第七章
「すすすすすすみませんっ! ちょっ、ちょっとよろしいでしょうかっ!」
丁度教室を出たところで突然声をかけられた女生徒は、多少ビックリしながらも、
「いいけど……何かな?」
と笑顔で答えた。
それは目の前の男子生徒が、小柄だが顔立ちも良く、パっと見が可愛らしかった事も大きいだろう。
「お、俺は、う、う、浦崎、た、琢磨と言います! 出席番号三番ですっ!」
「はあ、それはどうも……」
女子生徒はキョトンとした顔で答えた。
「ご、ご記憶にありませんか?」
「あなたの事? どこかで会ったっけ……? あれ? でも 『浦崎』 って、どこかで聞いた事があるような……?」
「お、俺は、あなたと同じクラスなんです! そ、それで……」
「ああ、転校生なの?」
「い、いえ、違います! つ、つまり、あなたと同級生で……」
しかし、琢磨の言う事が今一つ理解出来ないのだろう。
女生徒は首を傾げながら、不思議そうな顔をしているだけだ。
……まあ、それはそうだろう。
ここまでどもりつつ、かつ要領を得ないのでは仕方ない。
女生徒は直立不動で汗をかいている琢磨に向かい、
「ごめんね、わたしちょっと忙しいんだ。 じゃ」
と言い残し、そのまま廊下を歩いて行ってしまった。
「つ、疲れた……」
女子生徒を見送り、琢磨はホっとしたように汗を拭い、全身で息を吐いた。
「駄目だ駄目だ駄目だっ! 琢磨、そんなんじゃ話しにならねえだろうが」
疲労困憊といった感のある琢磨の背後から、真一郎の容赦無い声がかかった。
「もっと自分を強烈にアピールしなきゃ、話しかけた意味がねえだろ?」
「い、いや、しかし……俺は、こういった事は不得手で……」
「しかしじゃねえ! いつまでもドモるわ緊張しまくるわじゃ、女の子の友達が出来んだろうがっ! これから先、高校、大学、社会人になったって、どこにでも女性はいるんだぞ? 女性の相手が苦手なままで、将来どうすんだよ!」
「俺は別に、異性の友人がいなくても困りはしないが……」
「困る困らないの問題じゃねえっつーの! だいたい、あの雛子ちゃんにさえ存在を認識されてなかったんだぞ? もっと存在感を出せ!」
「そうは言うが……。 そもそも俺は、目立つ事をするのが苦手なんだよ……」
「そういう問題でもねえっ! いいか? 学生時代ってのは、不特定多数の人間と知り合う絶好の機会なんだぞ? それを逃がして何とするか!」
どうやら、いつもひっそりと身を隠している琢磨の事を、真一郎が表舞台に引っ張り出そうとしているらしい。
琢磨本人は今のままでいいと思っているようだが、真一郎にはそれが気に入らないらしい。
「一緒にいるこっちだって、お前がそんなんじゃ困るんだよ。 みんなで一緒にって企画が立て難いだろうが」
……成る程。
「し、しかし……」
「いいからやれっ! 今日中に、最低でも三人以上の女の子と仲良くなるんだ!」
「む、無茶を言うな! 俺は女性に声をかけるだけでも、物凄い精神力を消費するんだぞ! それを仲良くなるなど……不可能だ!」
「不可能を可能にするのが男というものだ。 俺様の遠いご先祖様も、DNAの中でそう仰っておられる」
「お前には遺伝子情報の声が聞こえるのか……?」
「ほれ、慣れるのには丁度いい感じの女の子が出て来たぞ。 琢磨、行け」
「うわあっ!?」
いきなり真一郎に強制的に振り向かされ、ドン! と背中を押された琢磨は、つんのめるような格好で、女の子に抱きつく形になってしまった。
当然、いきなり抱きつかれた女の子は驚く訳で……。
「きゃっ!」
「あ……」
ふわりと琢磨の顔に柔らかい物が触れた。
仄かに良い香りがする……。
「あ、何だ琢磨君か……驚いちゃった。 どうしたの? いきなり」
「さっ! さ、さ、さ、佐伯っ!?」
琢磨は慌てて雛子から離れると、滝のような汗を流しつつ、オロオロとしている。
先程感じた柔らかい物体の正体……それは目の前にある二つの膨らみに他ならない。
琢磨の血液は、一気に顔面へと集中した。
「琢磨君も、こんなお茶目するんだね。 ちょっと意外だったな」
「す、すまん! ワザとじゃないんだっ! 突然、真が押したものだから……決して俺の意思ではないんだ! 許してくれっ! 信じてくれっ! 何ならこの場で腹を切ってもいいっ!」
「そ、そんなに謝らなくても……ちゃんと解ってるから大丈夫だよ、琢磨君」
雛子は苦笑しつつ言った。
これが他の男子生徒なら悲鳴の一つも上げるところだが、相手が琢磨では子供にされたのと変わりない程度でしかないのだ。
何しろ琢磨に厭らしい考えが全く無い事など、既に雛子は知っているのだから。
「あー! 浦崎君が女の子襲ってるーっ! やらしぃ〜、卑猥ぃ〜」
「し、真っ!」
真一郎の決して小さくない声で、周囲にいた生徒達が何事かと視線を送り始めた。
中には当然、琢磨の事を知っている者もいる訳で、ヒソヒソと琢磨の名を出して話しているのも聞こえる。
「いや〜ん! 真面目な人だと思ってたのに、そんな事するなんて不潔だわ〜!」
「真……貴様、わざとやったな……?」
「これじゃ嫌でも目立っちゃうね〜。 誤解を解く為に、みんなと話さなきゃいけないね〜。 今日から大変だね〜……頑張ってね」
「お前の言う事を真に受けた俺が馬鹿だった……!」
琢磨は即座に教室に入ると、掃除用具入れのロッカーからモップを取り出し、先端部分を取り外して……。
「叩き斬るっ!」
と、一目散に逃げる真一郎を追いかけ出した。
「真! 待たんかぁーっ!」
「何だよ、お前の女性恐怖症克服の為に協力してやったんだろ? それに、自分が馬鹿だったって、さっき言ったじゃんか」
「お前を斬り捨てたあと、俺も腹を斬る……俺と共に死ねっ!」
「お前と心中なんて嫌だよ。 可愛い子となら少しは考えてもいいけど」
「お前を生かしておいては後顧の憂いが残る……後々の安寧の為にも、ここで成敗してくれるっ!」
「せんせ〜い! 浦崎君が痴漢行為をした挙句、学校の備品を壊して廊下を走ってま〜っす!」
「おのれはっ! まだ言うかっ!」
ブンブンとモップの柄を振り回す琢磨をからかいながら、真一郎は廊下を全力疾走して行く。
その様子を、雛子はやれやれといった表情で見送りつつ、とりあえずその場にいる生徒達に、今のは真一郎の悪戯であって、決して琢磨が変な事をした訳では無いのだと説明し始めた……。
「ははは。 そりゃあ災難だったな、琢磨」
放課後、 『らんぶる・ろっく』 に立ち寄った涼は、昼間の出来事を雛子から聞かされ、琢磨に同情しつつも笑いを堪えられなかった。
「涼ちゃん、笑ったりしたら悪いよ」
「まったく……佐伯が説明していてくれなかったら、俺は教室へ戻れないところだったぞ」
「気にし過ぎだって、琢磨」
真一郎は琢磨の怒りなど全く無視して、
「いっその事、そのまま変態キャラを定着させるってのはどうだ?」
と、更に琢磨の神経を逆撫でしている。
「ふざけるなっ!」
「真君、もうやめなよぉ……。 琢磨君も、あんまり真君のペースに乗せられちゃ駄目だよ? 思う壺なんだから」
「む……そ、そうだな……。 お、俺も些か冷静さを欠いていたかもしれん。 そのせいで、真に一撃も浴びせられなかった」
「いきなりモップの柄なんか振り回しやがって、危ねえだろうが」
「お前がそうさせたのだろうが……。 真、今度あのような真似をしたら、俺は容赦せんからな」
「ははは、無理無理。 俺にだって、あのくらいならかわせるぜ」
怒りと恥ずかしさとで我を忘れた琢磨は、ただ闇雲にモップの柄を振り回していただけなので、その程度ならば怖くないと真一郎は思ったのだが……。
「今度は心を静めて振るう。 的は外さん……」
静かに紅茶を飲むと、琢磨はポツリと言った。
物静かな言い方なのだが、何故かそこからは、えもいわれぬ迫力が感じられて、真一郎の全身に鳥肌が立った。
「……あの〜、琢磨さん? つかぬ事をお伺いしますが」
「何だ? 真」
「今日、俺に向かって何か技とか出しました? ほら、剣道でも色々とあるじゃないですか、横面とか何とか」
「いや、ただ振り回していただけだ。 あんな所で技など出したら、無関係な人まで巻き込んでしまうからな」
「……? いや、何となく俺の質問と、その答えは微妙に違うような気がするんですけど……?」
「お前を相手にするのに通常の技では甘過ぎる。 一撃必殺の奥義を叩き込まねばな」
「お、奥義って……」
そう言えば……と、真一郎は思い出していた。
確か琢磨は 『浦崎流剣術』 という、オリジナルの剣を振るうのだ。
それを琢磨に伝授している琢磨の祖父は達人級の使い手だと、以前琢磨に聞かされた事があった。
「お前、何歳から剣道やってんだっけ?」
「三歳からだ。 一年間みっちりと基礎をやらされて、四歳の時から浦崎流剣術の稽古が始まった。 それから半年後には抜刀術も叩き込まれたよ」
「で、でもよ、奥義とかって、そんなに簡単に身に付くもんじゃねえだろ?」
「その通りだ。 今まで稽古中に何度意識を失ったか知れん」
琢磨は軽く首を左右に振ると、紅茶を一口飲んで続けた。
「だが、その甲斐あって、今では七つの奥義が使える」
「な、七つ?」
通常、奥義などという物は一つ、多くても二つくらいの物だと思っていた真一郎は、本気でビックリしている。
「だが究極奥義は封印しているからな、実質使えるのは六つだ」
「きゅ……究極奥義? ちょっと待て! 普通、そんなのは最後の最後で教わるもんじゃねえのか!?」
「俺は最初にそれを教わったんだ。 祖父にも考えがあっての事だろう。 今は他の奥義を習得中だ」
「のっけから覚えちまう、お前もお前だよ……」
天才……真一郎の頭には、その言葉が浮かんだ。
恐らく琢磨には、剣にかけては超一流の才能があるのだろう。
これは琢磨を本気で怒らせるのはやめておいた方が無難だな……と真一郎は思った。
今後、琢磨をからかう時には、慎重にする必要があるだろう。
いや、からかわなければ何の問題も無いのだが……。
「俺や真とは違うって事だな」
「いや、お前達もかなりの物だと思うぞ? 無手勝流であそこまでとは、正直驚いた」
剣道場での乱闘の事を言っているのだろう。
あれだけの人数を相手に、二人とも決して本気を出していた訳でない事は、琢磨には判っていた。
何しろ暴れた直後だというのに、息も切らせていなかったのだから。
「俺はガキの頃から喧嘩ばっかしてたからな。 涼はサラブレッドだしよ」
「サラブレッド? 涼のご両親は、何か武道でもやっておられるのか?」
「いやいや」
真一郎はクスクス笑うと、涼に視線を送った。
「俺の親父は学生時代、美浜って人とニ人でかなり暴れてたんだよ。 美浜さんは、今でも地元の街じゃ顔が通ってるくらいなんだ」
「涼の親父さんにゃ 『無敵の鬼神』 って異名が付いてたんだってよ」
「ほう? それは凄いな……まあ、俺のような一般人には無縁の世界のようだが。 それで、お前のお母さんというのは?」
「……親父がただ一人、完膚無きまでに叩きのめされた相手だ。 親父の生涯戦歴で、唯一の黒星だとさ」
「何と……」
「で、でもね、琢磨君。 おば様はとっても優しいんだよ? わたしにお料理を教えてくれたし、何だって出来るんだよ?」
このままでは、環は単なる 『強い人』 になってしまうと思ったのか、雛子はすかさずフォローに入った。
事実、雛子は環の優しい顔しか見た事が無いし、いつも甘えさせてくれるのだから尚更だ。
「強くて優しく、その上料理上手か……まさに理想の女性像だな」
「琢磨……お前、自分で言ってて、何か変だと思わねえか……?」
どうも琢磨と真一郎では、色々と感じる所が違うらしい。
「さて、俺はそろそろ失礼させてもらうよ」
「何だよ琢磨、もう帰るのか?」
自分の分の代金を置いて立ち上がった琢磨に、真一郎が言った。
「今日も稽古があるんだ。 これから祖父の道場まで行かねばならん」
「そっか。 んじゃ、またな」
「琢磨君、またね」
「ああ。 お前達も早く帰れよ? いつまでもウロウロしていてはいかんぞ?」
笑顔でそう言うと、琢磨は店を出て行った。
「帰り際、最後の一言があれだもんな〜……」
真一郎は、しかし愉快そうに笑いながら言った。
「ま、琢磨らしいよ」
涼の中でも、琢磨に対する評価は 『生真面目』 となっているらしく、それに関しては問題にしていないようだ。
「それはそうと……真君」
「ん?」
「もう琢磨君に悪戯しちゃ駄目だからね? あのあと大変だったんだから」
「大変って?」
「琢磨君、いつも静かにしてるからみんなの印象が薄くて、まずは琢磨君の事を説明して回らなきゃならなかったの……」
雛子は心底疲れたように言った。
それはそうだろう。
まずは琢磨がクラスメイトだという事から始まり、その人となりまで説明しなければならなかったのだから。
「ははは、それはご苦労様でした」
「笑い事じゃないよ、もう……。 でも、みんなちゃんと解ってくれたけどね。 あ、それでね」
「まだ何かあるの?」
何故かクスクスと笑っている雛子に真一郎が訊ねると、
「代わりに真君の評判が落ちちゃった。 そんな真面目な人を陥れるなんて酷い! って、女子の間でね。 今までの真君の苦労は、全てリセットされました」
そう言って、雛子はペロっと舌を出した。
「嘘っ!?」
「本当」
「勘弁してよ雛子ちゃん……」
「ま、自業自得だな、真」
しかし、真一郎ならそれくらいはすぐに挽回するだろうと、涼も雛子も笑いながら思っていた。
「はあぁぁぁっ!」
「む!」
玉砂利が敷き詰められた庭の池には鯉が泳ぎ、その傍には石灯籠があって、手入れの行き届いた松ノ木が見事な枝を広げている。
これでもかと言うほどに和風な庭で琢磨と手合わせしているのは、琢磨の祖父であり、また剣の師匠でもある浦崎弦磨その人である。
綺麗に撫で付けられた頭髪も、見事に蓄えられた髯も真っ白だが、その年齢を感じさせない動きだ。
「甘いっ!」
琢磨の木刀を弾き、弦磨の木刀が一閃する。
手にしているのは紛れも無い木刀だというのに、その気迫の為か、触れたらたちまち腕を切り落とされそうな雰囲気のある一撃だ。
「何のっ!」
しかし、琢磨はそれを巻き込んでいなすと、再び弦磨へと一撃を繰り出す。
「どうした琢磨、今日は普段にも増して剣が冴えておるではないか……何か良い事でもあったか?」
「はい! 俺にも友と呼べる存在が出来ました!」
小学生の頃は、いつも静かにしていた上に、独特の喋り方や考え方の為に友人らしい友人もいなかった。
それに一緒に遊ぼうにも、琢磨にはこうして稽古をする時間が優先されていた為それもままならず、結局、自然と独りになって行ったのだ。
「ほう?」
「昨日までは単なる知り合い程度でしかありませんでしたが、今日ハッキリと解りました。 彼らは、俺の生涯の友となってくれると!」
「そうか、それは良い事だ……友は大事にせい。 いずれ、お前の力になってくれよう」
「はい!」
「では、その友を護れる男になる為にも精進せい、琢磨!」
「はい!」
目にも留まらぬ速さで打ち合いながら、ニ人は会話を交わしている。
それは祖父と孫の会話というより、やはり師匠と弟子のそれに近いだろうか。
「ならば琢磨、ワシから一つ祝いをやろう。 ……しかと刻み込め!」
弦磨は木刀を一旦脇に納めると、その柄に手を掛けた。
その瞬間、琢磨の身体中に危険を知らせるシグナルが駆け巡った。
このまま正面に立っていたら殺される! そう感じた琢磨は瞬時に脇へと飛び退いた。
と同時に、
「浦崎流抜刀術秘奥義! 火閃龍斬撃一刀之舞 (かせんりゅうざんげきいっとうのまい) !」
弦磨の繰り出した一撃は石灯籠を真っ二つに切り裂き、その剣圧で池の水面をも割った。
驚いた鯉が跳ね上がるのを見て、琢磨は一瞬恐怖を感じた。
それは技の威力に対してだけでなく、自分と弦磨の間にある、圧倒的な力の差を感じての事だった。
「研ぎ澄ました技はここまでの威力を持つ……使い所を誤るでないぞ?」
「……はい」
「ワシは今以上をお前に見せるつもりは無い。 あとは自分で技を磨き、習得せい……いいな?」
「はい」
「……少し疲れた。 今日はここまでにしよう」
弦磨は琢磨と正対して一礼すると、ゆっくりと歩き出し、縁側に腰を下ろした。
「お祖父さん、お加減が悪いのですか……?」
弦磨の隣りに腰を下ろし、琢磨は心配そうに弦磨の顔を覗き込んだ。
このところ、弦磨は酷く疲れ易くなっているように琢磨は感じていた。
年齢から来る物だけでなく、どこか病的な物に思えて仕方が無かった。
「案ずるな、まだ暫くは死なんよ。 そうさな、お前の子……いや、せめて嫁の顔を見るまではな」
「よ、嫁!?」
「恋は良い物だな、琢磨。 人を活き活きとさせる」
「な、何を仰っておられるのか、俺には解りません……」
「良き伴侶を得られるように、自分をしっかりと磨け。 さもなくば、せっかく見つけたお相手にも逃げられてしまうぞ?」
「な、な、な……!?」
「はっはっは! お前は何もかも顔に出過ぎじゃ」
どうやら琢磨が誰かに恋をしているのを、弦磨は見抜いたようだ。
今まで見せた事の無かった琢磨の表情を見て、弦磨は祖父の顔で笑った……。