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第1話 転機は突然の雨

1995/02/22

バイクにまたがり高円寺へ向かっている。小道から環状線に入った辺りで雨が降り出した。アスファルトはビニールが燃えるような臭いを発し、段々と変色する。急に雨が降り出したにもかかわらず、歩道の人たちは傘を差している。とくに急いでいるわけではなかったが、雨宿りをするより早く帰って暖かいシャワーを浴びる方を選んだ。

 雨粒が眼球に飛び込み軽い痛みを覚える。降り始めは目を細めるだけで対処できたが、今はそうもいってられない。銀色のキャップ型ヘルメットに取り付けておいた黒革のゴーグルを下ろした。全身がずぶ濡れになり重力を実感する。身体が冷えたせいか、膝にバイクの温度を感じる。ザーザーと降りしきる雨の音。トットットッと一定のリズムで刻まれる単気筒独特の鼓動だけが異音として存在した。

 車は渋滞することなく流れ、ぼやけて見える信号の色は四区画先まで青色だった。いつもより快調に進んでいる。車が詰まり出すと場所によって三車線それぞれの流れが変わるのだが、今日は脇をすり抜けていく必要もない。ただ車の後輪が巻き上げる水しぶきを浴びたくないので、外側の車線を走っていた。

 

 転機は前触れもなく訪れた。


 流れる視界の先に人のかたちが飛び出してくる。

(危な――)

 脳が危険と判断し体の隅々まで信号を送る。それに反応して左手はハンドルを切り右手はブレーキを握った。

 一瞬つんのめるようにあらゆるものが停止する。身体が前方に飛び出す。前頭部に耳鳴りがするほどの衝撃。ボギン、と骨がひっくり返るような音が頭蓋骨に響いた。

 気絶していたのだろうか。頭痛を伴い眠りから覚めた感覚に陥った。高音の音源が体内に反響をしていたのが弱りだし、目を見開いた。

 視界は灰色の空を見ている。顔に雨粒が垂直に降りそそぐ。ヘルメットが脱げているせいか、締め付けられている血管が解放された軽やかな感覚が頭を覆う。

(やっちまったぁ。ひいてしまったのか)

 身体に何にも痛みを感じなかったので、思考回路は飛び出した人の安否に向いた。すぐに力を入れて起きあがろうとした。

 身体が動かない。

(えっ、なんでだろう?)

 空を向いて寝ているのに、バイクに座っている感覚が残っているのに気づく。ただ天に向かって突き出す二本の腕はそこにはない。首がかすかに動き、腕を確かめるため肩口をのぞき込もうとした。

「だめ、動かさないで!」

 女性の声が聞こえる。雨が目に入りぼやけていたが、逆さの顔が視界に入ってくる。ぼくの顔を固定するように頬が両手に挟み込まれ、とてもあたたかく感じた。

「今、救急車呼んだからもう少し待って」

 顔の上で話しかける声。瞬きをするが水滴が目のくぼみに集まり、いっこうにぼやけたままだ。

(ひいた人は無事ですか?)

 頭で思っただけで声に発していないのに気づく。血の味がする口からかすれた小声がでた。

「ひっ、ひいた人は無事ですか?」

「だいじょうぶ。誰もひいていないわ。どこか痛いところある?」

 それを聞いて安堵に包まれた。深呼吸をして自分に言い聞かせるようにつぶやいた。涙声になっていくのがわかった。

「よかった。本当によかった。助かってくれて本当によかった」

 もちろんひいてしまったという罪悪感から解放されたよろこびはある。それでも助かったことのよろこびは大きく、胸にこみ上げるものがあった。目頭が熱くなり耳穴に涙が流れ込んだ。

「あの、身体は痛くないんです。でも起きあがれないんです。身体が動かないんです。」

 ぼくははじめて自分の状態を説明した。痛みがないため、ただ路上に寝ているだけに感じていた。

 返事がない。ぼくの世界にはぼやけて見える輪郭と雨音やかすかなエンジン音、排気ガスにかぶさるオイルの臭いが存在した。

 ポトン、ポトンとおでこにあたたかい水滴が落ちてくる。彼女も涙声になった。

「だいじょうぶよ。あなたは助かるから。絶対助かるから。……助けるから」

(この人は何をいっているのだろう。どこも痛くないのに)

クビです。クビだと思います。と彼女が誰かに向かって叫んでいる。

 あくびが立て続けに出てきた。目を閉じると相変わらずバイクに座っている感覚に陥る。顔に毛先があたり、額にあたたかな吐息を感じる。彼女の香水らしき柑橘系の香りと血のにおいがぼくを包みこんだ。雨音が遠くのほうで聞こえるようになり、やがて眠りに落ちていくのがわかった。

どうしても自分の中で書きたかった、残しておきたかった私小説です。1週間に1度ペースで更新していきます。

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