指定石/していせき
【指定石/していせき】
随分と長い間、誰もいない山道を歩いている。額に浮かんだ汗を拭うと、腕時計の短針が文字盤の二と重なった。
こんな所に本当にあるのだろうかと疑念を持ち始めた頃、蝉の合唱に囲まれたその店を見つけた。
庭の玉砂利に茂る蘇鉄の青々した緑と力強い鱗状の幹は、日本とも異国とも言えぬ独特の、強いて言うなれば南国の風を周囲に巡らせている。
ここまでくると山の青臭さに混じり、薄らと香ばしい挽いた豆の匂いが漂ってきた。
『喫茶 山鳩亭』
一見して高原の別荘を思わせる店の脇には三、四台の車が行儀良く並んで座っている。余程の変人でなければ、この店に歩いて来ようなどとは思わないだろう。例えば、私の様な変人だ。
「いらっしゃいませ」
長い時間、真夏の山道を歩いた身としては、冷房の風が天上の風にも感じられた。明るい掛け声と共に、カラン、と氷の回る音がする。店内はそこそこ繁盛していた。驚くべきことに、私以外にも歩いてこの店に来る変人が少なからず存在するらしい。
「おひとり様ですか」
カウンターで豆をひいていた初老の男性に声をかけられ、私は慌てて名刺を取り出した。
「N大学の三十七番と申します。此方に指定石が在ると聞いて参りました」
「ああ、電話くれた学生さんね。暑い中、わざわざご苦労様」
彼はくだけた口調となり微笑みを見せた。
「何か飲んでいくかい?」
「ええ、宜しくお願いします。アイス珈琲を、一つ」
先ほどから誘惑してきて止まない、冷たい飲み物の喉越しを想像しながら、私は申し出を受け取る事にした。
指定石とは実に珍しい鉱物である。
鉱物とは様々な化学物質が自然界の中で結晶化したものだが、指定石は違う。
自然界ではなく、人間界の中で結晶化する。
先程声をかけてきた主人の計らいで、山鳩亭に在る指定石と相席する事になった。
ほどよく使いこまれた椅子の背に、拳大の結晶が生えている。先端の尖った六角柱は水晶などでよく見る形だ。
色の美しい指定石だった。出されたアイス珈琲が結晶化しているのではないかと疑うほどに。暗みを帯びた焦げ茶色が、先端に向かうにつれて蒼へ色を変化させていく。窓から見える、遠浅の海によく似ていた。
私は静かにストローに口をつけた。焦げた豆の苦味と少しの酸味。これはコロンビアですかと訊ねれば「オリジナルブレンド」と返された。
指定石の前にも布のコースターが敷かれ、氷とアイス珈琲が並々と注がれたグラスが置かれた。
「この爺さんもブレンドが好きでね。今日みたいな暑い日には、アイス」
「爺さんですか」
そうさ、と主人は続けた。
「石と言っても、俺にとっちゃあ馴染みの客だ。俺が子供の頃から、そこに座ってた。代が変わって、最初は俺の珈琲が気に入らないってヘソを曲げて、そりゃあもう大変だった。最近、ようやく爺さんが満足してくれる珈琲を淹れられるようになったんだ」
主人はそう言って、目を細めた。
「学生さん。指定石ってもんはね、ひとつひとつが意志を持っているんだよ」
初耳です、と答えた。鉱物が独自の個性を持つなんて、ましてや性をもつだなんて。長年研究室に属している私も初めて知る情報である。色味や形状は、まさか鉱石個人の意思によって決定するとでも言うのだろうか。主人の言葉が真実だとすれば大発見だ。
「石だけに」
そういって主人はカラカラと笑った。
果たして今のは親父ギャグというものなのだろうか。真偽を確かめたくとも主人は会計に行ってしまった。
「どう思われますか」
途方に暮れつつ指定石へと問いかける。彼は窓辺の光を反射してチカリと光って見せた。