終幕・この胸を焦がすのは
人間の母と鬼の父の間に生まれた私が、人間と妖の生きる時間の長さに違いがあることに気づくのはそう遅くはなかった。
あの頃は今より不便な事も多かったが、伯爵家の娘であった母と、表では将校レベルの位を持つ父のお陰で何不自由なく生活できたし、入ることも難しい女学院にも入って、憧れの女学生にも一時なることができた。
優しい母も、優しい父も、人間も妖も大好きだった。
母は昔から体が弱かったが、何とか高齢まで生き延びることできた。しかし病や老衰により食も細くなり、痩せた母を見るのは辛かった。母が70を超えた頃、私はまだ人間でいう15歳。私は看病のために学校を辞め、母に付きっ切りになった。しかし看病も虚しく、母は亡くなった。医者からすると、病状から考えると奇跡と言える程生き延びたという。
最期に父はいなかった。
思えば、私が母を看病していた時も、母が60を過ぎて体調を大きく崩し始めた時も、母が40の頃私が義務教育を受けていた頃も、父は全くといっていい程帰って来なかった。
母はずっと父の帰りを待っていた。
母は最期に私に言った。
「雛子、どうか、あの人の事を嫌いにならないであげて。どうか許してあげて。あの人……とっても、寂しい人なのよ」
そう言って、私が包んでいた母の手は力なくベッドに落ちた。
母はとても優しくて、理想だった。
でも、どうして?お母様。私には分からない。だって、あの男は貴女を見捨てたように、私を見捨てたように帰って来ないじゃない。
そんな男を、どうして許そうと言うの?
私の言葉は発することもできず、ただできるのはもう一度冷たくなった痩せた手を抱いて涙を垂らすだけだった。
*
「私、本当は人間が好きよ。だって私にも人間の血が流れているんですもの。でも……でも」
鬼子は両手を握り締め、震えた声を絞り出す。
「唯一の良心だった人間に見放されたらーー私、もうどうにも……!」
大きな涙を零す彼女を見て、優しく深雪は声をかける。その手には過去の制服のポケットに入っていた花柄の小さな巾着。
「これ、君の探し物でしょう?」
香袋にみえる手のひらに乗るサイズのそれを、彼女の両手に乗せる。
すると彼女は、涙を零しながらも晴れやかに微笑んだ。長年の重しが取れたように。
「そうーーこれが、欲しかったの。お母様の、私の存在の証し……お母様の、大切な香袋……」
この世の宝物を彼女は頬に当てて大切に両手で抱えた。もうその香袋が香ることはないが、彼女ならきっと香袋の元の香りを思い出せるだろう。
深雪は満足そうに微笑んだ。
「……ありがとうございます。たくさん迷惑をかけましたわ。この学校にも、……彼女達にも」
彼女が申し訳無さそうに、横たわる友人を見た。それは大丈夫、と深雪が胸を張る。
「この部屋はキョウちゃんが直してくれるから!君の友達も皆怪我してないし、安心して!」
「面倒事を押し付けやがって……」
そこで初めて、黒ずくめの青年はフードを取った。一言でいうなら、驚く程の美形だった。その辺にいる女性よりも長い睫毛に囲まれた切れ長の瞳は角度によって赤く輝いているように見える。顔の形も整っていて、後ろでまとまめている長く漆黒の髪も美しかった。多分、一目見たら女性と見違えるだろう。
しかし、半妖の彼女は父の一件のせいか男に全く興味が湧かず、寧ろその美形さも鬱陶しく腹が立ったのは秘密である。
青年がどこからか小さな札を出しそれを貼り付けると、ガラスを始めその部屋は何事も無かったかのように元通りになった。
「……どうやったんですの、これ?」
「部屋の時間を元に戻しただけだ。止めた時間もじきに進む」
彼はそういうが、“だけ”では済まないと思う、と彼女は考えた。まあ、彼女の存在自身も他人のことは言えないが。
「……そろそろ、夢から覚める時間ですわ」
彼女が呟いた。その声は少し寂しそうだが、曇りのない声色であった。
「ここを出て行くの?」
深雪が聴くと、ええ、と彼女は即答した。
「ここに留まる必要は無くなったもの。友人になってくれた子達にも……もう、迷惑はかけられないですから」
そっか、と深雪は短く答えた。
「じゃ、僕達と来ない?」
深雪が思いがけない言葉を口にした。彼女はどう答えていいか分からず、呆気に取られた。
「僕達にも本当の居場所はないんだ。だから、一緒に来ない?自分の本当の居場所を探しに」
その曇りのない笑顔に、臭い台詞だと思っても断れるはずもなく。
臭え、と青年に突っ込まれて自分の体を嗅ぐというベタな反応をするのを見て、つい笑いが零れた。
「改めて、僕は神永深雪。こっちの子は宮間右京。君は……人間名で呼んだ方がいいのかな」
「ーー雛菊。それが、私の本当の名前です」
そう言って雛菊は花の様に可憐な笑顔を見せた。
*
後日。
中間考査が終わり、噂もテストの話題に掻き消され、校内に張り詰めていた緊張もほぐれた頃。
「う〜ん、不思議だよなあ……」
「私達2人共、図書館へ行ったところから何も覚えてないなんて……何かあるのかなぁ……?」
「やめろよ、茉由っ!本当に何かあったら怖いから!」
華錦女学院高校の1年生の教室の一角で集まる2人。しかし、いつもいる「彼女」はいない。その事は、彼女達は知る由も無く。
「なぁに?何の話ぃ〜?」
そこにまた1人、いつもの1人が加わる。
「璃花子ちゃん、あの日本当にどこにいたの……⁉︎」
「そうだよ、マジで焦ったんだからな⁉︎」
「も〜そればっかり……でも、ごめんねぇ〜?つい好奇心に負けちゃって、他の教室を回ってたのぉ……そしたら、倒れてる茜ちゃんを見つけてぇ」
「本当、いつの間にか自分のベッドに寝てるんだもんな〜……その後急いで茉由の部屋に走ったぜ……」
「うん、私も茜ちゃんにドアをたくさんノックされるまで、同室の子がいなかったから自分のベッドで寝てて……びっくりだよ……」
「それな!まさかあたし達が当事者になるとは……なあ、お前はどう思う?」
茜のその問いに答える者はおらず、その一角だけほんの一瞬時が止まる様な静寂が訪れる。
「あー……あたし、誰に話しかけたんだろ?」
「だ、大丈夫?茜ちゃん……?」
「うん、なんか1人足りない感じがしてさ……きっとテストで疲れてるんだよな!」
「そっか……でも、私も同じこと考えてたよっ」
そして、その話題も虚空へと消えていき、3人はいつものように笑う。
彼女達が「彼女」ともう一度出会うのは、そう遠くない未来である。
次は、本当の友人として。