれば裕福な平民の家のお嬢さんくらいに見えた。
護衛にも無理を言って着替えてもらい、仕事が終わった通いの使用人達と紛れて裏口から家を出る。
近くに停まっていた辻馬車に乗り込んでしまえば、ドキドキも最高潮だ。
噂の店がある近くで降ろしてもらい、先にネロリーに店の場所を確認してもらう。
小さな焼き菓子のお店と安価な雑貨店の間、日差しが僅かにしか入らない路地の奥まった場所に、噂の店はあった。
想像していたような胡散臭さはなく、外から見ただけだと誰かの家かと思う佇まいだ。
門が開けられ、扉に小さな看板と来訪を知らせるベルが付いているから、ここが店舗なのだと判断できるくらいでしかない。
一瞬迷ったが、後二日もすれば父の耳に入り、書類の準備を進めながら王都にやって来るのだと思えば、今日しか機会は無いのだと首を軽く横に振ってから歩を進める。
そっと扉を開けば、チリンとベルが軽やかな音を鳴らした。
ハーブだと思われる独特の香りが鼻腔に届き、その香りに緊張していた心がほぐれていく気がする。
勇気を出して一歩入れば、小さな店内に自分のものではない声が響く。
「おや、お客様か」
想像していたものと違う、女性ではない低い声。
不自然に跳ねた肩と、咄嗟に声の主へと向き直った体。
カウンター手前のイスに腰掛けてフレデリカを見ていたのは、フードを目深にかぶり、笑みを浮かべた口元だけ見える男性だった。
「あはは、驚いてる。
大抵のお客様は皆そうだけど」
軽やかな声質はまだ若い男性を想像させる。
どうぞと示されたのは店主の向かい、小さなテーブルを挟んだ椅子。
「お嬢さんも願いがあって訪れたのだろう?」
一緒についてきてくれたネロリーから小声で店を出るか聞かれたが、再度首を横に振って椅子へと座る。
「ふーん、安い服を着ているけど、一緒にいるお嬢さん達が座る場所を確認しない。
そういう気遣いをしなくていい仲良しってわけでもなさそうだから、いい所のお嬢さんと女中さん、それから護衛って感じかな?
まあいいさ。こちらは商売だから詮索はしないよ」
「そうして頂けると助かります」
店主は店の隅にも椅子があるから、他の者はそこに座って待っているといいと言ってくれたので、ネロリーと護衛にそうするよう伝える。
少し心配そうにされたが、店の端にある椅子からフレデリカのことは見えるので問題はない。
主人が見えるのでよしとしたのか、離れた席で待っている護衛が少しソワソワしながら周囲を窺っているのを確認してから視線を外し、店主へと向き直る。
店主が男性なのは意外だった。
こういった怪しげな店の店主ともなれば、幼い頃に読んでいた絵本などのイメージからか老婆であると思い込んでいたけれど。
「お願いしたいのは、私の婚約者に対する想いを消し去る魔法です」
「おや、婚約の解消や破棄をするだけではいけないのかい?」
不思議そうに問いかけてはいるのに、店主の唇は笑みのまま。
表情が読めないせいか、何を考えて聞いてきているのかがさっぱりわからない。
こういった相手は普段なら苦手だが、今日は自身の不安を訴えにきているのだ。
噂通りのお店ならば悩み事は持ち込まれるもの。今更取り繕う必要などないだろう。
「ええ、婚約の解消はすることになるでしょう」
「お嬢さんがそこまで決めているのならば、魔法を必要だとは思えないけど。
放っておいたら時間が全てを解決してくれるだろうさ」
店主の言うことは正しい。
「確かに時間が解決してくれるとは思います。
抱えた想いが恋とも愛とも違ったとしても、婚約者と過ごした期間がそれなりにあれば、尾を引く未練を消し去るのに少し時間がかかったとしても。
けれど私は一人娘ですので、早々に次の婚約へと進まなければいけません」
聞いて頂けますかと尋ねれば、目の前の店主が小さく頷き、そこからフレデリカは語り始めた。
話し終わる頃には1時間以上過ぎていた。
なるべく簡潔にとは思ったが、それでも心情を説明するには正しく語る必要があり、ついつい話し込んでしまった。
お疲れさま、と店主がグラスにお茶を注いでくれる。
「試飲用だけどね、今日はもうどうせ、他の客はこないだろうから」
グラスを手にすれば程好く冷えていた。店主の魔法だろうか。
人の心を操れるのが事実で無かったとしても、店主は魔法が使えるのかもしれない。
口にすれば、爽やかなミントと柑橘の入り混じる味が喉を通り過ぎていった。
今年の初夏から流行ったフレーバーティーだ。
貴族向けのものはベルガモットやマンダリンにスペアミントを合わせて作られているが、平民向けのお茶には加工の際に使わなくなった柑橘の果皮とペパーミントが使われている。
フレデリカの飲んでいるのは貴族向けではないが、珍しい柑橘類を使っているのか、今までとは違う甘酸っぱさが隠れていた。
「美味しいです」
「よかった。お店で販売しているんだけど、暑い時期が一番売れるんだ。
まだ秋というには暑いからね、欲しいなら売ってあげるよ」
商売上手だと思いながら、もう一口お茶を飲む。
「それを飲んだら、相手への気持ちは忘れていく。
お茶の清涼感が熱を消すように、君を焦がす小さな灯を消してくれるさ」
思わず手の中のグラスを見つめた。
琥珀色のお茶に何が入っているというのだろうか。
「話は聞いたけど、お嬢さんの心の整理はきちんとできている。
後は気持ちだけと言ったけれど、それだって時間の問題だ」
店主の手元にあるピッチャーで、カランと氷の音がした。
「嫌なことを思い出す度、このお茶を飲むといい。
きっと、ここでの会話を思い出す。お嬢さんが傷ついたこと、思ったこと、ちゃんと将来だって考えていることも。
大丈夫。飲むたびに今日の冒険を思い出して、きっとお嬢さんの背を押してくれる」
手を、と言われ、少し躊躇うも手を差し出す。
店主は恭しくフレデリカの手を取り、掌を上に向けると小さな小瓶を置いた。
小さな淡くて優しいオレンジ色の花が砂糖をまぶされて詰められている。
「金木犀の砂糖漬けだ。花言葉は知っているかな?」
確か気高い精神だっただろうか。
言えば、店主が頷いて肯定する。
「今のお嬢さんに相応しいと思わないか?」
手元の伝票に店主が何やら書きつけている文字は、どことなく店主に似た癖の強いものだが文字の終わりがクルリクルリと円を描く様は、不思議と成長する植物の蔓や茎を連想させて美しいと思えた。
「夜に嫌なことを思い出したら使うといい。
お茶に入れてもいいし、そのまま食べるのだってありだ」
そうしてから伝票を一枚切り離すと、フレデリカに差し出した。
銀貨一枚。
お茶代にしては少し高く、けれど相談料としては随分安い気がする。
いいのかしらと首を少し傾げるも、平民の相場寄りだと説明されたら納得するしかない。
銀貨を一枚と、それからネロリーにお願いして茶葉と金木犀の砂糖漬けの代金として、普段目にすることが少ない銅貨を払ってもらう。
心付けとして悪くない金額だと店主は言い、そうして店の出口まで見送ってくれた。
「お嬢さんの強さに敬意と親愛を。
また、どうなったか聞けるのを楽しみにしているよ」
路地を抜けた通りに戻り、辻馬車を探しながらネロリーに尋ねる。
「こんな手の込んだ茶番を言い出したのはお父様?それともお祖母様かしら?」
ネロリーが苦笑して、ご本人に直接聞かれるのはお止めになってあげてくださいと答えるので、いつまで経っても子離れが出来ない人だとフレデリカも笑う。
フレデリカに触れた店主の手は、こういった平民の活気で賑わう店で働くものではなかった。
商売をしているけれど、一人で商っているにしては手が荒れていないのだ。
本当はもっと大店の店主であるか、それとも小麦を高く売ろうと商会まで立ち上げて商売を始めた貴族でもある父のようなタイプか。
きっと彼がフレデリカの新しい婚約者候補だ。
遅かれ早かれアーネストとはこうなるのだと、随分と先を読まれていたらしい。
けれど。
「ちゃんとお父様に問い詰めないと、あの店主さんのお名前もわからないままになるもの」
初対面の顔合わせは悪くなかった。
互いに愛し愛されるかなんて今はわからないが、きっとフレデリカの言葉を否定はしないのだろう。
「魔法はどうでしたか?」
そう聞いてくるネロリーに微笑みで返す。
「そうね、あれが魔法だと信じる人には、きっと魔法になると思うの」
フレデリカの為に作られた舞台装置は、どこまでも演出家の愛に満ちていた。
「少なくとも私には魔法だったわ」
だって胸にある残り火は、早くに消えていきそうだから。