第四章
「じ〜……」
ゴールデンウィークも間近に迫った、とある土曜日の午後。
高梨利恵は、佐伯雛子の部屋にいた。
いや、ただいるだけでは勿論ない。
「な、何? 利恵ちゃん。 その疑惑に満ちた眼差しは……」
「くんくん……嘘の臭いがする。 貴様、わたしに嘘を吐いているな?」
利恵の興味は、ある一点に集中されているらしく、ここに来てからというもの、ずっとそれを追求し続けているのである。
もっとも、今日は雛子の方から誘ったのだが、まさかこんな事になるとは思ってもみなかった。
「だ……だからね、何度も言ってるでしょ? わたしと涼ちゃんは、本当に何でもないんだから……」
「だから何度も言ってるでしょ? わたしに嘘を吐いてはいけない。 わたしに真実を告げると、賞品として漏れなくキスが付いて来るぞ? どうだ?」
キス……?
一瞬、呆けたように利恵の唇を見てから、雛子はハっと我に返った。
そんな趣味は無いのである。
「はい! もうその話は終わり! お茶淹れて来るから……何がいい?」
「涼は何が好きなの?」
「大抵何でも飲むけど、一番はコーヒーだよ」
「じゃ、わたしもコーヒーで」
「かしこまりました」
雛子はクスっと笑うと、コーヒーを淹れる為に部屋を出て行った。
その背中を見送って、利恵は 『ふう……』 と、溜息を吐いた。
「何であの子は平気な顔で笑ってられるのかな? 絶対に涼の事、好きだと思ったんだけどなあ……」
市営競技場での会話でも、その後のケーキショップでの会話でも、その言葉の端々に、涼に対する雛子の気持ちが見え隠れしていたように利恵には感じられた。
他の人間ならともかく、恋する相手に関わる事だけに、そのアンテナは感度が鋭くなって当然である。
「……それにしても可愛らしい部屋だなぁ」
何だか女の子女の子した部屋で、利恵はちょっとムズムズするような気がしていた。
自分の部屋とは全然雰囲気が違う。
まあ、実際に使っている人間が違うのだから、部屋の雰囲気が違っても当たり前なのだが……。
「淡いブルーのカーテンに、ピンクのドレッサーはまだしも、このヌイグルミの数々は……ん?」
ふと、机の上に置かれているフォトスタンドに目が行った。
二人の人物が写っているのが判る。
「ほ〜ら、やっぱり」
利恵は四つん這いになって近付き、そこに写っている人物を確認してみた。
「……あれ?」
しかし、そこに写っているのは子供である。
悪戯小僧を絵に描いたような男の子と、いかにも大人しそうな女の子だ。
男の子の方は髪がボサボサで全身に細かい傷がたくさんあり、女の子の方は可愛らしい服を着て、大きなリボンで髪を結い上げてある。
「あの子の子供……な訳ないか。 この背景の家は、ここと似てるけど……屋根の色が違うわね」
「涼ちゃんの家だよ」
突然背後から声をかけられて、利恵は思い切りビックリして振り返った。
「ず、随分早いのね」
利恵は軽く咳払いをしつつ、元いた場所へと戻った。
「サイフォンごと持って来ちゃったからね」
「あ、そ、そうなんだ、本格的なんだね。 うちは大抵インスタントだな」
「涼ちゃんが来た時に、インスタントだと困っちゃうからね。 『こんなもん、コーヒーじゃねえ!』 とか、ブーブー文句言うから」
「何て我侭な……」
「涼ちゃんが遠慮無く本音を言える人って、そんなにいないから。 だから、ここに来た時くらいは言わせてあげる事にしてるの」
「涼って……そんなにしょっちゅうここに来てるの?」
これは怪しい……と、利恵の疑惑の眼差しが再び雛子を捉えるが、
「わたしの部屋には入らないけどね。 おば様と喧嘩した時とか、ご飯が無い時なんかに避難して来るんだ」
雛子はクスっと笑いながら言うと、足元のクッションをどけて、サイフォンを置いた。
「ヒナちゃん、涼の家ってどこなの? 涼に訊いても全然教えてくれないんだもんなぁ〜……」
利恵が散々食い下がっても、涼は頑として口を割らなかった。
ターゲットを真一郎に変えても、横から涼が邪魔をして来て、結局聞き出せないままだった。
涼がトイレに立った隙に聞き出そうとしたのだが、真一郎は 「今はやめとけ」 と笑って言うばかりで、やはり教えてもらえなかったのだ。
「そこまでして隠さなくてもいいと思わない? 別に悪い事しようって訳じゃないのにさ」
「涼ちゃんの家は、わたしの家のお隣さんだよ。 ほら、そこの窓から見えるのが涼ちゃんの部屋」
サイフォンをセットしながら事も無げに言う雛子の言葉に、利恵は思わずコケそうになった。
「何してるの?」
「そ、それはこっちの台詞よ! それじゃ、わたしを招待なんてしたらマズいじゃない!」
「どうして?」
「どうしてって……だって、本人が内緒にしようとしてるのに、思い切りバラしちゃってるし!」
「隠す方がおかしいんだよ。 だって、もう仲良くなったのに……」
コポコポと音を立ててフラスコの湯が徐々にロートに上がり始めると、そこからはコーヒーの良い香りが立ち昇ってくる。
二人は暫し無言のまま、湯気を見つめていた。
「……ねえ」
「ん?」
「ヒナちゃんてさ、わたしの事どう思う?」
「え? 利恵ちゃんの事?」
突然の質問に戸惑いながらも、雛子は 「う〜ん、そうだなあ……」 と、ちょっとだけ考えて、
「元気一杯で明るくて、正直な子……かな?」
と、感じたままを述べた。
「あら〜ん、ありがとう。 ……いや、そうじゃなくてさ、好きか嫌いかでジャンル分けしてみて」
「好きだよ?」
「か、間髪入れずに即答したわね……」
「だって、本当だもん」
にこにこと笑う雛子を見て、利恵は内心 『負けた』 と思った。
これは自分の想像以上に、雛子が涼の事を信じているから出来る事だ。
そうでなければ、ここまで落ち着いていられる訳が無い。
「くそ〜……同点に追い付かれてしまった。 せっかく先制の一撃を入れたのに……!」
「先制の一撃? あ、そう言えば利恵ちゃんて、少林寺拳法やってるんだよね」
「え? あ、うん」
「真君、かなりビックリしてたね」
「いきなりスリーサイズなんて訊くからよ。 あの人、どういう人なの?」
嫌がる涼を無理矢理引き摺り、競技場近くのケーキショップへ行った時、最初は大人しかった真一郎であったが、やはりそれが最後まで続く筈も無く……。
「ただ話してるだけじゃ面白くないな……よし! ここはひとつ、俺様の華麗なる芸の数々をお見せしようではないか!」
と、突然ストローで皿回しを始めたり、ダスターや紙ナプキンで作った人形で寸劇を始めたりしていた。
とにかく利恵にとって、真一郎は奇妙な生物のように見えたのだ。
「わたしもそんなに知ってる訳じゃないけど、とってもいい人だよ。 優しくて、凄く楽しくて面白い人。 でもね……」
「でも?」
「時々、ふっと寂しそうにしてる時があるの。 わたし達の前ではそういう顔は見せないようにしてるみたいだけど、偶然見ちゃった事があって……」
「ふうん……根っからの能天気小僧って訳でもないのね」
言いながらカップに淹れられたコーヒーを一口飲み、利恵は驚いたような顔をした。
「何? この美味しさ……。 ねえヒナちゃん、これって滅茶苦茶いい豆使ってない?」
「ううん、近所で買って来たお徳用の豆だよ」
「それでどうしてこんな味が出るの?」
「ローストし直してみました。 ちなみに数種類の豆をブレンドしております」
「あんた何者だ……?」
一緒に出されたクッキーも食べてみる。
……美味しい。
今まで食べたどんなクッキーよりも、遥かに美味しい……いや、比べるのが申し訳なく思えるくらいだ。
「これ美味しいね。 メーカーどこ?」
「あ、それ、わたしが作ったの」
「ハンドメイドですか……」
雛子作のクッキーは適度に甘味を抑えてアッサリとしているが、それでいて、ちゃんとお菓子としての体を成している。
どうしてこれで商売しないのか不思議に思える。
ロクに料理の出来ない利恵から見れば、雛子はまさしく雲の上の人である。
「神だ……ここに神がいる!」
「なあに? 神って……」
「いや、こっちの話。 でも凄いね、ヒナちゃんて何でも出来ちゃうんだ」
「何でもって事は無いよ。 まだまだ作った事の無い物はたくさんあるし、おば様に比べたら、わたしなんて足元にも及ばないもん」
「そうなの? じゃあ、ヒナちゃんの伯母さんは達人だね」
「あ、違うの。 おば様っていうのは、涼ちゃんのお母さんの事だよ。 色々と教わったんだ」
「何と……」
まあ、家が隣同士というのなら、雛子と涼の母に交流があっても不思議ではない。
それに雛子の両親は留守がちだというし、きっと母親の代わりに近所付き合いをしているのだろう。
「でもさ、短期間でこんなに上手になるなんて、やっぱりヒナちゃんは凄いよ」
「そんなに短期間でもないよ? ちっちゃい頃からの事だからね」
「ちっちゃい頃? ちょ、ちょっと待って。 じゃあ、ヒナちゃんと涼って……」
「うん、幼馴染」
それは考えて然るべき事だったのに、どうして頭に浮かばなかったのだろう?
もしかしたら、無意識の内に考えないようにしていたのだろうか?
「あのさ……もしかして、あの机の上の写真って……」
「ああ、あれ? わたしと涼ちゃんの子供の頃のだよ。 涼ちゃんのお父さんが撮ってくれたんだ」
やっぱり……。
「ヒナちゃん、涼のお母さんと仲いいみたいだけど、やっぱり涼のお父さんとも仲いいの?」
「え? ……そうだね。 おじ様は、いつでもわたしに優しくしてくれたから……」
そう言うと、雛子は両手で持ったカップをユラユラと揺らしながら、視線を落してしまった。
懐かしく思い出しているといった雰囲気ではない。
何か、思い出すのが辛いとか、触れてはいけない部分に触れてしまったような、そんな感じだ。
「……どしたの? 急に元気無くなっちゃったみたいだけど」
「おじ様はわたしが……わたしのせいで……」
「え?」
急に雛子の表情が曇ったのを見て、利恵は何か悪い事を言ってしまったかと考えたのだが、別にここまでの会話でそれを言った覚えは無い。
だが、それも一瞬の事で、
「……ううん、何でもない。 あのね、おじ様は、わたしが小学校三年生の時、交通事故で亡くなったの」
雛子はすぐに、また先程までと変わらない調子で言った。
もう少し突っ込んで訊こうかとも思ったが、利恵はすぐに思い直した。
話せる事ならば、今この場で雛子は話すだろう。
まだ自分には雛子の中へ立ち入るだけの資格は無い……。
「あ、そうだったんだ……聞いといて良かった。 知らずに涼に言っちゃったら、また怒られちゃうところだったよ」
「大丈夫だよ。 涼ちゃん、そういう事では怒らないから……」
「でも、涼って何かと言うとわたしに怒るんだもん……ヒナちゃんには優しいくせにさ」
口を尖らせて言う利恵をみて、雛子はクスクスと笑いながら、
「わたしには、おば様がついてるからね。 涼ちゃんも、おば様には逆らえないんだよ」
「……涼ってマザコン?」
「そういう訳じゃないよ。 ただ、おば様を怒らせたらご飯抜きにされちゃうし、何より強いからね。 涼ちゃんでも歯が立たないくらいなんだよ」
「へえ〜……。 あ、じゃあ、わたしも涼のお母さんを味方に付ければいいんじゃないか! そうとなれば……行くわよ、ヒナちゃん!」
「行くって……どこへ?」
まだここへ来てから然程時間も経っていないのに……と、雛子が疑問に思っていると、
「決まってるでしょ? 涼の家よ!」
利恵はすっくと立ち上がって宣言した。
「え?」
「さあ、早く! ヒナちゃんが紹介してくれなきゃ、訪ねて行けないでしょ!」
「ちょ、ちょっと待って利恵ちゃん! きゃあ!」
強引に手を引かれて転びそうになりながら、雛子は利恵に引き摺られるようにして、宇佐奈家へと行く破目になった……。
「高梨利恵と申します! 今後とも、よろしくお願い致しますっ!」
「ほほぉ〜……涼も隅に置けないわね。 はいはい、わたしが涼のママ、宇佐奈環ちゃんで〜っす」
ニヤニヤする環とは対照的に、仏頂面の涼は今にも席を立ってしまいそうだが、そこは環がシッカリと抑えているので、それは出来ない。
不貞腐れた様子で居間のソファに座っている以外、今の涼には行動の自由は無いのだ。
「……何しに来やがったんだ、お前は」
目を背けたまま、呪詛にも似た言葉を吐くのが精一杯である。
しかし、それも……。
「女の子にはもっと優しく接しなさい」
という環の一言 (ゲンコツのオマケ付き) によって、あっという間に木っ端微塵にされてしまう。
「あ、本当にヒナちゃんの言う通りなんだ……」
「ん? 利恵ちゃん、何かな?」
「あ、いえ、何でもありません。 やっぱり、お付き合いをするに当たって、お母様にご挨拶をしないといけないと思って、こうして参上した次第です」
「誰が付き合うって言ったんだ、誰がっ!」
「シャ〜ラップ! 今はわたしと利恵ちゃんが話してるの。 お前は黙っといで」
「けど、俺はこいつと付き合うなんて一言も……」
「お黙り」
「いや、だって……」
「……」
「……解りました」
こうなると、もう完全に環のペースである。
これで涼は一切の発言をも認められなくなった。
(くっそお〜……ヒナ、恨むからな!)
じっと雛子を見る涼の視線を、雛子は顔を背けて、気付かないフリでやり過ごす。
もっとも、例え雛子と目が合ったところで、今の涼には成す術も無いのだが……。
「さてさて! 詳しい経緯を聞くと共に、わたしとしては宴会でも開きたいと思いますが、何か異存のある人はいますか?」
環が言うと、涼は恐る恐るといった感じで小さく手を上げた。
が……。
「ふむ……どうやら異議申し立てが無いようなので、これからわたしが腕によりをかけて、お料理を作ります。 さあ! 宴会だ宴会だ〜!」
環は完全無視である。
「すみませ〜ん! 一名、手を上げている人がいます!」
「あ、申し訳ありませんが、部外者の方は発言権がありませんので、ご遠慮下さい」
「何で俺が部外者扱いなんだよ!」
「ほら、いつまでも座ってないで、お前の友達も呼びなさい」
「何でっ!?」
「おめでたい席だから」
「ふざけんなよ! こんな所に呼べるかよっ!」
「こんな所とは失礼な。 ここは、お父さんが頑張って働いて建てた、お父さんの血と汗と涙の結晶とも言える家だぞ?」
「意味が違うだろ、意味が! 俺が言ってんのは、そういう事じゃなくて!」
やいやいと言い合う涼と環を、利恵は唖然として見つめている。
「ヒナちゃん……この二人って本当に親子?」
「どうして?」
「何だか痴話喧嘩を見てるような気がして……」
自分も時々は両親と口論になったりするが、目の前で繰り広げられている光景とは若干趣が異なる。
特に父親との場合、こんな掛け合いのような感じにはならない。
「そう? わたしは昔から見てるから、当たり前の光景にしか見えないなあ……それよりも……」
「何?」
「……利恵ちゃんと言い合ってる時と同じに見えるよ」
「わたしと? わたしって、そんなに老け……いやいや、大人っぽい?」
「そういう意味じゃないよ……。 あ、おば様、わたしもお手伝いします」
利恵が何か言おうとする前に、雛子はソファから立ち上がり、キッチンへと小走りに行ってしまった。
当然、環も一緒に行ってしまったので、必然的に居間には涼と利恵の二人が残される事になる。
しかし、涼はブスっとしたまま、利恵と目を合わせようともしない。
「あの〜……涼、もしかして怒ってる?」
「当たり前だろうが。 いきなり押しかけて来やがって……何考えてんだ、お前は」
「そんなに怒っちゃ駄目だよ。 わたしだって悪気があった訳じゃないんだから、ね?」
「悪気でやられてたまるかっ! 妙な自己弁護をすんなっ!」
「……やっぱり、ヒナちゃんの方がいい?」
「え?」
涼は思わず利恵を凝視した。
予想していたリアクションと全く違う。
利恵ならここで、もっと実力行使に近い行動を取るとばかり思っていたのだが、何かしょげ返ったような感じで俯いてしまっている。
「そうだよね……わたしなんて、すぐに叩いたり蹴ったりするんだもん、ヒナちゃんとは全然違うよね……」
「い、いや、別に俺は、お前とヒナを比べてる訳じゃ……」
「料理も全然出来ないし、ちっとも女の子らしくないし……魅力なんて、どこにも無いよね……」
俯いたままの利恵の肩が小刻みに震えている……これはどう見ても、泣いているとしか思えない!
これは涼としては不本意な状況である。
小さな頃から 『弱い者イジメはしない』 『女の子は泣かさない』 をモットーとしてやって来たのだから。
「ちょっと待てって! 誰もそんな事言ってないだろ!?」
「いいんだよ涼、そんなに無理しなくても……わたしが嫌いなら嫌いって、ハッキリ言って……いいんだよ……」
「いや、好きとか嫌いとかって話じゃなくてだな……そもそも、そういう話の流れじゃなかったろ!?」
「わたし、もうこの場にいられない……お邪魔しましたっ!」
「あ、おい!」
冗談ではない。
今ここで利恵に帰られてしまっては、あとで環にどんな目に遭わされるか解ったものではないのだ。
……いや、確実に解っている。
恐らく向こう一週間は、まともに自力で歩けなくされてしまうだろう。
「とりあえず落ち着け! まずは落ち着いて話し合おう!」
ベッドの上でウンウン唸っている自分を想像して、涼は青ざめたまま利恵を必死に引き止めにかかった。
「もう話す事なんて無いよ! そこまで言われて、わたしに何を話せって言うの!?」
「そこまでって……お前が一人で勝手に喋ってただけで、俺は何も言ってねえだろうが!」
「何も言わないって事は認めたのと同じだもん! 涼はわたしの事が嫌いなんだあっ!」
「声がでけえよ、お前はっ! 頼むから落ち着いてくれ、な? とりあえず座れ、話はそれからだ」
「だから、話す事なんて無いってば!」
「事態を解決の方向へ持って行くって事を知らんのか、お前はっ!」
「うるさいもん! 涼の声の方が大きいじゃないかあっ!」
「だーっ! いいから座れっ!」
利恵の両肩を掴んで何とかソファに座らせると、また逃げ出されては敵わないので、涼もその隣に腰掛けた。
利恵は相変わらず少し俯いたままだ。
「……で? 何を話そうっていうの?」
「何をって……」
正直、何も考えていなかった。
取り敢えずこの場を収める事だけを考えていたので、改まって言われると何を話して良いものやら、サッパリ頭に浮かばない。
「え、え〜っと、そうだな……んじゃ、まずは趣味とか、その辺から……」
「つまんないからパス」
「この野郎……」
「じゃあさ、涼がわたしの質問に答えるっていうのはどう?」
パっと顔を上げると、利恵はウキウキした様子で話し出した。
「何だよ、俺に何か訊きたい事があるのか?」
「だから質問するんじゃない。 あんた馬鹿じゃないの?」
「……お前が男だったらブン殴ってるところだ」
「ね、涼の好みは?」
どうやら先程までのは嘘泣きだったようで、利恵はケロっとした顔で涼に質問し始めた。
「好み? そうだなあ……」
しかし、涼はそれに気付かないのか、利恵の質問に対して真剣に考えているようだ。
「飲むならコーヒー、食うなら甘い物以外。 あとはそれなりに適当だな」
「うわ、本気で馬鹿だ」
「お前、絞め殺すぞ……!」
涼のこめかみ辺りがピクピクと痙攣しているが、そんな事にはお構い無しで、
「わたしが訊きたいのは女の子の好みだよ。 どんな女の子が趣味?」
と、利恵は質問を続けた。
「無し」
「嘘吐くと泣くぞ。 正直に言え」
「無し」
「……暴れるぞ?」
「無い物は無い! それ以外に答えようも無い! 以上!」
「つまり節操無し……と」
「お前の性格だけをブっとばす方法ってのは無いもんかな……」
頭を抱える涼に対して、利恵はにこにこしている。
涼が相手をしてくれているのが嬉しいようだ。
そんなニ人の様子を、環はコッソリと廊下から覗いていた。
宇佐奈家のキッチンと居間の距離はそれ程離れていないので、こういった芸当も可能なのである。
「あらま。 なかなか上手く涼を操縦するわね、あの子。 これは侮れないな……」
うんうんと頷き、環は再びキッチンへと戻った。
そこでは雛子が料理の下ごしらえをしている。
野菜を洗う為の金属製のボールを棚から下ろすのに、背の低い雛子は悪戦苦闘していた。
「あ、おば様、メインはお魚にしようと思うんですけど、ヒラメと鯛のどっちにしますか?」
「そうねえ……今日は鯛で行きましょうか。 ところで雛子ちゃん」
「はい、何ですか?」
「……いいの? 利恵ちゃんに涼を任せちゃって」
「え?」
思わずボールを思い切り引っ張ってしまった為、キャッチする間も無くボールは床に落下し、派手な音を立てた。
「どうした! ヒナ、何かあったか!」
その音を聞きつけるとほぼ同時に、涼が即座にキッチンまで飛んで来た。
こういった反応は意識してやっている訳ではない。
小さい頃から染み付いている、いわば習性のような物なのだ。
「な、何でもないよ涼ちゃん。 ちょっとボールを落としちゃっただけ」
「何だよ、脅かすなよな。 ヒナらしくもない……気を付けろよ?」
「う、うん、ごめんね」
「大体、母さんが付いてて何だよ。 ヒナに怪我なんてさせるなよな?」
「はいはい、解ったからあっちにお行き」
シッシッと犬を追い払うような手つきをする環を横目で睨みながら、涼はぶつぶつ言いつつも居間へと戻って行った。
「自分が何を言ってるか解ってんのかね、あの馬鹿は」
「おば様……」
「雛子ちゃん、後悔しない?」
「……しません。 利恵ちゃんなら、きっと涼ちゃんを支えてくれますから」
「そう……」
「わたしは涼ちゃんが笑っていてくれれば、それだけでいいんです。 それだけで……」
この子は、まだ気に病んでいるのか……と環は思った。
保が亡くなったあの日から、ずっと、ずっと……。
環は思わず雛子を抱きしめたい衝動に駆られたが、それをグっと堪え、
「さあ! 雛子ちゃん、今日はニ人でとびっきりの物を作るわよ! 予算は無制限だ!」
と、腕まくりをしながら言った。
「はい!」
もう桜の季節も終る頃の事……。
散らす花弁も無い桜の木は、しかし、その幹まで枯れてしまう訳ではない。
けれど……。