By Murayama Yoshihiro[2]
──八年後。
村山は内科や外科をはじめ様々な科で経験を積み、望月の右腕としてやっと認められ始めていた。
この日も消化器外科での手術を終え、院長室に向かった。
ドアをノックし、開ける。
「ああ、村山か。お疲れ様」
「お疲れ様です。これ」
道中に会った検査技師からついでに渡してくれと頼まれた紙を渡す。
「ありがとう」
先生は受け取るとざっと目を通し机の上に置いた。
「誰の検査結果ですか?」
「あぁ、知り合いのだよ。個人的に頼まれてね」
嘘だ、と思った。単なる直感だが、だからこそ侮れない。
「先生のではないんですよね?」
「ん?違うよ。なんでそう思うの?」
「いえ…何となく」
先生は何故か、フッと笑みを浮かべた。
「何となく、か。そうだね…。君ならこれをどう診る?」
机の上の検査結果の用紙を手に取り、ざっと目を通す。
「CA19-9の数値が高いのが気になります。好中球数も多い…癌の疑いがあります。精密検査に回すのが良いかと」
「うん。私も同じ見立てだ」
「?それなら何故…?」
話の真意がよく分からない。
先生は悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
「私はそんな病人に見える?」
「……いいえ」
ですが、と続けようとした言葉は先生に遮られた。
「じゃあ、この話は終わり。それで、何か他に話があったんじゃないの?」
これ以上訊いても何も話してくれないだろう。諦めて本題に入る。
「その…先生がアメリカ軍の軍医だったっていう噂、ご存知ですか?」
「ああ、あれか。何故か、最近また噂になってるねぇ。それがどうかしたの?」
「いえ、大したことではないんですが。今日、噂が事実なのか訊いて欲しいと頼まれて…」
自分で訊く勇気はないのか、数人の看護師が遠回りに訊いてきたのだ。分からないと答えると不安そうな顔をして去って行った。
「アメリカとの癒着があるのではという噂も立っています。それに不安を感じている職員もいるようで」
先生は困ったように眉根を寄せ、曖昧に笑った。
「不安感を与えていることは自覚してるんだけどね。こればかりは公式に説明できることでもないんだ。そういう約束だから」
「そう、なんですか」
「うん。けれど、私が米軍軍医だったのは事実だよ」
「え?」
「更に付け加えると、私はもともとは兵士だった。軍医になる前は、ね。トータルで十年居たかな」
十年。想像以上に長い年月に村山は目を見開いた。
先生は今、四十四歳だ。村山が引き抜かれたのが十一年前。この病院の院長になったのが更に二年前で、その前に三年間外科医として働いていたはずだ。
つまり先生が米兵になったのは、遅くとも十八。
「無理言って辞めたようなものだからさ、癒着はないよ。むしろ、良く思ってない人だっているだろうね」
淡々と話す先生からは、兵士のような鋭さも粗暴さも全く感じられない。それでも嘘ではないと分かるほどその言葉は自然だった。
「…一つだけ密約を交わしたの。軍を抜けるのと引き換えに。これから一度だけ任務を受ける代わりに兵士だった過去を公表しないこと、っていう密約をね」
「……」
何も言えなかった。想像より遥かに過酷な過去を前にして、かける言葉があるはずがなかった。
「前院長は軍医時代に知り合って、それから娘のように可愛がってもらってた。その縁で、日本に帰ってから面倒を見てくれたのよ。でも三年で亡くなってしまって、私が院長に」
その話は村山も聞いたことがあった。当時、次期院長だと目されていた人物が先生を推薦したらしい。三年目の三十一歳という若輩者にも関わらず、反対する者はほとんどいなかったとか。
「何故…」
「ん?」
「何故、僕にはそれを教えてくれるんですか」
話を聞きながらずっと疑問に思っていた。何故今になって説明してくれるのだろうと。
「それは」
「話せないことなんでしょう?なのに何故」
遺言を聞いているような、そんな嫌な予感がした。
「…本当は話さない方が良いことではある。けど、何も言わないのはフェアじゃないから」
「それは近いうちに何かが起こるって意味ですか」
「いや、それは分からないけど。次期院長は君だから。教えておくべきかと思ってね」
溜飲は下がらなかったが、これ以上は話してくれないだろう。先生は秘密主義だ。
「話はそれだけ?」
「はい」
「じゃあ、遅いしもう帰りなさい。また明日」
時計を見ると二十時だった。確かに遅い。
「では、失礼します」
一礼して部屋を出る。
先生はその夜、殺人容疑で逮捕された。
また明日、というよくあるその一言は、達成されぬまま死刑執行を迎えることになる。




