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第五章

「おはようございま〜す!」

 宇佐奈家の前で、元気な女の子の声が響いた。

 ゴールデンウィークに入ってからというもの、毎日聞こえる声である。

 勿論、ただ玄関の前で叫んでいる訳ではない。

 ちゃんとインターフォンを押して、対応に出て来た環に向かって言っているのである。

「あら、利恵ちゃん、おっはよん。 毎日ご苦労様ね」

「お母様、いつもお騒がせしております! 涼は起きて……ませんよね?」

「いつもの通りよ。 どうぞ、自由にやってちょうだい」

「ではでは、お邪魔させて頂きます」

 休日というと、涼はいつも昼過ぎまで惰眠を貪る事を常としている。

 無論、今日もまだ夢の世界で幸せを謳歌している真っ最中だ。

 トントンと軽やかに階段を上る利恵の足音も、部屋のドアを開ける音も、涼の耳には全く届いていない。

 口を半開きにして寝ている涼の顔を覗き込んで、全く起きる気配がない事を確認すると、利恵は腕組みをしながら考え始めた。

「う〜んとぉ……一昨日は濡れタオルを顔に乗っけたし、昨日はいきなり上に乗っかったから、今日は違った事をしたいなぁ……」

 ……徐々に過激になって行くように思えるのは、果たして気のせいだろうか?

「そうだ! 今日はこれで行こう!」




 妙な寝苦しさを感じて、涼は寝返りを打った。 

 まだ意識は覚醒していないが、それでも 『何かが違う』 という漠然とした感覚がある。

「う〜ん……」

 どうしても、いつものように快適な眠りによる心地良さが感じられない……それどころか嫌な圧迫感を感じる。

 それは意識がハッキリするつれて、段々と大きくなって行くような感じだ。

「ん……」

 何となくいい匂いがする……そして仄かに感じる温もり。 

 それに、何やら腕に柔らかい物が当たっている感触がある……。

(……何だ? これ)

 まだ寝ぼけたままの頭では正常な思考も出来ず、涼は反射的に 『それ』 を手で触って確認してみた。

 『ふにふに』 とした感触がある 『それ』 は、いつかどこかで触った事がある物のような……。

「……?」

 目を閉じたまま、思わずギュっと掴んでみた。 

 と同時に、

「いたた。 痛いよ、涼」

 聞き憶えのある声が涼の耳に飛び込んで来て、今まで閉じていたとは思えない程、涼の目は思い切り大きく開いた。

 そして、涼の目に映ったのは、 

「おはよ〜、マイ・ダ〜リン」

 と、優しく微笑む利恵の顔のアップだった……。

「うわあぁぁぁぁーっ!」

 寝起きとは思えない素早さで跳ね起きると、涼は部屋の隅まで一気に転がって行った。

「お、お、お前っ! 何やってんだっ!?」

「もう、乱暴なんだから……もっと優しくしてくれなきゃダメだよ」

 ちょっとふくれたような顔をして、ベッドの中から利恵が言った。

「ふざけんなっ! 何でお前がここにいるんだよっ!」

「いい加減に慣れてよ、初めてじゃないでしょ?」

「な、何がっ!?」

「だって、連休の初日から来てるんだし」

「あ……そっちの意味か……」

「何?」

「何でもねえっ!」

 そうだった。 

 このところ、毎日こうして朝っぱらから利恵に起こされ、その日一日、利恵に引っ張り回されているのだ。

 連休中には真一郎や琢磨とどこかへ行こうと話していたのだが、未だその約束は果たされていない。

 利恵と一緒の所を真一郎に見られるのは嫌だったし、ましてや琢磨などは堅物が生真面目の服を着て歩いているようなものなので、

「よもや、いい加減な気持ちではあるまいな……? 不実な真似は赦さんぞ!」

 とでも言いそうである。 

 素手の時ならいざ知らず、激昂した琢磨が木刀でも持ち出したら手が付けられない。

 そうなったら、もう利恵とは無関係だと主張する事も不可能になってしまうに違いないのだ。

「お前さ、毎日毎日こんな事してて楽しいか?」

「うん」

「……少林寺拳法の稽古だってあるんだろ?」

「連休中は休む事にしたの」

「遅れを取り戻すのは大変なんじゃないのか?」

「大丈夫。 ちゃんと自主トレはしてるから」

「そうですか……」

 駄目だ。 

 こんなノンビリした流れでは、利恵を追い出す事など出来る訳がない。

 何かもっと他の話題を考えなければ……何か無いか?

 しかし、ただでさえ話題の無い涼の事。 

 更には寝起きの頭で、そこまでの事が考え付く筈も無かった……。

「無駄な足掻きだったか……」

「何ぶつぶつ言ってんの?」

「何でもねえ……それより、いい加減ベッドから降りろよ。 こんな場面をお袋に見られたら、また何を言われるかわかったもんじゃねえ……」

 涼が頭をガシガシと掻きつつ、未だベッドで布団に包まったままの利恵に言うと、

「えぇ〜……? でも、恥ずかしいなぁ……」

 掛け布団で顔を半分隠しながら利恵が言った。

「何で恥ずかしいんだよ?」

「だって、わたし服着てないし」

 ふと見ると、その言葉の通りに利恵の服は綺麗にたたまれて、椅子の上に置かれている。

「何で脱いでんだよっ!」

「皺になっちゃうから」

「だったらそんな真似しなきゃいいだろうに……って! もしかして、さっき俺が握ったのは……!?」

 感触を思い出したのか、涼は自分の手をじっと見つめながら、背中を汗が伝って行くのを感じた。

「えっち」

「うわあぁぁぁぁぁーっ!」

 涼はこの瞬間、神様なんていないんだ……と思った。




「まったく……何が 『えっち』 だ!」

 ダイニングで朝食を摂りながら、自分が先程掴んだのは利恵の肩だと聞かされて、涼は大いに不機嫌だった。

 いや、別に 『本物』 に触れなかったから不機嫌なのではない。 

 騙されたのが癪に障るのだ。

 当然、その席には環も利恵も一緒にいて、同じ物を食べている。

「涼ったら、そんなに残念がらなくてもいいじゃない。 それは、また今度ね」

「誰が残念がるか! 俺は呆れてるんだっ!」

「はいはい、二人とも。 食事は楽しくしなさい」

「はい、お母様」

「何がお母様だ……」

 不貞腐れ気味にトーストに噛り付きながら、涼はブツブツと文句を言い続けていた。

「涼、お前もいい加減、朝っぱらから大声出すのやめなさい。 ご近所にご迷惑でしょ?」

「何で俺が文句言われなきゃなんないんだよ!? 原因はこいつだろ!」

「こいつなんて言い方があるか! ちゃんと 『利恵ちゃん』 と呼びなさい!」

「あ、利恵でいいよ、涼。 もしくはハニ〜とか」

「全部嫌だっ!」

「何て我侭な……」

「ごめんね、利恵ちゃん。 わたしが甘やかして育てたもんだから……恥ずかしいわ」

「俺には甘やかされた記憶なんて無いぞ……?」

 足腰が立たなくなる程の鉄拳制裁を喰らったり、意識が遠のく程締め上げられた事なら鮮明に記憶に残っているが……。

「本当に気が利かないし、馬鹿だし、ロクでなしだし。 こんなボンクラ、そうそういないわよ?」

「それも含めて涼ですから、わたしは全然気にしません」

「何ていい子なのかしら……。 涼! 利恵ちゃんに謝れ!」

「おかしい……何で俺が悪者になってるんだ……?」

 何とも複雑な表情を浮かべる涼を見つめつつ、利恵は出されたコーヒーを一口含んだ。 

 と……。

「あれ? この味……」

 先日、雛子が淹れてくれた物と同じ味だ。 

 そう言えば、雛子の料理の師匠は環だと言っていたし、きっと雛子の味付けは環の物が基本になっているのだろう。

「ん? どうかした?」

「あ、いえ……ヒナちゃんの家で飲んだのと同じ味だなと思って」

「ああ、コーヒーね。 まあ、雛子ちゃんに分けてもらった豆だからね」

「へ?」

「涼の好みのブレンドになってるのよ。 お父さんの影響かしらね、やたらと味の好みが煩くて。 雛子ちゃん、随分苦労してこの味を出したのよ」

「そうなんですか……」

「あの子は努力家だから。 最初に出したコーヒーを涼が貶したもんだから、もう意地になってね。 『絶対に美味しいって言わせてやる!』 って。 ……小学五年生くらいの頃だったかしら? それから三ヶ月くらいは、うちからコーヒーの匂いがしなかった日は無かったわね」

 大人しいだけの子かと思っていたのに、雛子にはそんな頑固な一面もあったのだと、利恵は感心した。

 やる時には徹底してやるというのは、利恵も好きな性格だ。

「お母様がヒナちゃんの料理の師匠だっていうのは聞いてましたけど、これは初耳でした」

「お料理に関してはもっと凄いわよ? 何たって幼稚園の頃からだから。 『おばちゃん! ヒナにお料理教えて!』 って言ってね。 最初は気まぐれで言ってるのかな? って思ってたら、殆ど毎日欠かさずに通って来たからね、ここに」

「今もですか?」

「ん〜……今はそうでもないわね。 それに、もう自分で色々と工夫して作る段階よ。 いつまでも師匠にベッタリじゃ進歩が無いもの」

「同い年とは思えない……」

 料理をしようとすら考えた事の無い利恵にとって、雛子のそれは非常に衝撃的であった。

 同点に追い付かれたという考えは間違っているのではないだろうか? 

 それどころか、まだまだ雛子に追い付けていない気がする……。

「いかん……このままでは更にリードを広げられてしまう……!」

 しかし、今から料理の修行をしたとしても、雛子に追い付く頃には、既に手の届かない域にまで雛子は行ってしまっているだろう。

 同じ事をしていたのでは駄目だ。 

 もっと自分ならではの事をしないと……。

「おい……今度は何を企んでるんだ、お前は」

 食事の手を止めて考え込んでいた利恵を、涼は訝しげな視線で見つめて……いや、これは睨んでいるのだろう。

「人聞きの悪い。 わたしは何も企んでません」

「本当だろうな?」

「しつこいなぁ……少しはわたしを信用してよ」

「自分の普段の行動を考えてから言え!」

 涼はコーヒーを飲み干すと、そそくさと席を立ち、ニ階の自分の部屋へと階段を駆け上がって行ってしまった。

「落ち着きの無い子ねぇ……利恵ちゃん、コーヒーのおかわりは?」

「あ、もう結構です」 

 と、環の勧めを断って、 

「あの、お母様に一つお訊きしたいんですけど……」

 妙に神妙な面持ちで、利恵は言った。

「何かな?」

「わたし、これからどんな風に涼と接したらいいでしょうか?」

「あら、どうしてそんな事を考えちゃったのかな?」

「こんな事してても、ヒナちゃんには敵わないなと思って……」

 幼い頃から一緒にいる雛子には、涼の事がよく解っている筈だ。 

 飲食物の好みはもとより、どんな場所が好きかなど、細かい所まで知っているだろう。

 けれど、自分には何も無い……涼の事を何も知らないのだ。

「……考えなさんな」

「え?」

「利恵ちゃんは利恵ちゃん、雛子ちゃんじゃないの。 自分に出来る事だけすればいいわ」

「でも……」

「女は気合と度胸と根性よ。 思い込んだら一直線、余計な事なんて考えなくていいの」

 環は、にっこりと微笑んで言った。

「あの子には心を許せる相手が必要なの。 何も考えずに自分を見せられる相手がね」

「でも、それならヒナちゃんとか真君とか……」

「まだまだ子供なのよ、涼は。 そのせいで、色々つまらない事を気にし過ぎる傾向があるわ。 だから利恵ちゃんみたいな子が必要なのかもね」

「それってどういう……?」

「何も知らないままでいいんじゃないかしら? 手探りでお互いの事を知り合って行けば。 その方が深く理解出来ると思うんだけど、どう?」

「……」

 環の言っている事は、何となく解るようでいて、その実、全然解らない気もする。

 けれど、少なくとも道筋は示してくれたと思えた。

「頑張りなさい、応援してあげるから」

「……はい!」




「……という訳で、今度の土曜日、涼はわたしとデートする事に決まりました」

「何でだよ……」

 ベッドの上で転がっていた涼は上半身を起こし、再び室内に侵入して来た利恵に向かって言った。

「俺はそんなもん了承した覚えはねえぞ?」

「じゃあ了承して」

「嫌だ」

 即答して再びベッドに横になると、涼は利恵に対して背中を向けてしまった。 

 完全拒否の姿勢である。

「……うんと言え」

「い・や・だ」

「どうしてぇ〜? わたしと一緒に出かけるの、そんなに嫌?」

 ゆさゆさと涼の身体を揺さぶりながら、利恵はちょっと甘えた感じで言ってみた。

 だが……。

「面倒臭い。 もうゴールデンウィークに入って散々出かけたんだから、これ以上はゴメンだ。 だいいち、お前と出かける必然性が無い」

 涼の対応はいつもの通り。 

 どうやら利恵の 『甘えた作戦』 は失敗のようだ。

「だからデートだって言ってるだろ!」

 利恵もメゲずに、甘え作戦が無駄だと悟れば、すぐに普段の調子に戻す。

 いつもなら、このまま利恵のペースに巻き込めるのだが……。

「だから了承してねえって言ってるだろ!」

「ちょっとくらい、わたしに付き合ってくれたっていいじゃんかぁ!」

「ちょっとどころじゃねえっての! 三日連続で付き合ったんだから、もう充分だろ!」

「安心しろ。 ゴールデンウィークは、まだ残り五日もある」

「ふざけんなよ! 俺のプライベートタイムを全部食い潰す気か、お前は!」

 どうやら今日の涼は、テコでも利恵の言いなりにはならない覚悟らしい。

 顔だけ利恵に向けると、あくまでも休日は自分の為だけに使うのだと宣言した。

「むぅ〜……!」

 暫くの間、恨めしそうに涼を睨んでいたかと思うと、

「いいもん! 涼なんかそのままベッドの上でミイラになっちゃえ!」

 と、手近にあったクッションを涼の顔めがけて投げ付け、利恵は涼の部屋を飛び出して行ってしまった。

「これでやっと静かになったな」

 涼は投げ付けられたクッションを床に放り投げると、いつもの通り昼過ぎまで眠ろうとして目を閉じた。

 これで十分もしない内に眠りに落ちる……筈だった。 

 だが、どうしても眠気が差して来ない。

 おかしい……どうして眠れないのだろう? 

 大騒ぎし過ぎたせいで神経が昂ぶっているのだろうか?

「……あいつ、本当に帰ったのか?」

 ベッドの上に上半身だけ起こしてドアの方を見て見るが、利恵が戻って来そうな気配は無い。

 さっきの展開なら環が怒りに来そうなものだが、その様子も無い。

「静かだな……」

 何となく、自分の部屋にいるというのに落ち着かない気分だ。 

 こんな事は初めてだった。

「……ったく」

 涼は乱暴に枕の上に頭を落とした。 

 そのままボ〜っと天井を見てみる。

「何が楽しいんだかな、あいつは……」

 自分がそれ程面白味のある人間でない事は自覚している。 

 何しろ遊び歩く事をしないのだから、話すにしたって話題も無いし、当然プレイスポットの一つも知らない。

 だから琢磨とは話しが合うのだが、どうにも真一郎とは今一つ会話のテンポが合わない。

 そんな自分と利恵が上手くやって行けるとは、涼にはどうしても思えなかった。

「……って、俺はあいつと付き合う気なんかねえっての」

 それでも……。

「……あんなに邪険にする事も無かったかな? 悪気が無いってのは本当だろうし……いやいや、そこで甘い顔するから付け上がるんだって!」

 涼がそんな事を考えていると、いきなり電話が鳴った。

 電話で話す事が好きでない涼は、環が留守をしている時でもない限り電話を取る事は無い。

 普段なら、それを知っている環が電話を取るのだが、何故か今回は電話を取らないらしく、ずっと呼び出しのベルが鳴り響いている。

「何だよ、母さんいないのか?」

 このまま放っておいてもいいのだが、さすがにしつこく鳴り続ける電話のベルが煩かったのだろう。

 涼は渋々ベッドから降り、子機を手に取った。

「はい、宇佐奈ですけど?」

 いかにも面倒臭そうな声で言う涼を圧倒するように、受話器から飛び出したのは、

『さっさと出ろよお前は!』

 と、涼よりも更に不機嫌そうに言う真一郎の声だった。

「何だ、真か」

『何だじゃねえ! 俺様からの電話には音速を超えて出ろっ!』

「うるせえな……番号が表示されねえんだから、誰からかなんて判らねえっての。 で? 何か用か?」

『用があるから電話したんだろうが、タコ。 なあ、お前さ、今度の土曜日ヒマか?』

「今度の土曜?」

 今度の土曜日……。

 そう言えば、利恵も土曜日にデ−トしろと言っていたな……と、涼はふと思った。

『おい、ヒマなのかヒマじゃねえのか、どっちだよ』

「え? ……ああ、ヒマだけど?」

『じゃさ、ちょっと付き合ってくんねえかな? 行きてえ所があんだよ』

「別に構わねえけど……どこへ行くんだ?」

『ちょっとした買い物をしたくてよ。 ちっとばかし時間かかるかもしんねえけど、いいか?』

「ああ」

『この間建った駅ビル知ってるだろ? あそこの駅の改札で、十時くらいに待ってるからよ、じゃな』

 真一郎にしては珍しく、用件だけ言って電話は切れた。

 いつもならこのあと、延々とどうでもいい話が続くのだが、それに付き合わされるのは嬉しくないので、これはこれで構わない。

 涼は子機を充電器に戻すと、再びベッドの上に横になった。

「今度の土曜か……どうせヒマだったんだから、あいつに付き合ってやっても良かったかな?」

 ついいつもの調子で利恵の誘いを断ってしまったが、プライベートタイムと言っても大した事をする訳でなし、ただゴロゴロしているだけなのだ。

 それなら利恵に付き合ったとしても、特に問題は無い……。

「いやいや。 これはこれで、俺の大事な時間なんだ」

 涼は再び寝返りを打つと、今まで付き合わされた真一郎の買い物について思い起こした。

 真一郎の買い物と言えばゲームかパソコン関係のパーツか、もしくは最近こり始めたガーデニング関係の品物か……。

 とにかく多趣味の真一郎の買い物に付き合うと、やたらと時間を食う上に、目に付いた物にいちいち興味を示すので、移動範囲が無駄に広くて疲れる。

 今回も、多分それと同じような物だろう。

 それに比べれば、利恵と出かける方が疲労感は少なくて済む。

 適度に休憩を入れるし、ずっと隣りで上機嫌にしているので気分的にも楽だ。

「あいつはあいつなりに、色々と気を遣ってくれてるんだろうな……」

 今更言っても始まらない。 

 既に断ってしまっているのだから。

 そしてその後、利恵は一度も宇佐奈家を訪ねて来なかった……。




 土曜日。

 涼は真一郎に言われた通り、駅の改札口で真一郎を待っていた。

「……遅いな、真の奴」

 約束の十時から、もう二十分も経過しているというのに、真一郎は一向に現れなかった。

 生憎と、涼はただでさえ電話嫌いの為、携帯電話などは持ち合わせていないので連絡の取りようが無い。

 近くに公衆電話はあるのだが、いざ涼が場所を離れてから真一郎が到着した場合、涼の方が遅刻をしたのだと言い掛かりをつけられてしまう可能性が高い。

「それで飯でもたかられたんじゃ、たまんないからな……」

「お〜い!」

 涼が再び腕時計に目を落とした時、聞き覚えのある声が聞こえた。

 声の方向へ顔を上げると、真一郎が笑いながら走って来るのが見えた。

「わりいわりい! 遅くなっちまったな」

「まったく! お前が呼び出しておいて遅れて来るってのは、どういう訳だよ!」

「そんなに怒るなよ〜、悪かったって言ってるじゃんか。 ほれ、この通り」

 相変わらず罪悪感の欠片も無い、それでいて、こちらもつられて笑ってしまいそうになる笑顔だ。

 それに素直に詫びられてしまうと、涼としてはあまり強くも言えない。

「……で? 買い物って何だよ」

「ま、とりあえずは電車に乗って、目的地を目指そうじゃないか」

「あ、ああ……」

 どうにも真一郎が相手だと、怒るにしても調子が狂ってしまう。

 まあ、涼も本気で怒っている訳ではないので、ここは苦笑して終わりである。

 言われるまま切符を買い、真一郎に付いて電車に乗り込むと、タイミング良く、電車はすぐに走り始めた。

「いや〜、今日は天気が良くて最高だな、涼」

「そうだな」

 涼はドアの部分に凭れ、小窓の外を流れて行く景色に目をやりながら言った。

「これなら一日中外にいても、かなり楽しいと思わんか?」

「何だそりゃ。 ただ外をほっつき歩いて楽しいかよ?」

「いやいや、勿論それだけじゃないさ。 こう……何て言うかな、気の合う者同士で何かするとかさ」

「ああ、そりゃ楽しいだろうな」

「だろ? そうだよな? いや〜、やっぱお前とは気が合うな〜!」

「変な奴だな……」

 日頃から変な奴だとは思っているが、今日の真一郎はいつにも増して変である。

 そのまま真一郎の話を適当に流しながら電車に揺られる事十数分、窓の外には遠くに観覧車が見え始めた。

 そこには当然の如く遊園地がある。

「さて、次で降りるぜ」

「ああ」

 二人が電車を降りて駅を出ると、やたらにカップルや家族連れが目に付いた。

 どうやら向かっている先は、先程目に入った観覧車のある遊園地のようだ。

「みんな楽しそうな顔してるな、涼」

「そうだな。 実際楽しいんじゃねえかな? 家族や恋人と出かけるってのはさ」

 自分にはあまり経験の無い事だが、きっとそういう事の楽しさという物は理屈ではないのだろうと涼は思った。

 一緒にいるだけでも楽しいという事があるのだと、以前、雛子も言っていたような気がする。

「ま、俺には縁の無い事だけどな」

「十代の言う台詞かよ……んじゃ、行くべか」

 そう言って、真一郎は涼の先に立って歩き始めた。




「利恵ちゃん、いつまでここに立ってなきゃいけないの?」

 雛子は手持ち無沙汰にしながら言った。

「遊園地の前で立ったままって、何となく恥ずかしいんだけど……」

 それもその筈で、突然の電話でここへ呼び出され、到着したと思ったら暫く待っていろと言ったきり、利恵は黙ったまま雛子の隣り立っているのだから。

 その状態が、もう既に三十分近く続いている……。

「ねえ利恵ちゃん、何も無いなら帰ってもいいかな? わたし、色々とやる事があるの」

 学校が休みだからといって、雛子が暇を持て余す事は殆ど無い。

 予習復習や宿題をするのは勿論の事、洗濯をしたり掃除をしたり、夕食の買い物にだって行かなくてはならない。

 何しろ雛子の両親は仕事が忙しく、家族が揃う事も滅多に無いのだ。

 したがって、家事全般は必然的に雛子がやらなければならない事になる。

「利恵ちゃんてば……」

「もうそろそろね……。 ヒナちゃん、勝負だ!」

 突然、利恵が雛子に向かって言った。

「勝負? 勝負って、何の?」

「わたしとヒナちゃん、どっちが涼を取るか」

「何それ」

「真剣勝負だからね……!」

「わたしは、そんなのする気無いもん」

「ええい! 四の五の言わずに勝負だー!」

「そんな事だったら、わたしはもう帰るからね」

 と、雛子が歩き出そうとすると……。

「こんな所で何を買うってんだ、お前はっ!」

 と文句を言いながら、真一郎にズルズルと引き摺られてこちらに近付いて来る涼が雛子の視界に入った。

「予定変更だ。 たまには快晴の空の下、遊園地で遊ぶというのも乙なもんだろ」

「何が乙だ馬鹿野郎! てめえ、ハナから俺をここに連れて来るつもりだったんだな!」

「おお! お前にしては鋭い! じゃあ、そのまま納得しちまえ」

「出来るかっ! 俺は遊園地は嫌いだって、何度も言ってるだろうがっ!」

「涼ちゃん……?」

 足を止めてポカンとしている雛子の横で、

「真君、こっちこっち! 遅かったじゃない」

 と、利恵がにこにこしながら言った。

「利恵ちゃん、これってどういう事……?」

「見たまんま」

「解んないよ! ちゃんと説明してよ!」

「だから、わたしとヒナちゃんの真剣勝負よ。 立会人は真君」

「ふざけないでよ! 涼ちゃんは物じゃないんだから、そんな賭け事みたいな真似出来る訳ないでしょ!」

「……何でお前らがここにいるんだ?」

 真一郎に羽交い絞めにされたままの涼が、いつのまにか傍まで来ていた事に気付かなかった雛子は、突然そう言われ、

「えっ!?」

 と驚いて振り返った。

 しかし、利恵は相変わらずにこにこしたまま、

「いい天気だね〜、マイ・ダ〜リン」

 などと言って、涼の神経を逆撫でしている。

「誰がダ〜リンだっ! ……そうか、さてはお前らグルだなっ!?」

「まさか。 たまたま偶然涼を連れて来たら、これまた、たまたま偶然にニ人がいたってだけの事だ」

「そうそう。 わたしと真君がグルの訳ないじゃない。 ね〜?」

 実にわざとらしい二人の態度を見て、涼は確信した。

 こいつらは間違いなくグルだ。

「ヒナ、まさかお前まで一緒になって……」

「そんな訳ないでしょっ!」

 涼が言い終る前に、雛子は烈火の如く怒ったように言った。

 丁度、利恵の行動に腹を立てていたところへの涼の一言は、雛子の怒りのツボを直撃したようだ。

 普段、怒鳴る事など滅多に無い人間が怒鳴ると、結構な迫力があるようで、

「そ、そうか……そうだよな……ごめん」

 今まで怒っていた筈の涼は、急に勢いが無くなってしまった。

 どうも子供の頃から雛子が怒ると、涼はそれ以上強く出られなくなってしまうのだ。

「ほ、ほらほら、せっかくこうして集まったんだし、どうせなら楽しく行こうぜ。 ね? 雛子ちゃんも」

「……」

 真一郎のフォローもあまり効果が無いらしく、雛子はムスっとしたままである。

 と……。

「そう言えば、お前ら何か言い合いしてなかったか?」

 涼が急に思い出したように言った。

「え?」

「ほら、さっき俺が引き摺られて来るまでにさ。 なんか、ヒナが怒ってたみたいに見えたけど……喧嘩でもしてたのか?」

「う、ううん、別に怒ってなんかないよ? ね、利恵ちゃん」

「あ、当たり前じゃない。 わたしとヒナちゃんは、すっごく仲良しなんだから。 ね〜?」

 二人は互いに腕を取り合うと、これ以上無いくらいの笑顔を作った。

 そこからは言い合いをしていたような様子は見えない。

「そうか? でも……」

「ま、細かい事は置いといてだ。 まずは絶叫マシンの駆けつけ三杯と行こうぜ!」

「何っ!? い、嫌だ! 真、それだけは勘弁しろ!」

 今まで大人しかった涼は、急に真一郎の腕から逃れようとして暴れ出した。

 絶叫マシーン……子供の頃に一度乗ったきり、二度と乗るものかと心に決めた乗り物である。

「あれ? 何だよ涼、お前ああいうの苦手か?」

「ああ……どうも自分の思い通りにならない乗り物って苦手なんだよ……」

「それは大変だな。 よし、早く行こうぜ」

「てめえっ! 俺の話しを聞いてなかったのかっ!」

「雛子ちゃん達も早く行こうぜ!」

「この野郎ーっ!」

 涼が嫌がれば嫌がるほど、それは真一郎にとって楽しい事へと変化する。

 じたばた暴れる涼を小脇に抱え、真一郎はウキウキした足取りで遊園地の中へと消えて行った。

「元気だなぁ、真君……ヒナちゃん、わたし達も行こうよ」

「……」

「ヒナちゃん?」

「わたし、利恵ちゃんと勝負なんてしないからね……それだけは覚えておいて」

 真っ直ぐに利恵を見つめながら、雛子は言った。

 その顔には、何かを決意したような色が浮かんでいる。

「どうして?」

「理由なんか無いよ。 ただ、わたしはそんな事したくないだけ」

「じゃあ、わたしが涼を取っちゃうよ? それでもいいの?」

「それは涼ちゃんが決める事だから……」

「自信満々な感じだね」

 嫌味ではなく、利恵は言った。

「自信ならあるよ。 涼ちゃんは、絶対に利恵ちゃんを選ぶ……」

「え? 何?」

「……何でもない。 さ、行こう。 せっかく来たんだし、やっぱり遊んで行く」

 雛子は利恵の手を取り、遊園地の門をくぐった。


 今日一日は笑っていよう……これは自分で決めた事なのだから。

 きっと、この胸の痛みも、いつか忘れてしまう物なのだと雛子には思えた。

 きっと、それは思い出の中に、いつか埋もれてしまう物なのだと……。

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