仮名蛇/かなへび
【仮名蛇/かなへび】
深碧の田は未だ黄金に染まらず、夏の気配を色濃く残し。
ゆるやかに坂道を往く水路からは流水の音が絶え間なく響いている。
そのような畦道をただ独り、盆東風を楽しみながら歩いていると、一匹の小さな仮名蛇と出くわした。
"目の前を、ちょろちょろと小仮名蛇が一条"
泉鏡花の本歌取りを目指した訳ではないが、暇であるからして、そのような戯れ言をついぞ思いつく。
広く知られた蜥蜴の名を使うのが一般的なのだろうが、昔から「かなへび」と呼んでいるため人前でなければトカゲではなくカナヘビと呼んでいる。
かつてはよく見たものだが、最近はとんと姿を見かけなくなった。
蛇と名はついているが、仮名蛇には混凝土をしかと踏みしめる短い四肢がついている。
よくよく見ると、目の前の仮名蛇は文末がちょこんと途切れていた。
親しみある懐かしく柔らかい書体であるからして、近所の悪戯小僧に追いかけられたのであろうか。
はたまた、緩やかな「です」「ます」といった曲線美を命の代わりに鼬か狸へ供物として捧げたのか。
体言止めとなった仮名蛇の姿は痛々しくもあり、どこか風流でもある。
仮名蛇はじっと、円らな黒いルビで此方を見上げている。
平凡で、懐かしい、ゴシック体であった。
昨今、日本仮名蛇が減少を辿る一歩で、欧州振仮名蛇の愛好家が数を増してきた。
「蛇の抜け殻を財布に入れれば金が貯まる」と嘗て囃し立てられたものだが、今では「振仮名蛇の抜け殻を頭上で一振りすれば意識が上がる」と云われるらしい。
「意識が上がるとは何か、病院寝台の枕元に備え付けてあるのか」と訊ねた私に、同研究室に所属するものは失笑を返した。
「このようなをアジェンダが蒸し返されることに驚きを禁じ得ません。アサインを見直すべきでは」
「いや、いや。こういったコモディティ化の遅れがチーフサクセスファクターを潰すのですよ」
研究室の中をヒラヒラと翻る、長短様々な振仮名蛇の抜け殻達。
ここはタオル乱舞するライブ会場かと目を疑った。
呆気にとられたが、振仮名蛇について少しも理解できないということは理解できた。重ね重ね、自らの無知を恥じるばかりである。
意識が高かろうが、低かろうが。やはり、慣れ親しんだ仮名蛇が一番落ち着く。
仮名蛇は来た時と同じように、チョロチョロと草の茂みに潜って消えた。
夏も終わる。キキキと日暮が鳴いていた。
アジェンダ:議題 (多分)
アサイン:人員配置、担当 (多分)
コモディティ:一般化、広く知られた状態にする (多分)
チーフサクセスファクター:CSF めっちゃ重要な成功要因 (多分)