Prologue
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都内のとある総合病院。坂下肇は、通された応接室のソファに座って相手が来るのを待っていた。
揃えた両足の上、薄汚れたノートに目を落とす。四冊のノートを渡す、たったそれだけの約束だが、坂下にとっては何よりも重い約束だった。これは五年前、あの人が最期に託したものだから。
ノートの上で握りこぶしを作り、眼を瞑る。そうしていないと泣いてしまいそうだった。
廊下を歩く足音が聞こえ、ドアがノックされる。パッと顔を上げ、ドアの方を向く。
ゆっくりと開いたドアから部屋に入ってきたのは、白衣を着た四十代くらいの優しげな男性だった。胸ポケットのネームプレートには彼の名前と、院長という肩書が書いてある。
「お待たせしてすみません。初めまして。院長を務めております、村山芳浩と申します」
見た目通りの少し低めの穏やかな声だった。
名刺を差し出しながら頭を下げた村山に、坂下も慌てて立ち上がる。
「坂下肇と言います。お忙しい中、お時間を頂きありがとうございます」
名刺を受け取って頭を下げた。
顔を上げた村山は首を振り、椅子を勧めた。
「いえいえ、こちらこそ。前院長の遺品を持ってきてくださったとか。ありがとうございます。どうぞ、お掛けください」
失礼致します、と断って座る。村山も坂下の向かいのソファに腰を下ろした。
「えっと…」
何から話せば良いのか言葉を探したが見つからず、とりあえず、と手に持っているノートを差し出した。
「遅くなってしまって、すみませんでした」
申し訳なさそうに付け加えると、村山は、いえ、と苦笑しながら首を横に振った。
「早く頂いても、気持ちの整理がつかないまま読むことになってしまったでしょうし。今くらい時間が経ってからの方が、逆に良かったのかもしれません」
「それなら良いのですが」
「お気になさらないでください。──先生が死んでから、もう五年も経つんですね」
「はい」
「何か、言ってましたか。最期に」
一瞬、銃声が聞こえた気がした。紅く染まった自分の手が甦る。
──ね、格好良い、でしょう…?前線で、死ねる、方、が…。
耳の奥で響く掠れた声を振り払い、はい、と頷く。
「楽しかった、と」
村山は驚いたように目を見張り、次いで、顔を歪めた。その表情は泣きそうなふうにも笑っているふうにも見えた。
「そうですか。楽しかった、か…。あの人の人生は散々だったと思ってましたが…」
その先は続かなかった。色々と思うところがあるのだろう。
俯いてしまった村山に、声を掛けた。
「そろそろお暇します。また、何かあったら掛けてください。ありがとうございました」
村山は息を吸ってから、顔を上げて頷いた。
「ええ、こちらこそ。今日は本当にありがとうございました。…また時間のあるときに、食事にでも誘っていいでしょうか。前院長の話も、お聞きしたいので」
流石は人と束ねる立場というべきか、村山はもう、もとの穏やかな微笑に戻っていた。それでも声は少し震えていて、膝の上に揃えられた手も微かに震えている。
「…もし良ければ、そのときは他の元隊員にも声を掛けたいです」
「ぜひ、お願いします」
立ち上がってドアノブに手を掛ける。それでは、と会釈して、部屋を出た。
病院を出ると、夕暮れだった空がすっかり暗くなっていた。三日月から少し丸みを帯びた月が浮かんでいる。
ふと思い出す。私は三日月より少し太った月が好きかな、と話す、懐かしい声。五日月くらい?──なんて笑っていた、あれはいつの頃の話だっただろうか。
そんなことを思いながら、人混みに紛れ、家路についた。