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バス研修生編

 私は大学教授であった祖父に憧れて、20代後半でありながら京都の大学院に入学し、公共交通の勉強を続けていた。

 その祖父が修了(卒業)間際で突然に他界して、生活費、学費を絶たれた。

 私はそれらを稼ぐためや、研究のために、タクシーの運転手を始めた。


 タクシーの運転は簡単かと思い始めたが、実は接客や地理の勉強が大変だったり、色々な業界ルールがあったり、酔っ払いにからまれたりと私の想像以上に大変だったが、06年3月に公共交通について論文を書き、大学院の博士前期(修士)課程を何とか予定通リに修了できた。

 今後も公共交通の研究も続けたいと、祖父の母校の大学院に応募し、そこの博士後期(博士)課程には運良く通過できた。

 

 しかし、私には大きな問題が…

 

 それは勤務しているタクシー会社が、京都府内にしか営業所がないことだ。

 そこで、私が京都で住んでいた頃の、アパートの大家さんが勤めていた、損害保険会社の事故調査員(広島市内勤務)に応募したのだった。

 大学院を修了するまでには、仕事だけではなく、私生活でも結婚など人生について、様々な決断を迫られるアラサー世代。

 今回は私が様々な人達と接しながら、それらもうまく乗り越えられたのか…


挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


目次

                               


第1章

1‐1  採用試験              06年4月  

1‐2  採用通知              06年5月  

1‐3  勤務初日              06年5月  

1‐4  研修2週目             06年6月  

1‐5  手痛い洗礼             06年6月  

1‐6  百のバス停             06年6月  

1‐7  一人暮らし御用達          06年6月  

1‐8  卒業試験              06年6月  


第2章 

2‐1  訳あり?              06年6月  

2‐2  高美ヶ丘              06年6月  


第3章

3‐1  幻の休日となった豊根村       06年6月  

3‐2  上勝町うどん            06年6月  


第4章

4‐1  スクールバス            06年7月  

4‐2  後悔先に絶たず           06年7月  

4‐3  たまねぎ              06年7月  

4‐4  おばば               06年7月  

4‐5  サングラス             06年7月  

4‐6  パチンコ 06年7月  

4‐7  わがまま 06年7月  


第5章 

5‐1  ああ、夏休み(宮島・原爆ドーム・呉)06年8月  

5‐2  飲み友達?             06年8月  

5‐3  洗車                06年8月  

5‐4  蜘蛛の巣              06年8月  

5‐5  遅刻                06年8月  

5‐6  鉄道代行              06年8月  

5‐7  広島バスセンター          06年8月  

5‐8  ゆめタウンバス           06年9月  

5‐9  これ西回り、東回り?        06年9月  

5‐10 交通安全教育            06年9月  


第6章 

6‐1  酒まつり              06年10月  

6‐2  石見銀山              06年10月  

6‐3  チェーン講習会           06年10月  

6‐4  広島大学の学園祭          06年10月  

6‐5  旧車が一番             06年12月  

6‐6  クリスマスパーティー        06年12月  


第7章 

7‐1  お正月               07年1月  

7‐2  センター試験            07年1月  

7‐3  車内事故              07年2月  

7‐4  バレンタイン            08年2月  

7‐5  留学生とバスマニア         07年3月  

7‐6  自転車               07年3月  

7‐7  バッグ盗難             07年3月  


第8章 

8‐1  内装変更              07年4月  

8‐2  自分が新人教育?          07年4月  

8‐3  企業送迎バス            07年4月  

8‐4  トラウマ              07年5月  

8‐5  結婚                07年6月  

8‐6  結婚式(鵜飼・秋葉原・松島)    07年7月  

8‐7  参議院選挙             07年7月  


第9章 

9‐1  大きな忘れ物            07年10月 

9‐2  東広島駅~広大 AO入試      07年10月 

9‐3  ワンセグって何じゃ・・・?      07年11月

9‐4  逆走クリスマス           07年12月 

9‐5  スクラップ寸前!          08年1月 

9‐6  バスカード             08年1月 


第10章 

10‐1  打開策               08年2月  

10‐2  最後の試練             08年2月  

10‐3  定年退職              08年2月  

10‐4  勤務最後の日            08年2月  

10‐5  引越し               08年2月




第1章

1‐1 採用試験

 今日は前述した損害保険会社の採用試験日だ。

 自分は京都で住んでいたアパートを昨日退去して、まだ今朝、広島へ来たばかりで、広島市内の試験会場を下見する暇もなかった。


 宿泊したホテルを出ると、まずは最初に目に付いた、とあるスーパーの時間貸し駐車場に、自分が乗ってきた車を駐車させてもらい、バスに乗り換えて向かうことにした。

 約束の9時までに、時間がもうギリギリやな。

 バス停で10分ほど待つと、広島交通のバスが来た。


 そのバスには「紙屋町」行きと表示してある。多分、これに間違いないな。

 紙屋町のバス停で降りると、似たようなオフィスビルばかりで、受験予定のS保ジャパンのビルがどれかを歩いても、歩いても・・・見つけられない。


 やっとの思いでビルにある「S保」の看板を見つけ、エレベーターで上がり、会社の受付までは辿り着いた。自分の腕時計を見るのが怖かったが…

 あちゃ~残念…

 既に、五分は遅刻していた。

 

 すぐに帰る訳にもいかずに、採用試験の部屋に入ると、年齢が40歳程の人が一人で椅子に座っていた。

 この人がライバルか…、と言っても…、もう結果は出ている。

 たかが5分、されど5分…遅刻した時点において、私の負けは百%確定である。

 私は過去にも遅刻を何度かしたが、どれもこれも…

 もう結果は見えたな…

 それでも採用試験に臨んだ。面接だけの試験かと思いきや、そんなに甘くはなかった。

 

 入社試験は英語の和訳と、数学の計算問題だった。

 私は、もう、大学受験から何年が過ぎている…?

 次に個人面接だった。


「結果は合格者のみに通知します。どうもお疲れ様でした」

 本当に、ただただ、疲れに来ただけだった…


アストラムライン 

挿絵(By みてみん)


 帰りは空中からの眺めの良いアストラムラインで、広島市内の地理関係をまずは見てみるかと乗車して、帰り道のコンビニでフリーペーパーの求人誌を手に取って見た。

 パラパラとページをめくっていき、最初に目に留まったのが、日給五千円で会社への弁当の配達とある。

 朝の7時から14時終わりなら学校にも通えるな。

 会社の所在地も自分のアパートのある安佐南区で、勤務後に山陽道の広島ICから高速道路経由で行ける。

 ラッキー!

 その会社へ電話で応募すると、まずは一日体験を勧められた。


 会社から指定された試験日に、自分はそのケータリング会社へ行くと、先輩と一緒に弁当の一杯詰まったパレットを五段、六段と抱え前が見えないまま階段を駆け上がる。

 帰りには昨日の空も少し回収する。恐ろしくハードだった。これでは毎日が大運動会である。

 それにこの仕事では私の研究テーマの交通とも関係がなく、何とか研究テーマに近い職業の募集はないものかと、ここでのアルバイトを考え直した。


 前回のようにタクシーの運転では、私は広島市内で住んだこともなく、今から道を覚えるのは大変やし、ややこしいお客様とのトラブルに、巻き込まれても何だしな…

 ましてや京都に住んでいた頃に、市バスの事故の多さを目の当たりにしてきたので、広島市内で運転する気にはとてもなれなかった。

 でも…、田舎なら逆に良いのかと、それに、高校生の頃に遠足で乗った、大型バスの運転手さんのワインディングロードでのハンドルさばきにずっと憧れを抱いていた、私の運転手魂がまた騒ぎ始めてしまった。

 

 広島県内には広島電鉄、広島バス、広島交通…、結構あるもんやな。その中で芸陽バスが出てきた。

 ゲイヨーって、京都で勤務していたラクヨー(洛陽交運)とも響きが何となく似ている。

 しかも本社が東広島市って、このバスは大学院の入学試験時にも乗ったことがあるし、自分の通う予定である大学の近くを中心に走っているのか…

 神の巡り合わせに違いない。


「今、運転手の募集はありませんか」

「ご希望であれば、来週にでも採用試験を実施します」

 もちろん大、大、大OKである。生活費が底を尽きそうで、少しでも早い方が助かる…

 でも履歴書には何て書こうかな…


 前回の修士課程でタクシー会社への応募時でも、タクシー会社では気を遣って頂いたので、今回は修士よりも上の博士課程に在籍しており、これをすんなりとは書き辛い。

 何とか後々にでも話すしかないな…

 運転の実技試験もあるしな、まずはこれが不安だな…

 レンタルできるマイクロバスで練習するしかないな…と運転の練習を一日だけ行った。

 受ける自信がまだないのに、試験日がとうとう来てしまった。


 広島市内から自分の車で会社のある東広島市西条町まで行き、2階へ上がり挨拶をすると、すぐに奥の部屋へ通された。その部屋へ入ると、年齢は60歳位だろうか、広い会議室の中で、一人で椅子に座っていた。

 この人がライバルか、保険会社の時とは、もう違うんや!今度は絶対に負けへんで…

 でも、両者が採用されるかも知れないので、意気込む必要も特にないのか…


 採用試験は学科と実技と二つに分かれていた。

 その内の学科は交通法規の問題と、自動車整備の問題である。中でも交通法規は、私が過去に自動車教習指導員の資格取得時に勉強した出題内容そのものであり、満点が取れてもおかしくはない。

 一方で整備の問題は、内燃機関等の出題は、整備士の知識がないとチンプンカンプンだ。

 これらの学科試験が終わると、いよいよ会社の所有する、路線と同型のバスで実技試験が行われた。

 私の大型バスの運転は、当然ながら指導員以前の、自動車学校修了以来である。


 やはり、デカイ!


試験車

挿絵(By みてみん)


 先日に、マイクロバスを借りて練習したのとでは、はっきり言って…まるで違う。

「あんた普段はバスに乗ってないんじゃろ」と自分が素人である事をすぐに見抜かれた…

「まずは予備スイッチがここで、ドアの開閉はこのレバーでゆっくりと慎重に行いなさい」と、I木課長さんが親切に運転席周りの各スイッチ類を説明してくれた。

 やはりマイクロでの練習はほとんど意味がなかった。

 車体の大きさは勿論のこと、前輪よりも遥かに前にある着座位置、アクセル、ブレーキの位置、車幅感覚も…まるで違う。


 バスには他にも部長さんや、他の社員さんも乗ってチェックしている。

 試験コースは先程に渡されていたが、今まで自分の車でも走った事がない道だぞ…


「浅野君、まあ、落ち着いて、わしの言う道順で走れば良いだけやし、今から出発してここの車庫まで戻って、正味15分くらいじゃけぇ」

 I木課長さんが左側の客席に座り、コースを案内してくれるらしい。

「準備が良ければ車庫を出発しようか」


「東広島で採用試験中のバスが暴走、死傷者…運転は大学院生…」

 明日の新聞の一面を飾らないように、まずはこの車庫へ無事に帰る事へ気持ちを専念させた。


 西条車庫を東に曲がり、ブールバール通りを越えて、城信まで向かう。

 城信から左に曲がり、幹線道路沿いに住宅団地へ入っていく。

「ここで坂道発進をしようか」

「そういうのも、やるんですね」と、登り坂の途中でバスを停止させた。

「あれ、クラッチはうまくつないだのに、なぜか、サイドブレーキが…」

 こんな大きいバスを操る緊張感と、坂を後ろに下がるのが怖くて、サイドブレーキを強く引きすぎて、下へ押し戻しにくく発進時に少しもたついてしまった。

 

 バスはノッキングしたまま発進した。

 これで…、落ちたかな…

 

 引き続き住宅街を走り、運転は徐々に感覚を掴み直し、冷静さも少しは取り戻せた。

「次はあのバス停で停まって」と、指示されたバス停で停まり、入口用のドアを開ける。

 今度は停止、ドアの開閉、発進とうまくやれた。

 次は踏み切りだ。とは言っても、実際の踏切ではない。


「そこの交差点を踏み切りと思ってやってみて」

「はい、分かりました」

「左、右良し」と、ギアを変則せずに通過していく。


 そして車庫まで戻ってきた。

 全体では人並みに走れたんやないかな…?

 何よりも、全員が無事に車庫まで帰って来れたし。


 午後からは一対三(部長一人、課長二人、)で個人面接があった。

「しかし、分からないな。君程の学歴があるなら、こんな地方の一企業で働かなくても…」

 ドキッ…


「しかも、君はタクシーもやっていて分かると思うけど、運転手の仕事は大変だから内勤で働いてはどうか」とI木課長さんが…。

「はい、内勤者のお誘いはとてもありがたいお話ですが、私が御社で働きたい目的には大きく分けて二つあるんです」

「まず一つ目は収入ですが、それ以外にも、公共交通の研究をするために働きたいので、今回は運転手としてお願いします」


「は……?」「は……?」と、Y部長、I木課長がお互いに顔を見合わせている。


「実はこの四月から広大の博士課程に通っておりまして、ゆくゆくは研究者として…」

「なるほど、それでか…、この西条の広大に通っているの…?」

「はい。運転手としての採用なら、週に一度授業のある、平日の金曜日に休めますし、研究内容にも合うという事で御社を選びました」

「そうなのか…」


「はい。私的な事情があるとは言え、今まで黙っており、すみませんでした」

「えっ、博士の後期課程にか…、仕方がないな…」

 やはり、こうなったか…


 次のどっちの仕方がないか…?

 ① いい人材だが、仕方がないので今回は諦めてください。

 ②大学院に通いながら勤務するのは、君にとり仕方がない事だから採用してもいい。


 果たして…結果は?

「君は、学歴をわざと高く、自分へ有利に偽った訳ではないから、今回は気にしなくて良いよ。会社としても君みたいな人を何とか手助けしてあげたいしな」とY部長さん。

「はい、ありがとうございます」と、すかさず大きな声で返事をした。



1‐2 採用通知

 採用試験の翌週に、広島市安佐南区のアパートに会社からの封筒が一通届いた。

 早速、その封筒をやぶいて中を見た。


『社員として採用します』

 

「やった、合格だ!」

 これでやっと、長年に付き合っている彼女にも報告ができる。


「バス会社、合格したよ!」

「何、バス会社…?」

「ああ、言ってなかったっけ、損保会社がだめだったので、バス会社を受けてたんだよ」

「そう、収入もないのにどうしているのかと思ってた。これでひとまずは安心したわ」

 だったらお前も少しは連絡して来いよ…?と心の中に…


「でもバスって…これからはますます大変な仕事なのだから、体だけは壊さないように頑張ってね。」

「あと何でも自分ばかりで決めないでね。いつも事後報告でびっくりさせられることばかりだから…」

「分かった。今度からはもっと相談するから…」

「では忙しいからまた今度ね」

「いつも迷惑かけて済まないね」

 せっかく受かったのに…何かあんまり嬉しくないな…

 

 ま~気を取り直して、早速、アパートの大家さん宅へ「退去届け」を出しに行った。 


「何か嫌なことでもあったの」と、70歳近いお婆さんの大家さんは心配そうに…

「いえ、最初の採用試験がうまくいかずに、急遽なんですが西条に住むことになりました。短い間でしたがお世話になりました」

「確か…、あんたは大学院生と言うとったじゃろ」

「はい、同じ西条にあり、学業も続けられます。短い間でしたがお世話になりました…」

「そうか、あっちではうまく行くと良いね。あんたは学校も人生もまだまだ始まったばかりじゃけぇ、がんばりんさい」 

 そうか…この人の人生にしてみたら…せっかく入居者が決まったのに、申し訳ない事したな。

 しかし、これも運命だもんな。

 

 西条では、、幾分でも会社に近い方が良いと、西条町の寺家地区へ住むことにした。

 こんなに早く引っ越すとは夢にも思わず、三、四ヶ月の入居で敷金が5万円しか戻ってこなかったのは痛かった…

 今の自分にはこの5万円しかなく、もう後戻りはできないと気を引き締めた。

 逆に言えば、これでやっと博士課程の院生と、一社会人と自立して、両方のスタートラインに立てたのだと、不安の中にも嬉しさが込み上げてきた。



1‐3 勤務初日

 6月9日9時集合。いよいよ今日から、研修か…ああ、何か緊張してきた…

 前回のタクシーは9月9日9時集合で、今回は6月9日9時集合とは…

 9は不吉で、6と9も裏返すと逆になり、これも不吉な数字だけど、よほど縁があるのか、こればっかりは選べないので仕方がない…ここはポジティヴに行こう…


 会社の玄関をくぐり3階の会議室に通された。

 前の机にはこれまでに見たことのない書類が、2ヶ月前に受けた大学院の入学ガイダンス並みにたくさん積んである。

 覚える事が、また沢山ありそうだな…

 

 今日からはここが自分の乗務研修の教室になるのか…と部屋の中を見渡す。

 誰か1人…、椅子に座っている。

 しかし、先日の試験で同じだった人ではなく、かなり小柄でよく見ないと、危うく気付かないところだった。


「はじめまして、浅野と申します。私と同じ研修を受けられる方ですか、それとも指導して下さる先生ですか」

「あ、どうもF留です。私は今日が研修の最終日なんですよ。これから何週間か…頑張ってね」と荷物を持ち出て行ってしまった。

「何だ……?」一瞬、気を遣って損した…

 しばらくすると…

「はじめまして、今回の研修を担当する。総務課のK松です」


営業所教室

挿絵(By みてみん)


「私は同じく総務課のT中です。今回の研修生は浅野さんだけで、一人しかいないけど頑張って下さい。では机に置いてある書類の確認をお願いします」


「会社の沿革、事業内容、バス運転者指導・監督要領、バス機器(運賃表示機、カードリーダー、発券器等、)の操作説明、路線図…」と。


路線図

挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


 ヒエーッ、これ全部やるの…?

 前回のタクシーの研修時よりも、与えられた資料は遥かに多い。

 ええ…、バスの運転手って覚えることが多くて、意外と大変なんやな…

「まず、芸陽バスは昭和六年に、芸陽、豊田、河戸自動車の3つの会社を統合し、豊里での説立に始まります」と会社の沿革、営業所、路線についての説明が始まった。


資料の概要

バス運転者指導・監督要領を見る。

「バス運転者指導・監督要領」

 

 Ⅰ 事業用自動車の運行の安全及び旅客の安全確保するために遵守すべき基本的事項

  Ⅱ 事業用自動車を運転する場合の心構え

  Ⅲ 事業用自動車の構造上の特性

  Ⅳ 乗車中の旅客の安全を確保するために留意すべき事項

  Ⅴ 旅客が乗降する時の安全を確保するために留意すべき事項

 

Ⅵ 主として運行する路線若しくは経路又は営業区域における道路及び交通の状況

  Ⅶ 危険の予測及び回避

  Ⅷ 運転者の適性に応じた安全運転

  Ⅸ 交通事故に関わる運転者の生理的及び心理的要因及びこれらへの対処方法

  Ⅹ 健康管理の重要性

 

 これらについて書かれてあり、座学だけでも10日間以上に分けて指導を受けた。


 それ以外に私の最大の問題は、西条近辺の土地勘が全くないのに、バスの路線をどうやって覚えていくかだ。そう心配になって、手元の路線図をパラパラとめくりながら考える。

「西条だけじゃなく、西条から広島市内までも、覚えてもらわないと困るよ」 

「そうなのですか…」こりゃ大変だ。

 早速、自分の車でも回って覚えなくては…


 午後からは、会社の近くの病院でレントゲンやら、尿検査を受けた。

 取り敢えず、身体の異常がなくてホットした。


翌日

「今日は午後からNASVA(自動車事故対策機構)に行って、適性診断を受けてもらいます。タクシーやってたんなら、要領は分かるやろうけどね」と午後は自分の車で、広島市内の陸運局まで行った。

 ここでは学科と、操作、判断力、視力、三棹法検査を受け会社に戻る。

「浅野君、来週は待望の路上に出るよ」

 自分は、別に…、待ってた訳でもないんですけど…



1‐4 研修2週目

 今日で入社から早くも1週間がたった。座学ではなくいよいよ本格的に実務研修へ入る。

 朝営業所に着いたら、アルコールチェックを受けて、免許証を運行管理者に掲示する。

 本来なら始業表コースを見て点検に入るが、自分は教官を待つ。

「このバスが浅野君の教習車になるけぇ」と、教官であるK課長と二人で車庫の奥の方に歩いていく。

 車体の後ろには日野ブルーリボンと書いてあり、入社試験と同じ車両だ。

 長さはおよそ9m!

 横幅も、道幅までギリギリだ!


 たたし、ぶつけても大丈夫なように…

 それとも古いバスしかないのか…

 製造から約20年か30年か、かなりの年代物であるのは間違いない。

「これ本当に、ちゃんと動くんですか」

「あたりまえじゃ、動かないと練習にならんけぇ」

「ではバスの点検からいこうか」とバスの後ろ(背中)の扉を開けて、工具袋から金槌を取り出し、


営業所の点呼場、点検中

挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


「これがファンベルトじゃ、1、2、3と何本もあるじゃろ」とそれらをたたいた。

「左側のパイプは冷却水で、これがなくなるとオーバーヒートするかもしれんから」とチェックし、水道から冷却水を補充し、オイルゲージでオイルのチェックも行った。

「教官、このバスの屋根の上にある、あの小さな突起物は何ですか」

「ああ、あれはバックモニターじゃ。芸陽では教習車も全車標準装備じゃ」

「バックギアに入れたら連動して見られるけぇ。車庫に入れる時や、西条は道が狭い分もたくさん走るけぇ、ないと困るんじゃ」

「はい、ありがたい装備ですね」

「まずは西条駅から吉川へ行こうか。浅野君の家の近くじゃし、走りやすいじゃろ」

「おっと、忘れていた。これを貼らなくては」と大きな包みとテープを取り出した。

「浅野君もこれをバスの前後左右に貼ってくれんさい」と、ラミネートされたA4サイズの紙を4枚渡された。


「教習車」と書いてある。

 それを2人でバスの前後、左右に貼った。

「浅野君、右側に黒いダイヤルが3つあるじゃろ。それがエアコンのスイッチじゃけん、まずは最大にして、開始時のkmを日報に記入してくれんさい」と。


「では、心の準備ができたなら、そろそろ行こうかのう」

 は〜、いよいよだな… 

 こんな大きなバス、緊張するなと言う方がおかしいって…

 キーを回すと、バスは大きなエンジン音を立てている。

 もう行くしかない。

「はい、ではお願いします」

「出発進行〜」

 教官、明るいな…


 教習バスは西条車庫を出て、ブールバールを通り西条駅に近付いた。

「ロータリーでは他のバスの邪魔になるけぇ、手前の降車場に付けてくれんさい」

「最初は少し私が教えますから、横(左側)の椅子に座っていてくれんさい」

「まず、DAMコーダーをセットしようか」

「何ですか、それは?」

「ああ、このタバコの箱ほどの四角い機器に、決められた数字を入力すると、運賃が表示板に表示されるから。あと、そこの表を見て吉川を探してみて」と、運転席の中央に吊り下がっているラミネートされた表を指差した。


車内運転席(教官)

挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


「ええと、吉川は…、143・00、往00・正0」と入力した。

「はい、運賃表示板には吉川循環とスクロールして表示されてます」

「では次に、練習で143・00、復27、逆27と入れてみて」

「同様に吉川循環と出ます。何が違うんですか」

「これは午後便だから逆周りで表示されるんや。じゃけぇ同じ番号でも午後からは逆の番号にしておかないと運賃が狂って大変な事になるけぇ」

「なるほど、では正の方向に戻しておきます」とセットし直した。


「次にこのダイヤルで数字を入力すると、行き先が表示されるんや」

「ダイヤルを0にしてから白いボタンを押してみて」

「どう、方向幕が回送から、教習車になったやろ」

「はい、なりました。面白いな~」

「何が面白い・・・?」


西条駅前(教習中)

挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


「いえ、間違えて走ったら大変ですしね。ちゃんと確認をするようにします」

「誰しも慣れてくると、思い込みで間違える事もあるし、運行前には自分の目で見て、必ず確認するようにしてくれんさい」とバスを降り、自分もそれに続いてバスの前方に立つ。

「これでもこの作業は大分と楽になったんじゃよ。


 昔は前、横、後ろと手回しで行き先を回転させて、夏は汗だくになった。最近の新車はDAMコーダーと方向幕も連動しているけれど、あれでは普段の操作の練習にならんけぇ、この旧いタイプのバスにしたんじゃ」

「うちはこの80~90年代のタイプのバスが一番多いからな」

「では、私が道を指示して誘導して行くから、準備ができたら発車しようか」と、教官は私に運転席を譲って、左側の最前列の席に移った。

「はい、準備OKです」


「よし、ミラーで安全を確認したら、扉を閉めて発車しようか」とバスは発車し、最初の信号で止まった。

「右側のマイクのスイッチを入れて、アナウンスをしてくれんさい」

「はい、えーと…毎度ありがとうございます」

「まだ覚えてへんのか。しゃあないな。わしに続いて言いんさい」


「毎度ご乗車ありがとうございます。このバスは吉川経由の西条駅行きでございます」

「毎度ご乗車ありがとうございます。このバスは吉川経由の西条駅行きでございます」

 やった!

 

 実は以前から、このアナウンスを一度言ってみたかった…

 今まさに、運転手になった瞬間である!


 でも何で、「毎度ご乗車ありがとうございます」なのだろうかと疑問が湧いてきた。

『「毎度、皆様方のご乗車ありがとうございます」ではだめなんですかね』

「だめじゃないけど、『皆様方の』は略しても意味がほとんどの人が分かるし、テンポ良く一息で言えると、脳の判断が運転の注意に払いやすいじゃろ」

「へえ、こんな言葉を一つ取っても、ちゃんと理由があり、考えられているんですね」


 西条駅から1つ目の信号を越え、ブールバール通りをまっすぐに行き、左には市役所が見えてきた。

 フジグラン(当時)のある2つ目の信号を右に曲がり、公園を過ぎ左折した。

 K松さんはこれが教習車であることを、手で大きく「×」を作り、手を振ったりして、バス停付近の人へ猛アピールして西条プラザの前を通過していく。

 西条プラザ付近では、毎回これをやるのか…

 かなり、オーバーアクションだな……

 次の信号を右折して、国道2号線を八本松の方へ行き、賀茂高校を通過して、下寺家の交差点を左に曲がる。

 

 ここからは道が一気に細くなるし、交通量も多いぞ…

 寺家小学校を過ぎて、道は左にカーブしていく。

 このカーブからは田舎道でありながら、道路も十分に整備されており、バスでも非常に走りやすい。

 気分的にもやっと余裕が出て、ちょっとは緊張も解けてきたかな……


「ここら辺で、運賃精算のやりとりを練習するかな」と、エルピーダ前でブザーを押す。

「次のバス停で停まってみて」

バス停で左に指示器を出して停まった。

「君の停まり方は、はじめてにしては良いよ。では、今の段階で運賃はいくらになってる?」

「え~と…」


「右側のDAMコーダーに表示されとるけぇ」

「あ……DAMのボタンを押し忘れて、まだ、原農協のままで330円です」

「いいか、浅野君、例え1つ手前のバス停であっても、このような循環バスの場合には、起点からの距離運賃制であり、運賃をお客様から取りすぎてしまうことがある。

 それが何より怖いんじゃ」


「この教習ではルート以外にも、バス停の位置もしっかり覚えてやってくれんさいね」

「でも、浅野君、この吉川線は何百M走っても、バス停が一向になかったり、わずか十数M先で、次のバス停があったりと面白いじゃろ」

「はあ…」


「ほらほら、左ばかり見ていてもあかんのやで」

「普通はバス停って走っていると左側にありますよね?」

「ほら、ここのバス停なんか、向こう側の…片方にしかバス停を置いてないんじゃけぇ」

「ええ・・・、前を見て運転しながら、左側にお客様、反対側のバス停までも見るのですか…」

「そうじゃ」そのまましばらく進む。


「教官、広島空港ってこの辺りでしたか」

「何をばかな事を…空港は山陽道の向こう側の河内の方じゃ」

「でも、さっき通過した時に赤色と、青色のセスナ機が2機あったような気が…」


セスナ機

挿絵(By みてみん)


「ああ、あれはあの田んぼの持ち主が、多分…、趣味で置いているんじゃ」

 ええ?こんな田んぼの真ん中に…?

 何でまた…

「邪魔にならないんですいかね」

「さあ…、他人のやる事は分からん」


「おっと、ここは交差点がバス停じゃ、ここもバス停じゃ…」と、灰色の石を指差す。

「自分には、これはどう見ても…、大きな漬物石にしか見えませんけど…」

「それが目印なんじゃ」


 車内にある運賃表の表示を変えるのと、停留所の案内には、先述のDAMコーダーを各バス停ごとに、一回一回と押さなくてはいけないが、それが面倒くさいし難しい…

 田舎ではこんなところにバス停が?

 この石ころがバス停なの…?

 このように何でもありで、バス停の位置も名前も分からないと、余計に押し忘れてしまう。

 ましてや自分は地元の人間でもないし、もうこうなると、唯一の頼りは勘である。

 特に下の原上、下の原中、下の原、下の原下…で、その違いは一体何……?

 エルピーダメモリー南、エルピーダメモリー前と押している間に次のバス停になる…

「そうそう、浅野君、志和循環も同じように距離運賃制やから、バス停も細かく覚えとかなあかんなぁ、次は志和循環行くか」と会社で昼食を済ませ、午後は志和循環を回った。



「今日は豊栄へ行こうか」と教官が言った。

「え、自分が豊栄まで、いきなり運転して行くんですか」

「君が運転しないと練習にならへんじゃろ。まずはDAMコーダーを入力してみて」

「豊栄は401・00、往00、正0です」

 次は方向幕のダイヤルを合わせてくれんさい。

「方向幕番号は33番です」

「では出発します」と扉を閉めた。


「まった、浅野君…何か忘れてないか。方向幕をバスから降りて、直接見て確認してや」

「ハハハ、そうでした」と降りて確認した。


「じゃ出発するか」と、バスは西条の営業所を出た。

「豊栄へは藤田沖の交差点から、記念病院と吉行経由の二通りの路線があるから」

「最初は工業団地のある『吉行』から行こうか」

「豊栄へは昨日行った『吉川』を経由して行くなんて、随分と遠周りする路線なんですね」

「何…!豊栄行くのに吉川を通って、どないすんねん」

「昨日は吉川で、今から行く吉行とは違うんやで、どっちも工業団地やけど、吉川はコンピューターで、吉行は百円ショップじゃ」

「ああ、そうですね。すいません…」


「ここ西条駅からは全く別方向で、もし間違えたら、どえらい事になるで」

「やっぱり、地元でないと地理は大変そうじゃのう」

「バスはタクシーと違い、道を絶対に間違えられんけぇ。わしの同乗研修が終わったら、今度は先輩が実際の路線を運転するバスで、浅野君が分かるまで横乗りを続けんさい」


 バスは国道375号線を北へ向かって進んでいく。西条インターをくぐり、高屋の杵原、大久保ダムを左手に曲がりくねった山道を登っていく。

 何台もの大型ダンプがそんな山道をお構いなしに幅ぎりぎりにすれ違っていく。

「ヒエ~、ダンプが多いですね」

「最近、ここら辺では、この道をまっすぐにする工事をしているからね。そういう意味では、浅野君は今回の教習で運が悪かったなあ」

「そうそう、そこを左に曲がって狭い道に入っていって」と、県道350号線に左折する。


「これまた狭い道ですね」

「こんなんで、ビビってたらあかんで。芸陽の路線は田舎な分、こんな道ばっかりじゃよ」

「広島市内の方が楽かもしれんな」と、狭い道の続く造賀小学校を通過していく、豊栄って思ったよりも遠いなあ…

「ま~だ、車庫まで着かないんですか…」

「まだ半分も来てないで、心配せんでも、お客様が少ないから、慣れたらのんびり走れるようになる」と話しているうちに、坂をどんどん上り、造賀から一時間程で豊栄に着いた。

 

 二人で営業所の中に入る。

「所長、新人の浅野君じゃ。今は広大の大学院に通っとるんじゃ」と教官に紹介された。

「はじめまして、浅野です。よろしくお願いします」

「そうらしいな。運転疲れたやろ。まだ始まったばかりじゃ。そこでコーヒーでも飲んで休んどき」と営業所の所長が100円をくれた。

 自販機に歩いていくと、どれも120円からで、20円足りない。


 所長、缶コーヒーが100円って、一体いつの時代や…最近、値上げしたばかりなのかな…?

 取り敢えず、自分の財布から20円を足して、一本買って飲む。

「この奥が休憩室や、わりと広いやろ。ここで仮眠もできるんや」と連れて行かれ、その十二畳程の部屋には、自分のまだ知らない先輩が新聞を一人で座って読んでいた。

「K葉さん、運転手で今度新しく入ってきた浅野君じゃ」と教官に紹介された。


「どうもはじめまして、浅野です」

「君があの浅野君か。わしゃ、西条にもちょくちょく顔を出すけぇ、前から知っちょったけぇ。ところで今は、学校で何の研究をしているんじゃ?」

「まだ細かくは決めていませんが、広く言えば公共交通です」

「これ、何かの足しになるかも知れんから、良かったら貸したげるけぇ」と、日比野さんが交通権について書かれた、一冊の本を自分へ手渡された。


「これは、わしが過去に発表したことがあるやつじゃ」と、運転手の労働状況を改善する大会(報告会)のパンフレットも他に手渡された。

失礼ながら、地方のこんな山奥の営業所でも、交通問題に熱心な運転手がいらっしゃる。

自分もそれに応えて頑張らねばと、運転手、大学院生である事を改めて自覚させられた。


 路上教習3日目

「広島空港は河内経由と大内原経由と両方あるからね。交差点を右に曲がれば河内インター経由、まっすぐ行ってみるか」となだらかな山道を15分ほど上っていくと、赤い橋が突然目の前に現れた。

「教官、あの赤い橋は途中で切れてますけど…何処に繋がる橋ですか」

「あれは橋とは違うんじゃ。ここら辺は霧が多いけど、山間部で十分に平らな面が取れんけぇ、飛行機の誘導灯をああやって造ったんじゃ」


誘導灯

挿絵(By みてみん)


「あの空港連絡道路を左に曲がってくれんさい」

「あれが空港ですねお客様はここで降ろして、乗り場は一列南側になるんじゃ」あとは、待機場所等を教えてもらう。

「ここはちょうど広い待機場所があるけぇ、今からお昼にしようか」

「はい、自分は弁当を持ってきてますんで」

「ここのわしの知ってる弁当屋は空港職員と同様に弁当が補助になり、340円でお茶缶もサービスになるけぇ」と買いに行ってしまった。



1‐5 手痛い洗礼

 教習も半ばのある日、今日は教官が他の業務で、用事があり忙しかった。、

「ベテランのS川さんに、広島のバスセンターの往復まで連れて行ってもらいんさい」と教官に言われた。

 S川さんを探すと、営業所の出入口で仲間たちと、タバコを吸っていた。

「今日は一日よろしくお願いします」と、暑いから冷え冷えの缶コーヒーを手渡した。

「よし、まずは駅前まで乗せて行ってやる」と、早速バスに乗り込んだ。


「広島バスセンターまでランデブーじゃ」と、先輩はちょっと不機嫌そうに、バスを発車させて、自分と西条駅へ向かう。


バスの前扉全開

挿絵(By みてみん)


 さっきから、風がビュンビュンと自分の顔に当たって、帽子が吹き飛ばされそうである。

 なぜなら…

「先輩、さっきから前扉が開いたままで走ってますけど?」

「目の前に道路が丸見えで…、危なくないっすか?それにI木課長に見つかったら…?」

「この時期でも、車内は温室状態じゃろ。お客様が乗るまでに温度を下げなくてはいかん」

「先輩…、いや…何でもありません…我慢します」


 バスセンターまでは、話す事もなく運転を見ていた。

 西条駅へ向かって帰る時だった。

「君は、何でこの会社で、バスの運転手の仕事をしようと思ったの?」と、先輩が擦れた声で、自からやっと口を自分に開いてくれた。

「自分は博士号を取って、私の祖父のような学者となるために、公共交通について勉強させてもらおうと思ったからです」


「バスは簡単には運転できないぞ。朝は早いし、夜は遅く拘束時間がとても長い。夏は暑いし、冬は寒い。しかもお客様からは何時苦情が来るか分からない。苦情で済めば良いが、事故も何時するか分からない」

「何よりも事故を起こしたら、君の人生はそこでおしまいだぞ」

「はい…」


 次の信号待ちでは…

「ところで、君は結構な年齢だけど、今までにはどんな事をしてきたの」

「はい、まずは大学卒業後には教師の夢を捨てきれずに、教員免許を取ろうと大学へ入り直しました。結局は採用試験に落ち、自動車学校に勤めました」

「その頃に色々と自動車関係の資格を取り、教員採用試験をもう一度受け落ちました。その後はバス会社や、タクシー会社に勤務してきました」

「まさか、運転手として働いていたんじゃないよな」

「はい、タクシー会社では運転手としてでした」


「何でまた…?」


「バスと同じく、修士論文で公共交通を研究してみたかったからです」

その次の信号待ちでは…、とバスと共に自分の話も少しずつ進んでいく。

「S川さんは何を…?」


「俺は人に自慢できることは何もやってきてない。むしろ人に言えないことが多い…」

「はい…」


「それは冗談じゃ」

「でも、S川さんは何十年もバスを続けてやってこられて尊敬してます」

「そんなのは自分のために働くのだから、自慢にならないよ…」

「君はタクシー会社では働きながら勉強してきたのか…しかも色々な経験をしてきたじゃないか。絶対に、その経験を生かさないとだめだぞ。ここではまだ始まったばかりだけれど頑張れよ。今度、家へ遊びに来い。その時に一杯やりながら、ゆっくりと話そう」

「はい、ありがとうございます」こうして先輩とは、少し打ち解けられた気がした。



1‐6 百のバス停

 今日で教習も半ばが過ぎ出社すると、教室では教官がもう待っていた。

「ほしたら、今日はちょっと遠いけど、広島へ行ってみるか」

「ええ、広島市内はまだちょっと…」

「西条の営業所に配属されたら、3、4日に一回くらいは、広島市内へ行くんじゃけぇ」

「そんなに…、西条から市内のバスセンターまでのバス停は、いくつくらいあるんですか」


「さあ…、わしゃしっかりと数えたことがないけぇ、センターまでなら百はあるじゃろ」

「そんなにですか…しかも、みんなどうやって位置とか覚えているんですか」

「そりゃ、わしのしっかりとした教習の賜物よのう。賢いあんたなら、すぐに覚わるわい」

「第一に、これで値を上げていたら、他の路線も運転できんけぇ」

「はい、ではバスセンターまでお願いします」と、自分は助手席に座った。


「あんた、この間S川さんに連れて行ってもらったんじゃろうが、今度はあんたが運転していくんじゃけぇ」

「ああ、そうでした。ついつい…バスってまだ乗せてもらう感覚の方が強くて」


「広島市内をこんな大きなバスで運転を許可されるなんて、普通の人にはできんことなんじゃ。一回行ったら病みつき、一ヶ月で気持ちええぞ。2ケ月経てば行きたくて仕方ない」

「本当に、そんなもんですか…?」

 何か、だまされてる…


「浅野君、100・38とDAMコーダーもセットして、本番さながらに行ってみよう」

「はい…?38ですか」

「そうか、よく気付いたな。広島線はバスセンターが営業の起点じゃけぇ、西条の他の路線とは違い、始発の00はバスセンターになっちょるんよ」

「じゃけぇ、西条は運賃の38区間目にあたるから、38から00まで戻していく」


「八本松駅までならば、吉川や、志和循環線とコースがかぶるけぇ浅野君でも楽勝じゃな」

「はい、でもその先は未知の領域です。一応、覚悟しておいてくださいね」

「不気味な事を言うな」と、教習バスは八本松駅のロータリーに入り、国道2号線を進む。

「志和口を過ぎるとはJRの山陽本線と重なってくるけえ、運転席からの眺めも良かろう」


JR山陽本線瀬野駅付近、瀬野スカイレール

挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


「まだ全然見る余裕がありませんよ」田舎の長い山道での下りカーブが瀬野川沿いに続く。

「市田橋の手前は急な右カーブじゃけえ、排気ブレーキも活用するんじゃ」

「はい」と、バスは進んでいき、いよいよJR線との併走区間になった。


「あれ、教官、機関車って後ろから押すものでしたっけ」

「ここは急勾配だから重連区間といって、貨物列車は広島貨物ターミナルで、機関車を前後に付けて西条駅まで上って行くんじゃ」

「SL時代には瀬野川機関区があって、スイッチバックで登っていってたんじゃ」

「へえ、鉄道マニア必見ですね」


「この先にはもうひとつ珍しい、モノレールも見えてくるけぇ」

「ああ…、あれですか」


「瀬野スカイレールは平成10年に開業して、JR瀬野駅の裏、みどり口~みどり台で運行されちょるんよ」と教官は少し自慢げに話してくれた。

「駅舎も車両もスキー場のゴンドラみたいな外観ですね」

「あれでも25人も乗れるんじゃ。頂上までは15分くらいで、大人は150円、小人は80円の均一じゃけぇ、今度乗ってみたら…」

「さすが教官、良く知ってますね」と、しばらく走る。


「ああ、今のところにバス停があったんよ」と突然に大声で…

 ああ、びっくりした。

「ハクショイ」と、今度は大きなくしゃみが…

「逆に、誰かに噂されとるんかいのう」

 もしかして、どんな状況にも対応できるため…それとも天然なのか…


「瀬野川がよく見えるじゃろ」

 まだ見る余裕がない…

「左には瀬野の車庫があるじゃろ。ここからはバスともたくさん擦れ違うけぇ」すると、向こうからバスが来た。手をあげてくれている。思わず嬉しくなり、自分もそれに応えて

「どうも~」と相手に向かって挙手をする。

「浅野君、あまり調子にのらないようにな…交差点の手前では、サンキュー事故にならないように、軽く会釈をすればええけぇ」

「はい、気を付けます…」


「広島市内に来たが、海田周辺は1車線じゃし、バスの運転はそんなに難しくないじゃろ」

「はい…」

「海田から広島駅までの国道2号線では他のバス会社(広電、広島バス)ともたくさん擦れ違い、乗り降りや右折時に譲り合うので、擦れ違う時は手をあげてくれんさい。みんな仲間じゃけぇ」

「はい、他でもそういう場合はあるんですか」

「西条でならブールバール通りでJRとやり、後は自由じゃけぇ」

「教官、交差点の先に…、路面電車がいます…」


広島市内(運転席)

挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


「当たり前じゃ」

「広島駅からはバスやタクシーは多いし、路面電車とも接触しないか怖いんですけど…」

「紙屋町に付けてみて」とバスを付ける。

「後は芸陽のバスは、バスセンターにしか停まらないんで発車してくれんさい」

「ここからのは発車は、タクシー、バス、一般車、交通量が多くて大変ですね」

「窓からは手を出して、相手にゼスチャーしんさい。そういう時に白い手袋をしていると相手に良く見えていいんじゃ」

なるほど…


「ここ(県立総合体育館前)の交差点は、渋滞や事故が起こりやすく、バス同士の独自のルールがあるんじゃ」

「バスセンターへ行く時に、交差点の赤信号で↓が出ると、左折のバスは自車よりも、右折バスに譲ることにしてるんじゃ」

「へえ~」とセンターへの坂を上がっていく。


「ここの坂からは、一般車は入ってこれんけぇ、でもたまに間違って入ってくる車両もあるけぇ、気い付けんさい」

「教官、そんな事より…トイレに行きたいんですけど」

「バスセンターにはバス停とは違う待機場所があるから、芸陽の割り当ての6番か、備保北との共同使用の11番に付けてみて。あとはデパートのトイレを借りんさい」とバスを11番に停め、自分が踏んでいたブレーキを離す。


「プシュー」とエアー音がして、自分の緊張も同様に少しずつプシュー…

「西条から、2時間弱か。長時間の運転で、疲れたやろう。まずは事故もなく合格点じゃ」

「はい、でもちょっとだけ自信がつきました」とバスセンターで休憩した。


 弁当タイムの時だった。

「浅野君は岐阜出身じゃったのう。三迫みさこって知ってるか」

「もちろん知ってますよ。教官もお若くて、まだまだ隅に置けませんね」


「はあ…?」と教官。


「自分はQUOカード持ってますし、でもアイドルの安田美沙子は岐阜出身でしたっけ?」

「アイドル…?そうじゃのうて、これから三迫の車庫に行くんじゃ」と、教官の持っていた、海田周辺の地図を見せてくれた。

「ああ、これ三迫って読むんですか…」と次ぎは三迫を目指して出発し、西条の車庫には夕方17時に着いた。

「給油と洗車をして、走行kmを日報に記入してくれんさい」とこの日の教習は終わった。

朝から一人でずっと運転して疲れて、仕事の後には料理する気にはとてもなれない…



1‐7 一人暮らし御用達

 自分の住居の近くにあるSスーパーは、20時位に終わる仕業コースが多いのに、スーパーもちょうど20時に閉まってしまう。

 そこで、自分の隠れた行きつけが、市田橋にある24時間オープンの深夜スーパーだ。

 こっちは店内が広いので、ストレス発散になるし、運動不足の解消にもなる。

 惣菜コーナーで、同僚のN先輩が、半額の弁当を手に取って見ている。


「お互い一人暮らしは大変じゃね~。半額の弁当ばかりも…、子どもも作らんといかんのじゃろう?人生はあっという間じゃけえ、浅野君も、嫁さんを早く見つけんさい」

「はあ…、そうですね…」

研修も半ばのある日

「一人暮らしでは、栄養バランスが悪いんじゃないか」と突然、Y部長から昼食に誘われた。大体言われることは分かってはいた。

Y部長の車で連れて行かれたのは、会社の近くの和風レストランで、ランチでも数種類の刺身定食のメニューが書かれている。

「こっちに来てから、刺身なんて食べてないだろう。奢るから、遠慮しないで食べなさい」

「は、はい。ありがとうございます」

 でも、昼間からこんなにご馳走になって大丈夫かな…


 二人で注文した物を待っている。

「今の学校の方はうまくいっているか?実は私も君と同じ立命だったんだ。それだけに君が運転手としてやっていけるか心配なんだ」

「今なら、研修後にもう一度簡単な試験を受けて、内勤者として変更することも可能だけれど、君の決心は本当に変わらないんだね」

「はい、祖父の遺志を継いで、学者になりたいので、運転手として働かせてください」

「そうか、それなら仕方ないな。運転手として、学生として精一杯に頑張りんさい」

「はい、ありがとうございます。まずは一日も早く一人前の運転手へと頑張ります」



1‐8 卒業試験

「今、運転手が足りんけぇ、そろそろ卒業させちゃれや」と、先輩と教官が話しているのが聞こえた。

「浅野君も入社してそろそろ3週間か、広島、白市、志和、吉川、空港…もう大分自信はついたか」と教官に聞かれた。

「はい、一人でずっと練習できたので、ありがとうございました。もう大丈夫です」

「そうじゃな、よし、明日試験するから」


 やった!とうとう卒業試験だ。


翌朝

 朝10時に出社すると、試験車両がすでに用意されていた。

「試験コースは吉川の方で行きんさい」と、Y部長や、課長等数人も乗せて、まずは西条駅まで行く。

 そこから試験は始まった。

 途中のバス停にも、部長達が乗客役を演じてくださった。


「運賃はいくらですか」

「バスカードをください…」

「はい、おいくらのでしょうか…」と随時バス停に停まり、色々とやっていく。

 前の人を参考にする訳にもいかず、ある程度時間が多く取れ試験項目も多く、一人だと不利だな…


「浅野君、お疲れ様。では教室に行って待っててくれんさい」


「浅野、どうやった」事務所の入り口には、先輩たちがタバコを吸って休憩している。

「多分、大丈夫のような…」

「何やその自信のなさは…駄目ならはっきり言いんさい。次に頑張ればええんじゃけぇ」

「それは、それで…」

「あ、K松さんが来たで、あんたは早よ、教室に行きんさい」

 先輩が自分で呼び止めておいて…

「では行ってきます」と扉を開けて、足を若干震わせながら、階段を昇っていく。

 あれ、教官はさっき見かけたのに、中々来ないな…

「コンコン」とノックがして教官が入ってきた。


「教官、遅かったですね。どっちですか」

「ごめんごめん、年取ると色々と、近くなるからね」

 何だ便所か…

 合格でも不合格でもええから、早く教えてくれ…


「浅野君、結果は残念ながら…、合格じゃ!

  明日から一人で大変やで頑張ってな」

「はい、ありがとうございます」

 

 第2章へと続く。


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― 新着の感想 ―
[一言] 浅野です。年賀状を見て驚きました。頑張ってね。
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