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 俺は二人の男を押しのけ、カウンターに向かって歩みを進めた。

「お、お、おう」

 男女が数人、ステージの後ろから、隠れるように見ているのに俺が気づくと、彼らはみな、目を伏せて、それから視線をよそに向けた。

 演奏が終った。ピアノの音が止むと、急にフロアがしんとした。

 俺がシェイカーを手にすると、二人の男が拍手した。俺がボトルに触れたら、彼らは再び話し始めた。

「おお……すごい」

 一足遅れて、珠希が感嘆の声をあげた。しかしマリヤはそれを気にも止めず、ピアノに片頬をつけた。

 他のことは何も覚えていないのに、

 俺はなぜかカクテルの作り方を覚えていた。


   ヨルノスピリット


   ヨルトサワルト


   ヨルハアケナイ


 競馬馬じゃなくてカクテルの名前だ。そんな馬がいたかもしれないが、あいにく俺は何も覚えていない。


   ヨルハケダモノ


 珠希が俺に付けた名の元だ。

 俺のカクテルを彼女は飲んだ。

 女たちは俺に片端野かたわのけものと名付けて、呼ぶ時はいつも「ジュゥ」と呼んだ。発音は消えてゆく小さなゥを舌を丸めて飲み込む感じで。

「俺、正気じゃないんですか? 俺は人間なんじゃないんですか? それとも、記憶を無くしているだけなのか?」

「わからへん、私にだって、そないなこと。でも、まあ、今んところは難しいことは言わんときな。なるようにしかならんのやさかいに」

 珠希は「お、お、お、おう」と言って、俺のカクテルを飲んだ。

 男が口笛を吹いた。

「ヨルニサワルナ」

 感心したように呟いたマリヤが、シェイカーをピアノに刺した。弦が、きしゃっきりと、音を奏でる。ピアノの音が永遠に途切れる。

 カウンターの上に置いてある安物の玩具のピアノは、悪酔いした客が酒の肴に、マリヤに、デモンストレーションでミニチュア演奏させるためのセクシャル・ハラスメント・マシンだった。

 俺は素直に自分に驚いていた。

「さて、と」

 と言って、マリヤが立ち上がった。

 と、男が立ち上がり、俺と珠希をにらんだ。

「今日、君らを呼んだんは」

 俺は慌ててシェイカーを棚に返すと、珠希から手を離し、その手でマリヤの人差し指を絡めとった。

「さ、俺、そろそろ帰りますので」

 男は筋肉質で、大柄で、用心棒顔負けに強そうな、アンダーグラウンドバー『カヌレ』のマスターだった。髭面だが、よく見ると、まだ若い男で、その正体はショーン・ベネディクト・橋下という名の、珠希の父親だ。

「おや、もう帰るんかい?」

「ああ、それ。それは」

 珠希がまた俺にピッタリとくっついた。

「パパ……、お願いがあるんよ」

「ん、何なん?」

 俺はバーで働くことになった。

 俺はピアノを弾かない。音の世界をただ眺めているだけだ。

 俺はカクテルが作れる。だが、ここではその役目がない。

 珠希は露出度の高いドレスを着て、客の相手をする。

 俺は、譜面をめくるだけだ。

 役には立たない。

 珠希が父親に頼んで雇わせた。つまり、そういうことだ。

 俺はスーツを着ていても、裸で立っている気がした。

 しかし、マリヤはそんなことを気にすることはなかった。むしろ、それを楽しんでいた。

 酒の匂いがきつい。カクテル光線が眩しい。バーの中はごった返していた。マスターはご機嫌だった。

 俺は、彼が珠希の父親とも思えない気がした。お互い知らんふりだった。自分からは珠希の父親であると口にしなかった。それが、あの人の娘に対する認識と態度だ。お互いにあんまり話したことがなかったし、気持を打ち明ける意味もなかった。

「ごめんな」と彼は謝って、お前が「お嬢ちゃんに出会ったから」と雇った事情を話し始めた。俺が会った彼女はすごく美人で、髪はきれいだったけれど瞳は透き通っていて、髪も伸びたら綺麗になるんだろうと思って見入ってしまったんだ、と俺は言った。

 そんな彼女が俺の娘なのだ、と言う彼に、父親という肩書が合わなかった。珠希は彼の娘なんかではない。俺はそんな気がした。なんで自分がそんなことをするのか、わからなかった。

「なんか、ごめん。ごめんな」

 珠希がそう言うと、

「なんだ、あんまり気にしなくていい。大丈夫さ」

 俺は言った。珠希は、なんだか、聞き分けがいいみたいだ。

 こういうのを「大人しい」と言うんだと思った。けど、その優しい言葉には聞き取り難さがある。真意がわからないと言うか。大丈夫さ。俺は自分自身の言葉で納得しようとしたが、それでも納得できなかった。

「まあまあ、ちょっと待っといて。ほら、こっちや」

「あ、うん」

 珠希は時々、俺の隣にきて座った。少し背が高いな、と思っていたらそうでもなかった。ハイヒールのせいだ。ドレスを着ているから、なんとなく、彼女の方が年上に見えていた。俺は何の価値もないけれど、珠希は違った。

「何で珠希が、俺を、あなたのところへ寄越したんですか?」

「何で? そりゃー、なんとなくそう思っただけさ。君はきっと君の生きたい道があるんだろうから」

「生きたい道……」

「そう、道よ。君の行く道は、君が知る未知、ってな。道ってのはそんなもんさ。彼女といちゃいちゃ遊ぶの、もう少ししたら叶うかな。今はまだ早いが、そのうちに。それまでには、かなり手探りで探さないと、って話だ」

 マスターは俺にはきれいな標準語で話した。声は低く、胸板が厚かった。マスターは腕も太かった。片足を引きずりながら、ジョン・シルバーのようにタバコを吹かした。しかし俺は、マリヤこそが、今現在、この男の最も関心のある女だと感じた。

 もちろんマリヤはマリヤで、男でも女性でもない。そんなことは関係ない。それは男でも女でも変わらないが。

「いらっしゃい。お客さん、お久しぶりですやん」

 壁にかかったタペストリーの前に座った男。スピリタスを飲んでいる。テーブルに置いた、どっちかと言うと華奢な、手が白い。そうだ、あの、スピリタスという言葉だ。優雅な彼は、あれは、この地獄の住人ではない。

 あいつは、その、スピリタスではないのか? 俺はそう思った。男は女性を愛したことさえ覚えていないじゃんか! それじゃそれでいい。それでいいじゃないか! スピリタスはスピリタス、スピリタスは遊び人だ。

 ちょうど、俺が彼女を呼んだのは、珠希が俺を紹介してくれようとしている時だった。

 珠希が、カウンターでスピリタスを注いだ。

 ストレートで、「乾杯」する日常が、俺の生きる道だ。

(承前)

 男は関東王と呼ばれていた。地元の人間ではなかった。関西弁も話さなかった。自称・サーファーということだったが、少しも日に焼けていなかった。スーツは深い藍色で、ピアスは無色の石とシルバー、指輪はごついクロームで読めない象形文字が彫ってあった。髪の毛は脱色していた。

「遊び人だって、話か。そうだな、誰でもそう言うよな」

 男は透明なスピリタスを飲んで、笑って、そう言った。

「大阪に海はない。たしかに。波に乗れるような海の話は聞いたことないな。だが、あるんだ。大阪湾から遥かに退いた陸地の奥にあるというんだ。本当なんだ。誰も見たことがない、幻の海を求めて、俺は来たんだ。ビジネスの問題じゃあない」

「初めまして。

「――お前、名前は?」

「……えっ。あの……」

「下郎か?」

「何を……」

「まあ、ええやないですか、初対面やないですか」と珠希がそう言った。

 俺は思わず吹き出した。

「……何も知らないんだな……」

 男は笑って、そう言った。

「そうか、いや、そうかもしれんな」

 男は俺にスピリタスを勧め、俺も飲み干した。

「しかしええ感じだ。こういう商売は」

 男は目を細めた。そして、しばらく黙って、無言で肩を組みあった。

「……俺は、お前を気に入った」

 マリヤは上機嫌だった。俺は、彼の言う通り、マリヤが、俺のことを知らないのだと思った。それでもマリヤは、マリヤで、だから……。

 スピリタスをストレートで飲むのは、今を生きる俺と、あいつに乾杯の仕草をする、俺という人生の生き証人が、女たちふたりなら、お互いそれが一番いい。生きるため。そんなこと、どうだっていい。理由はいらない。関係ない。俺はマリヤの真似をして、グラスを揺らした。

 マリヤは俺を見て、笑った。裏切るのは彼女でも、俺でもない。

「もう、ええわ。たまきん、帰るで!」

 マリヤは振り返り、肩ごしに、俺の目を見た。

 そして、俺の手を掴み、強く引いて、その唇で俺の唇にキスをした。

「ほな、行こか。お家に帰って一緒に寝ましょ」そう、珠希が言った。

 肩をすくめて、「なあ」と。

 男は気色ばんで立ち上がった。

「あ、そのさ、ちょっと落ち着いてくれないか? 俺も、どうしても、これだけは言いたい気分なんだ」

 男はそう言って、まだ絡んでくる。俺は改めて目を合わせた。

「俺の告白を聞いてくれ。いや、これはお前にとっても、大事なことなんだ。お前、昔、一度、俺に殺されそうになったんだ。そして、それはうまくいった。お前は死んだ。それでも彼女はお前を救いたいと思って、俺に会ったんだ」

 足元がふらつくのを、波に乗るようにこらえて立って、男が言った。

「その時に、お前のことが好きになった。お前と俺の人生で、最大の恋をしたはずなんだ。でも、お前は今、どうしているのか、よくわからない。それどころか、俺のことを憎んでしまった。お前のママは俺を裏切った。裏切られた俺自身が、俺を裏切った。それは、俺の人生で、最悪の相手だ。お前か、彼女か、俺が、何でまたその時、俺を愛するようになったのか、俺にはわからないんだ」

「あんた、ひどう酔うちょんね」

 呂律のさだまらない男に向かって、珠希が言う。

(とんだボードビル。

 男は、腰が抜けたようにストン、と椅子に座って、テーブルに突っ伏して眠ってしまった。

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