In the brilliance of life
かつて日課だった散歩も、車椅子を使う身となった今では簡単にできるものではない。月一度外に出られればいい方、というのが俺の現状だ。その貴重な幸せに束の間の充足感と一抹の寂しさを覚えながら、日毎に軽くなっていく車椅子のホイールを、日毎に力の入らなくなる腕でゆっくりと回して進んでいく。
既に暑い初夏の日差しの中、見上げた空はうっすらと、それでいてはっきりと青く。ヴェールのような、濃淡のある真っ白な雲が走っていた。
俺の入院している病院に隣接した公園には、小さいながらも立派な野球グラウンドがある。ベースの外側だけを芝生で覆われたそこには、赤と白のユニフォームをまとった小学生ぐらいの少年たちが大勢、監督の叫びに応えて忙しく立ち回っていた。病棟からでも、つい最近鳴き始めた蝉の声の合間に、きれいに揃ったやや高めの返事が聞こえたりもする。
芝生の手前には桜の木が植わり、さらにその手前を緑色のフェンスが走っている。フェンスよりこちら側には今進んでいる小さな小道があり、その対岸には木が多くなって、今来た方には遊具の置かれている場所がある。木々の間をすり抜けた子供たちの声がそこかしこからやって来て、そよ風と一緒になって俺を取り巻いては去って行った。ここで小道を外れ、フェンスの切れ目をすり抜けるようにして、三塁側の隅の木陰に止まる。
* * *
しばらくぼんやりしていると、今しがた抜けてきた例の小道から、高校生ぐらいに見える青年が二人、談笑しながらグラウンドへと入ってきた。邪魔にならないようにか、俺から少し離れた木の根元に、やや投げるような動きで持ち運んでいたかばんを置く。その近くに寝そべっていた真っ黒な猫が一匹、驚いたように一声鳴いて俺の方に駆け寄ってきた。日差しを避けたいのだろう、俺の車椅子の真下――つまり動いたら確実に轢いてしまう位置にやってきて、ごろんと寝そべった。
青年たちはそれを眺めやった後、徐にかばんをごそごそし始めた。取り出されたのは少しくたびれた雰囲気のあるグローブと、まだ新しい真っ白な硬球。何事か楽しげに叫び交わしながら、正反対の方向へと後ずさっていく。
やや長めの距離で立ち止まると、俺から見て右側の青年が腕を大きく振って、硬球を空高くへと投げ上げた。
引き絞られた弓が放つ矢のように、硬球は重力など無いとでも言いたげに天へと放物線を描いた。投げた青年は眩しげに目を細めて、硬球を追う。
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、硬球はその白い姿を雲の中に溶け込ませ。そして、またすぐに輪郭を浮かび上がらせた。
対称の美しい軌跡を描いて、硬球は空中を滑るように降りた。ちょうどの場所で待ち構えていたもう一人の青年のグローブがそれをしっかりと受け止め、素早くも柔らかい動きで包み込む。青年のどちらもが、この空以上に晴れやかな笑みを顔いっぱいに浮かべた。
幾度も幾度も、硬球は雲に溶け。俺はその度に、周囲の物音が遠くなるような錯覚を覚えた。まるで音が周囲からではなく、行き来を繰り返すあの白い硬球から放たれているかの如く。それほど、俺は二人のキャッチボールに見入っていたようだった。
立つことすら満足にできない自分は、この先あんな風にキャッチボールをする日など来はしない。それどころか、明日のこの時間に生きていられるかどうかさえ定かではないのだ。あの青年たちにはまだたくさんの時があるというのに、俺に残されたそれは、あまりにも少ない。
半ば諦観交じりの思考もあってか、真っ白な軌跡は心なしか輝いているようにも見えた。徐に雲の切れ間から太陽が顔を出して、俺はその眩しさにきつく目を閉じる。瞼の中の血色に染まった視界の中で、硬球の軌跡の残像だけがくっきりと形を成していた。
その硬球は、俺が求めているのに得られない全てなのかもしれなかった。誰かがただ憧れるしかないもの、それを当たり前に持っていて、そして輝かせられる。そんな人が、やはり世の中にはいるものなのだ。放物線を描く白い輝きを思い出して、細長い溜め息を地面に吐く。
そのまま目を開くと、まるで見計らったかのように、視界に真っ白な硬球が転がり込んできた。思わず瞠目したところへ左側の青年が走って来て、やはりあの硬球なのだと知る。無意識のうちに拾い上げていたそれは、思ったより小さかったにも拘らず、なんとも形容しがたい重みを備えていた。
それを見た青年が立ち止まって手を振ったので、一瞬迷いつつも、かなりぎこちない手つきながら振りかぶり、掴んだそれを天空へと投じた。
へろへろと頼りない動きで昇っていった硬球は、予想通り雲の白に溶けることは無かった。そのままワンバウンドして、青年のグローブに受け止められる。ぽすんと、その軽い音だけは妙にはっきり聞こえて。それで初めて、周囲の音が全くと言っていいほど聞こえていなかったことに気づく。
謝意を表すように小さくグローブを掲げて、左側の青年は再度硬球を投げ上げた。輝く軌跡、そして、やはり一瞬だけ雲の中に硬球の輪郭が消える。それを焼きつけようとして、また空を見上げたまま目を閉じると。
瞼の裏に浮かび上がったのは美しい放物線と、そして自分が投げたあのへろへろな軌跡だった。重なり合った二つのラインは、しかし境目の判らなくなるほどによく似た色をしていた。
にゃあ、と足元で猫が鳴き。
驚いて目を見開いた時、雲の中から硬球が現れたように自分には見えた。
ふと、あの硬球は元々雲の中からやってきたんじゃないかと思った。神様があの二人に授けた、贈り物。自分の軌跡が彼らの軌跡とほとんど同じような輝きを見せたのは、きっと神様のちょっとしたいたずらなのだ。
物思いをかき消すように猫が鳴く。驚いたことに猫はとても人懐っこく、車椅子を器用に駆け上がって、膝に掛けていたバスタオルの上に滑り込んできた。柔らかな感触とぬくもりに、知らず知らず顔が綻ぶ。
こいつはこの小さな体に自分以上のぬくもりを持って、恐らくはじぶんよりも長くこの先を歩んでいくのだ。同じ命を授けられたとは思えない。だがそれは紛れもない真実で、自分にもこのぬくもりがちゃんと宿っている。というより、宿らせることができる。今は蝋燭の火のように揺れる、危なっかしいものではあるけれど、自分という人間に託された大切なものが、しっかりとそこにはあるのだ。
そういえば、猫というのは死の遣いであり、同時に幸運の前触れでもあるらしい、と何かの文献で読んだことがあった。するとこの猫は、俺の死期が近いと教えに来たんだろうか。それとも、これから訪れる何かすてきなことと教えに来たんだろうか……。
唐突に湧き上がった嬉しさと希望を少しでも追い払おうと、一つ頭を振ってグラウンドを後にした。猫は降りてくれようとしないし、降ろすのも億劫だったから、そのまま病院へ連れて帰ることにした。
木々の香りを含んだ風が、そっと髪を揺らしていく。これも命の香りだ。子供たちの声の中に、命の力が見える。青年たちの瞳の中にも、命の光が宿っていた。命に包まれた場所、命の輝きに守られた場所、それがこの公園なのだ。まだ若い命がその青春を謳歌する、そんな場所だ。
帰ったらこの猫を飼っていいか聞いてみよう、と思った。
* * *
病院のエントランスを抜ける。まだ屋内に入ってもいないのに、入口を目前にしたカウンターから担当看護婦の天宮さんが飛びだしてきた。俺を見ると、安心を絵に描いたような顔で近付いてくる。
「待ってたのよ、雨が降るって言ってたから……その猫は?」
俺の後ろに回り込んで車椅子を押しながら、天宮さんが言う。
「いや、降りてくれなくて。降ろすのも面倒だったし」
「へぇえ、珍しいわね。そんなに人懐っこいなんて。しかも可愛いし」
エレベーターを待ちながら天宮さんが喉を撫でると、黒猫は気持ち良さそうにぐるぐる言いつつ銀の目を細めた。ここが攻め時、と目を合わせる。
「天宮さん、この猫飼っても良い?」
「直人君のことだから何となく言いそうな気はしたわ」
こういう時の天宮さんは本当にやさしいお母さんといった感じになる。
「良いわよ。というよりは良いタイミングで拾ってきたわね」
「……え?」
思いがけない言葉に間抜けな言葉を発してしまった。ちょうどやってきた無人のエレベーターに乗り込んで、天宮さんの解説を待つ。
「小児病棟で猫を飼っていたのが一週間ちょっと前に死んじゃって、トイレ砂とか餌とかどうしようかって言ってたのを聞いたのよ。今なら飼育セットは一式貰えると思うから、あまりお金が掛からずに済むわね」
「そっか。やっぱりコイツは『幸運の前触れ』なんだ」
「ん?」
「何でもない」
笑い交じりに誤魔化して、徐々に右に移動していく階数の目盛りを何とはなしに眺める。今通過したのは五階、俺の、というより俺らの病室は十三階にある。同じ部屋に入っているのは俺を含めて四人で、全員同い年だ。今の時間帯なら面会の人間はいないはずだ、と思いを巡らす。
ちーん、とやや間抜けな音を立ててエレベーターが静止する。天宮さんに押し出されるようにして廊下に出て、左に直進。
一番奥が俺たちの部屋だ。
「ただいまー」
「あぁ直人か。楽しかった?」
入口から見て左側の奥、本を読んでいた零斗が顔を上げた。眼鏡をくっと上げる。その手前が俺のベッド。右側にも二つのベッドが並んでいる。今は二つとも空だ。
「あれ、誠と涼平は?」
「どっちも面会。でもそろそろ帰ってくると思うよ」
「了解。でさ零斗、こいつ飼っても良いかな?」
天宮さんに押してもらって零斗の枕元まで寄っていく。真っ黒な猫を認識するなり、零斗は慎重に身体を起して、もう一度眼鏡の位置を直した。
「……ネオンにそっくりだ」
「あぁ、入院前に猫飼ってたっていつか聞いた気がする」
「そっか話したっけ。あいつも野良猫だったんだよ」
「あれ、『野良猫だ』なんて言ったっけ?」
ふと俺が首を傾げると、零斗はふふっと小さく笑った。
「直人がその体で駅前のペットショップまで行けるわけがないなって」
「あっそうか……やっぱ零斗頭良いね」
「頭が良いんじゃないよ、何となく察しが良いってだけ」
優しく微笑んだまま、零斗はゆっくりと手を伸ばして猫の背に手を置いた。猫はかなりの急角度に身を捩って、その手をゆっくりと舐める。
「何だ。ネオンに似てるけど、こっちの方が断然賢いな」
「だけどこいつ日差しを避ける為に車椅子の下に潜り込んできたよ?」
「じゃあ訂正、賢いんじゃなくて人との付き合い方を弁えてるんだ」
零斗はどこか遠くを見るような眼をして、ちょっと黙り込む。
「たっだいまーって直人お帰りーっ」
「あれ、直人帰ってんの?」
急にドアが開いて、二人が入ってきた。先に入ってきたのは小柄な誠。点滴を同伴して入室。後から入ってきたのは長身の涼平。
「二人ともさ、この部屋でこいつ飼ったりしない?」
「こいつ?……おぉ猫じゃん!!こんな立派なのどこからもらったのさ!?」
いやにテンションの高い誠はそっとしゃがみ込み、猫と目線を合わせる。
「公園で膝の上乗ってきて、そのまま降りてくれないんだ」
「野良猫の割には全然警戒してねぇじゃん。これなら仲良くできそうだな」
涼平は手こそ伸ばさないものの、何やら満足げな表情を浮かべている。
「それで?この猫ちゃんは飼うってことで良いのかしら?」
沈黙を守っていた天宮さんが、楽しそうに笑いながら聞く。俺は三人分の顔色を素早く窺って、笑顔と一緒に一言答えを返した。
「満場一致だよ」
その瞬間から、四人と一匹の共同生活が始まったのだった。
* * *
みんなで話し合った結果、この猫は「リーパー」と名付けられた。リーパーの語源はreaper――刈り取る者、死神とかの意味を持つ単語だ。
別にこいつが不幸を運んできたとかそういう意味じゃない。死神っていうと髑髏の顔に黒いマントで、大鎌で魂を奪い去っていくようなイメージがある。しかし元々、死神は魂がすんなりあの世に行けるように美しい姿をしていると言われているのだ。だから、俺たちが死ぬ時にはリーパーがこっち側に残っててくれて、すんなりと逝けるように送り出してくれる。そんな願いが、この名前には込められているのだ。
「俺たちは幸せなのかもしれねぇな」
この話し合いをした時、涼平はそんなことを言った。
「別段不幸だとも思わないけど、なんで?」
「すぐ死ぬかもしれねぇって分かってるから、こうやって死ぬ日の為に準備できんだろ。自分の人生の限界が見えてるから、限界一杯一杯まで使えんだろ。それって俺らみたいな人間にしか出来なくね?」
「あぁ、確かにそうかもしれない」
「締め切りが見えると大嫌いな宿題もやりたくなっちゃうアレでしょ?」
「そう……かな?まぁそうか」
妙にドヤ顔で言ってきた誠に微妙な返事しか出来ない俺。
「まっ、俺は締め切り過ぎたって宿題ほっとくけどな」
「そこはドヤ顔で胸張って言ったらダメだろ涼平」
零斗の苦笑交じりの言葉に、病室には笑いが広がった。
「まぁ、宿題があったのなんて思い出せるぐらいの回数でしかないけどさ」
* * *
リーパーは本当に俺の支えだった。
何故なら、みんなと同じように俺もそう遠くない己の死を悟っていたからだ。時々、「自分が死んだらどうなるんだろう」なんて考えることもある。自分がいなくなった後の世界なんて俺には分からない。それがいつ来るのかさえ分からない。だけど俺が消えようと、同じ部屋の誰が消えようと、世界中の誰がどうなろうとも、リーパーだけはここにいてくれるような気がしたのだ。根拠なんて無い。だけど根拠があった方が嘘っぽいように思う。根拠が無いからこそ信じていられる、これはそういう類のものだ。
何より、誰もが死の気配を禁じえないこの病室内において、リーパーは唯一死を認識できていない存在だ。リーパーと出会ったあの日――結果的にあれが最後の散歩になったわけだが――、帰り道で感じた「命」が、リーパーには一番強く感じられる。まだ自分が死ぬことを知らない若い命。俺たちの命には無い力強い「生命力」を、俺は感じた。その温もりが自分の生を永らえさせてくれるような気がして、ずっと抱きしめたりもしたけど、そんな時もリーパーは嫌がること無く、じっとしていてくれるのだ。
「本物の死神が『執行猶予期間』で優しくしてくれてるんじゃない?」
その場で見ていた零斗はそんなことを言って、心持ち寂しげに笑った。
* * *
幾日か経ったある夜。誠は唐突に、明日手術をすると告げた。
「成功率は本当に低いから悪足掻きだと思ってくださいって。成功したとしても植物状態になっちゃうかもしれないって、そう言われた」
布団の上に胡坐をかくという体勢で、誠は事もなげに言った。緊張の糸が限界まで張りつめたままに、無理矢理明るい笑顔を浮かべる。
「……誠、お前その手術受けてぇのか?」
「受けたくない。けど、母さんが絶対受けた方がいいって言ったから」
「誠、本当にそれでいいのか」
静かな零斗の声に、誠は静かに俯いた。誰も動けない沈黙の中でリーパーがどこからかやって来ると、誠の正面に座って、促すように鳴く。それに緊張の糸が切れたのだろうか、誠の肩は小刻みに震え始めた。
「俺は……」
絞り出すような声。
「俺はっ」
一瞬の間の後、弾けるように顔を上げて、大粒の涙を流して、何かの堰が切れたように誠は叫んだ。
「死にたくない!!手術受けて死んじゃうならそんなの受けたくないッ!!」
喉が弾け飛んでしまうんじゃないかと思う位に、誠は絶叫した。
「俺は、俺はまだまだみんなと一緒に居たいッ!!」
それを叫んだきり、誠は激しい嗚咽と共に大泣きした。見かねた涼平が立ち上がり、控えめに背をさすりつつ持っていたハンドタオルを差し出す。くぐもった泣き声は余計によく聞こえる気がした。
「……なんで、誠なんだろうな」
ぽつんと呟いた俺の声は、どこにも落ちずに霧散していった。
* * *
その日は興奮状態だった誠を鎮静剤で眠らせて、俺たちは眠れぬ夜を過ごした。室内には誠の寝息だけがはっきりと聞こえていて、この音もいずれ聞けなくなるのだと思うと、いつまでも聞いていたいような気がした。涼平と零斗が息を殺しているのが気配で分かった。息を殺して、俺たちは何かを必死にすくい上げようとしていたのだと思う。でも何も、何も。掴めは、しなかった。
* * *
次の日の朝、誠はさっぱりと憑き物の落ちたような笑顔で俺たちに別れを告げた。どこか重い気分を振り払うように、俺も笑顔で応える。
「覚悟、決められたんだな」
「お陰様でーって感じ」
「そりゃ良かった。……いつから始まんだ?」
涼平は気障っぽい笑みを浮かべたまま。しかし声はわずかに震えている。
「準備が出来次第。俺の心の整理が出来次第準備だって」
「そっか」
泣かない。俺が誠なら泣いてほしくないから。笑っていてほしいから。
「俺ね、みんなに一つだけお願いがあるんだけど……聞いてくれる?」
「勿論」
にゃあ、と賛同するようにリーパーが鳴く。誠は深呼吸をして告げた。
「……もし俺が植物状態になったら、その時は…………殺して」
零れ落ちた言葉に、俺の背筋は割れるんじゃないかと思う位凍りついた。
「母さんは延命措置を取ろうとすると思う。そしたら……そしたら、押し切っても良い。俺は、そんなになってまで生きることを望んでないから」
重い沈黙を切ったのは、やっぱりリーパーの一声だった。
「……分かった。誠の気持は受け取ったよ」
「大丈夫。お前が望んだことなんだから、最後までやりきるさ」
「俺らのことは心配しねぇで、お前はお前のことを頑張ってこいや」
「…………ありがとう」
最後に一つ大きく笑って、誠は振り返らずに病室を出て行った。
「……あぁ」
俺の目から涙が零れ落ちたのは、それから数秒経った後のことだった。多分誠は、帰って、こない。
* * *
実は誠はこうなることを知っていたんじゃなかろうか、と思う。
俺たちに告げられたのは、想定した内で最悪とも言える事実だった。
――誠の手術は成功したものの植物状態に、母親は誠の延命処置を希望。
それを聞いた涼平の動きは、不自然な程に素早かった。天宮さんの話があったその日のうちに、どこからか果物ナイフを入手してきたのだ。
「だって。動ける俺がやるしかねぇだろ」
硬い声で言う涼平は、絶望に満たされたような、そんな顔をしていた。空のままの誠のベッドが運び出され、代わりに動かなくなった誠を乗せたベッドが帰ってきて、周辺の機械類が念入りにセットされて。その間は涼平も零斗も、誰一人として口を利かなかった。いや、利けなかったのだ。それは死者への哀悼の沈黙であると同時に、今夜起きるはず――というより起こす予定――の出来事への緊張からでもあった。
誠の死に対してどことなく冷めた感情を抱いている自分が奇妙でもあり、同時にそんな自分に対して奇妙に納得がいっているのも事実だった。勿論生命活動は無理矢理維持させられてるわけだから、厳密に言えば誠は死んでいない。だけど今夜の内に誠は死ぬ。誠が望んだように、誠が一番信頼したであろう仲間が、誠を現世に縛り付けている縛鎖から解放する。
これは誠が望んだことなのだから道理にかなっているのだ、そう思う。同時に人として殺人はいけないなんてのは屁理屈なんじゃないかとも思った。快楽殺人だろうが何だろうが、全ての殺人は特定の人を救う為に存在する。それによって誰かが救われるのなら殺人は肯定されるべきだ……。
にゃあ、とリーパーが鳴いた。どこか居心地悪げに室内をうろつくリーパーを呼びながら、ぽんぽんと自分の太腿を軽く叩く。するとリーパーは俺を見るや否や素早くベッドの上に飛び乗って、太腿の上に置かれたままの俺の左手の甲に、ぽてっと己の右前足を乗せた。
落ち着け――そう言われたような気がした。
あぁ、と小さく相槌を打って、俺はただぼんやりと情景を眺めていた。
* * *
その夜、食事が終わった後で涼平は大事な話がある、と言い始めた。あの日の誠と同じ体勢――布団の上に胡坐。切腹する直前の侍を急に連想して、何となく不吉な予感がする。リーパーは散歩、果物ナイフは枕の下だ。
「これだけ頼む……出来る限り最後まで、口を挟まずに聞いてほしい」
文というよりは単語を寄せ集めたように、涼平はそんなことを言った。俺と零斗は微かに、しかしはっきりと頷いて見せる。
「俺は、誠に頼まれたこと全部を、今夜の内に終わらせる」
それは明確な意思を、そしてはっきりとした拒絶を含んだ、宣言だった。
「お前らは多分、昨日の『願い』しか知らねぇと思う。だけど俺が――俺たちが誠から託された『願い』は、その一つだけじゃなかったんだよ」
その言い替え方の中に、何故か胸が締め付けられるような感覚を覚える。
「お前らにはタイミングを計って言えって言われてた。だから、今話す」
勿論俺たちは頷くだけ。それに安心したのか、涼平の口調はやや和らぐ。
「誠はな、人生諦めも肝心なんだよって言った。人間が唯一許されたのは、他の動物とたった一つだけ違うのは、自殺なんだって。人生をある程度自分の意思で終わりにすることが出来るのは、人間だけの特権なんだって」
涼平が言わんとしていることの7割方は理解できた、と思った。
「誠は……その権利は使っていいものなんだよって。特に俺たちはいつその権利が剥奪されてもおかしくない位置にいるんだから。使えるうちにそれを使っちゃうのだって一つの選択肢なんだから。人生に未練が無くなった時点で、躊躇わずにそれを使っちゃうのが一番良いと思うよってさ」
今、誠がその権利を行使しようとしているのと同じように。
「……それは一つの『願い』だと、誠は言った。一人一人が一番納得のいく人生の終わりを迎えてくれる、それが願いなんだと」
涼平もまた同じように、その権利を行使しようとしている。
「俺は潮時だ。ここらで人生降りるべきだと、そう思う」
認めてやるべきだ――そう分かってる。なのにどこか、納得いかない。
「……一応言っとくけどよ、お前らじゃ俺は止めらんねぇぜ。それに俺はもう、自分の人生はここで終わらせるって決めたんだ」
涼平の言うことは正しい。相手が病人とはいえ、ベッドから起き上がることも難しい俺たちがそれを物理的に止められるとは思えない。かといって説得で涼平が折れるとも思えない。そんなことよりも大きな前提として、俺は涼平のやることを肯定する立場だ。引きとめたりするはずがない。
「別に死ねって言いたいわけじゃねぇが……」
ふと、涼平は表情を陰らせて、俺らから目を逸らした。
「お前らも、幕を引きたくなったら引いちまった方がいいと思うぜ。もう自分の人生に未練なんて無いと、そう思ったら……迷わず引け。勧める」
「……涼平は、もう未練は無いの?ここで死んでもいいと、思うの?」
思わず質問してしまった俺を見て、涼平は僅かに苦笑したようだった。
「あれ、口は挟まないでくれって言わなかったっけか?」
「ごめん。だけどこれだけは聞いておかないといけないなと思って」
涼平はどこか一点を見つめて、答えについて考え込んでいるようだった。
「……正直俺も、未来への期待は拭い去れねぇな。もっと良い終わらせ方があるんじゃないかって、どこか二の足を踏もうとしてる自分がいる。それは事実だ。だけど、今を逃したら二度とチャンスは無い。それに俺がやろうとしてるのは殺人だ。下手すりゃお前らまで巻き込んじまう」
「俺らを庇う為に死ぬの?」
「その意味もある。でもそれよりも……俺は、誠と一緒にいたい」
愛してるとかいうニュアンスじゃねぇぜ?、とさも心外げに付け足す。
「……分かった。俺は反対する気は無いから……涼平がいいなら、良いよ」
零斗はぎこちない、それでいて柔らかな笑顔を浮かべて、そう言った。
「俺も、零斗と一緒。涼平の人生だもん。やりたいようにで、良いと思う」
俺がつっかえそうになりながら言うと、初めて、涼平は笑った。
「…………実はそれを待ってたんだ。お前らもそう言うなら、これで良い」
ふうと息をついて、枕の下から果物ナイフを引っ張り出す。ほとんど同時にリーパーがやって来て、俺のベッドの上でにゃあと鳴いた。リーパーを見た涼平は、不敵に、そしてどこか悲しげに、口の端を吊り上げた。
「死神様も見物か……良いねぇ。絶対にしくじらねぇって気がする」
言いながら、涼平はその禍々しく輝く刃を振り上げて――――――――。
その後のことは、覚えていない。
ただ、何一つ音がしなかったということだけを、覚えている。
* * *
それから一体、どのくらいの月日が経ったのだろう。
窓から見える木々の様子や通行人の装いから、辛うじて季節だけは知ることが出来る。だがそれも、何度巡ったかを覚えていなければ役には立ってくれない。まぁ病室から出ることも無いから、正直な話、今がいつかなんて知る必要は無いのだ。日々が楽しい、それだけ分かれば良い。
「あの」事件の数日後だったと思う、天宮さんは交通事故で亡くなった。今は花前さんという看護婦が後任で付いていてくれるのだが、どうにも静かすぎるところがあって、俺としてはちょっと馴染み難い。沈黙や静寂は、堪らない。今にも死んでしまいそうな、全てがふっと途絶えてしまいそうな、そんな感覚がしてしまう。
ちなみにこのところの俺の容体は、はっきり言って悪い。今では自力で起き上がるのも厳しい位だ。だから窓の外を眺めることも難しくなり、零斗が話してくれる外の様子を想像することで景色を見たことにしている。
その零斗もここ数日、この部屋に戻ってこない。零斗も良くないのだ。覚悟をしておいた方がいいと、問診に来た医師は俺にさらっと言った。
覚悟なんてとっくの昔に出来ているのだ。誠と涼平が死ぬ前、誠が手術を受ける前、野良猫だったリーパーと出会う前、その全部の、もっともっと前に。同室の人間で早く死を迎えないものはいない。そんなことは分かってた。俺たちの命は蝋燭の火だ。どんなそよ風でも消えかねないそんな小さな灯が、いつ消えてしまうかなんて誰にも分からない。
――だけどやっぱりリーパーは、俺のそばにいてくれる。
いつだか聞いた話だとリーパーは誠の手術室の前でずっと座り込み、施術後の誠が出てくるのを待っていたのだという。誠と涼平が行ってしまったあの時にも、リーパーは同じ部屋でその一部始終を見届けていた。その後の天宮さんの交通事故の時も、珍しくリーパーは天宮さんに付いて病室を出て行った。凄く驚いたのを覚えている。
――思うに、やっぱりリーパーは本物の死神なんじゃないか。
そんなことを考えていたら、俺のベッドの上にリーパーが乗ってきた。まるで心外だとでも言いたげに、にゃぁあと心持ち長めに鳴く。
開け放された窓から、妙に湿った風が吹きこんできて、嵐を予感した。
いくら湿っているとは言ってもやはり吹き込む風は心地よくて、俺はふと目を閉じてみる。目を閉じると今でも思い出すのは、あの初夏の公園だ。騒がしい蝉の大合唱と、野球少年たちの赤と白のユニフォームと、子供たちのまだ高いはしゃぎ声と、見上げてきたリーパーの銀色の両目と、そして空を見上げた血色の視界に重なった、二本の真っ白な軌跡。
それらはつまり、溢れんばかりの命だ。
俺がどんなに願っても手に入れることの叶わなかった、輝き。
――ふと、先に行ってしまった二人はもう来世に行ったのだろうかと思う。来世には強い輝きを放てるといいなと、そう願う。そして願わくば俺も来世には、強く輝いてみたい。まだ死にもしないうちから何が来世だよ、と思ったら、何となく可笑しくて笑いが込み上げてきた。来世なんてあるかどうかも分からないものに頼るしかないほど、俺は自分の現状に不満を抱いてるのだろうか。
勿論これ以上の人生は無いだなんて言えない。病気が無いだけでも大違いだろうと思う。だけど、それはこの人生で得たたくさんの出会いや感情や考え方や、そういうもの全部を帳消しに出来る程のものじゃない。誠と、涼平と、零斗と、みんなと出会えただけで、それだけで俺は幸せだ。
ゆっくりと開いた目の、視界の片隅。
窓枠の中を、左から右へと何かが過ぎった。
目を、見開く。
それはあの公園で見た、真新しい硬球にそっくりだった。
顔を左に向けてじっと見ていた俺の視界に、それは何度も現れ、消えた。
感動のあまり、俺の視界はじんわりと滲みだしていた。
その軌跡を焼きつけようと、俺は力を振り絞って目を閉じた。
視界が白色と空色から、光の渦巻く血色の世界へと反転して―――――。
どこかで、猫がにゃあと鳴いた。