第三章
「悪いな涼、つき合わせちまって。 雛子ちゃんも有難うね」
歩道を歩きながら、真一郎は言った。
隣りを走る国道は、今日もひっきりなしに車が行き交っている。
「いいさ。 どうせ今日は何の予定も無かったし、こんな天気のいい日に家で燻ってるのもつまんねえしな」
「わあ〜……おっきいねえ。 ここで真君の友達が走るの?」
快晴の日曜日。
涼、真一郎、雛子の三人は、市営競技場へとやって来ていた。
と言っても、三人とも何の目的も無しにここに来ている訳では無い。
今日は、陸上部に所属している真一郎の友達が、地区予選の決勝戦に出るというので、三人はその応援に来ているのだ。
当然、琢磨にも声をかけたのだが、生憎と今日は祖父の道場で剣道の稽古があるとの事で、断られてしまった。
琢磨の祖父、浦崎弦磨は 『浦崎流剣術』 の創始者であり、琢磨の剣の師匠なのだそうだ。
涼も真一郎も聞いた事の無い流派だったが、琢磨に言わせると、弦磨は達人級の使い手らしい。
出来たばかりで歴史は浅くても、凄い物は凄いのである。
「ああ、今日勝てばいよいよ次は全国だ。 全くすげえ奴だよ」
「わたし達と同じ一年生だもんね、凄いなあ〜……」
どこにでも一人は飛び抜けた才能を持つ者がいるようで、真一郎の友人も入部してすぐに頭角を現し、こうして大会に出場するまでの存在になったのだそうだ。
ただ、やはり 『一年生のくせに』 と先輩部員にやっかまれ、嫌がらせなどもされたそうだが、結局は実力の世界である。
自分達よりも力が上だと見せ付けられ、上級生達も黙ってしまったらしい。
「おい真、どっちに行けばいいんだ?」
キョロキョロしながら涼が訊ねた。
競技場はやたらと広い上に、どこもかしこも似たような造りになっている。
案内板は設置されているが、慣れていない者にとっては、どこに何があるのか今一つピンと来ない。
「ん? ああ、こっちだ」
「……迷路みてえな造りだな、ここは。 ヒナ、ちゃんと付いて来いよ? ウッカリしてると迷っちまうぞ?」
「方向音痴の涼ちゃんに言われたくないなあ」
「ははは。 そうかあ〜、涼は方向音痴だったのか」
真一郎は、何やら嬉しそうな顔で涼を見た。
どうやら、涼に関するネタが入手出来て喜んでいるようだ。
「ヒナ〜……あんまりこいつに余計なネタを提供するなよ」
「ごめんなさい……」
スタートの合図と共に、歓声が競技場全体に響き渡った。
一瞬の内に、選手達は一陣の風となり、トラックを駆け抜けて行く。
観客席の真一郎は、夢中になって友人に声援を送っていた。
「よっしゃ、ニ着でゴール! これで準決勝進出だぜ!」
「はや〜い……。 わたしだったら、まだ真ん中辺りを走ってるかも……」
雛子は手にした飲み物を飲むのも忘れ、目を丸くして驚いている。
「雛子ちゃんって足遅いの?」
「う……。 えへへ、実は小さい頃からかけっこは……と言うより、運動は苦手なの……」
「ま、誰でも苦手な物の一つやニつ……って、あれ? 涼は? さっきまでそこにいたと思ったのに」
「トイレだって。 ずっと我慢してたみたいで、慌てて走って行ったよ」
「何だよ、応援もしないでトイレなんて……ま、俺様と雛子ちゃんの応援があれば、涼の応援なんぞ無くても楽勝だ!」
「真君ったら」
まるで子供のように大騒ぎする真一郎を見て、雛子はクスクスと笑った。
「ヤッベ〜……完璧に迷っちまったな」
その頃、涼は完全に席に戻る道を見失っていた。
素直に来た道を戻れば良かったのだが、変に歩き回ってしまった為、その道も判らなくなってしまったのだ。
筋金入りの方向音痴である。
「だからって、まさか帰り道が不安だから付き合ってくれなんて頼めねえしな……特に、真の場合は」
……それはもっともだ。
「誰かいねえかなあ……ん?」
ふと顔を巡らせると、ストレッチをしている女の子が目に入った。
ショートカットの髪に、スラリと長く細い足。
顔は……少し厳しい表情をしているが、かなり可愛い。
しかし、今の涼にはそんな事まで理解する心の余裕は無く、まさに地獄に仏とばかりに女の子に向かって小走りに近付いた。
「すんません! ちょっといいっすか?」
「……」
しかし、女の子は返事もせずに、今度は靴の紐を締め直し始めた。
「あれ? 聞こえなかったのかな?」
更に数歩近付いてから、涼は改めて声をかけ直した。
「……あの〜、ちょっと訊きたい事があるんすけど?」
「……」
女の子はまたも答えず、反対側の靴紐を締め直す。
さすがにここまで無視されると、涼としても気分が悪い。
別に何も悪い事をしていないのに、こんな対応をされたのでは、涼でなくても腹が立つだろう。
「あのさあ、人が話し掛けてるのに、その態度は無いんじゃないかな?」
「あ〜もうっ! うるっさいわねっ!」
そう言うと、女の子はベンチから立ち上がり、腰に手を当てて、キッと涼を睨みつけた。
何だか知らないが、涼に対して怒っているようだ。
「あんたねえ、わたしが何をしてるか判んないの?」
「……靴紐を結んでるように見えるけど?」
「ハァ……これだから素人は……」
心底呆れ返ったような顔をして、女の子は涼に言った。
だが、涼にしてみたら見たままを言っただけなのに、素人呼ばわりされた上に呆れられても困ってしまう。
……実際、素人だし。
「わたしはね、今、精神統一してたの!」
「精神統一? 何で?」
「何でって……あんた、ここがどこで、わたしがどんな格好してるか、合わせて考えれば馬鹿でも判るでしょ?」
女の子は自分の頭に人差し指を当ててクルクルと回し、その指を涼に向けて言った。
完全に涼を馬鹿にしている。
「バ、バカとは何だ、バカとはっ!」
その仕草にカチンと来た涼は、思わず声を荒げてしまった。
先程まで無視され続けた上に、今度は馬鹿呼ばわりされたとあっては、さすがの涼も頭に来るだろう。
「知らなきゃ教えてあげるわよ。 あんたみたいなのを馬鹿って言うの」
女の子は余裕の表情をしながら、フフンといった感じで、更に涼を挑発するように言った。
「あ……頭来た!」
「何よ、やる気? 相手になってあげるわよ……つっ!」
何かの構えをとった瞬間、女の子の顔が歪んだ。
いくら何でも、涼とて本気で女の子とやり合うつもりなど無い。
それより、その一瞬苦痛に歪んだ顔が気になった。
「どうかしたのか?」
「な……何でもないわよ。 早くどっか行きなさいよ」
「いや、そうしたいのは山々なんだけど、道がさ……」
「あ! こんな所にいたの?」
声のした方を見ると、ジャージ姿の女性がこちらに向かって歩いて来た。
二十代後半くらいだろうか? 短めの髪で、いかにも快活そうな印象を与える人だ。
スマートな割にはしっかりとした体躯をしているという事は、恐らく何かスポーツをしているのだろう。
「さ、もうすぐ出番よ、準備して」
「……はい!」
「もしかして走るのか?」
涼の質問に、女の子は目を見開いている。
明らかに、これは涼の事を本物の馬鹿だと思っている表情だ。
「当たり前でしょ? まだ解ってなかったの?」
「いや、そうじゃなくてさ……」
「君、悪いんだけど、あとにしてもらえるかな? そんなに時間が無いのよ」
「……こいつ、いい選手なんすか?」
涼は、どうやら先生 (恐らく、陸上部の顧問だろう ) と思われる女性に問い掛けた。
「こ、こいつとは何よ! 失礼ね!」
「そうね、我が部の期待の星ってところかしら? 将来有望よ」
顧問の先生はにこにこしながら涼の質問に答えた。
本人の前でここまで言い切るというのは、この女の子が本物だという証だろう。
「ふうん……だったら、走らせない方がいいっすよ」
涼は、ごく普通に、当たり前の事を言うように言った。
「え? 君、それってどういう意味?」
「な、何言い出すかと思えば! あんた、さてはライバル校のスパイね!」
いささか的外れな女の子の指摘を無視して、
「こいつ、どこか……多分、足首だと思うけど、怪我してるから」
と、涼は続けた。
先程、女の子が顔を歪めたのは、構えを取って足に体重をかけた時だ。
子供の頃から喧嘩ばかりしている涼は、相手がどれくらいのダメージを負っているか、無意識に測る癖が付いているのだ。
「何ですって! 本当なの!?」
涼に言われて、顧問らしき女性は女の子を見やった。
その目は、先程とは打って変わって厳しい物になっている。
「う……嘘ですよ! こんな奴の言う事なんか……」
「見せてみなさい」
「先生、大丈夫ですってば! わたし、どこも怪我なんて……」
「いいから見せなさい!」
そう言って、嫌がる女の子を通路のベンチに腰掛けさせ、無理矢理両方の靴下を下ろすと、右の足首にはアンカーテープがこれでもかと言うほどガッチリ巻かれていた。
「アンダーラップもしないで……しかも、スターアップとホースシューを併用してるって事は、余程酷く痛めてるわね?」
通常テーピングをする時には皮膚を保護する為、自着性の無いアンダーラップを粘着スプレーを吹き付けて巻いておく。
そうする事で 『かぶれ』 などを防止するのだが、スプレーの量が少ないとアンダーラップがずれ、テーピングの効果が落ちる。
本来スターアップは捻挫の予防に、ホースシューは足の関節が左右にぶれるのを防ぐ目的で使用するのだが、ここまで固めるように巻いているという事は、既に痛めてしまっているという何よりの証拠だ。
顧問が軽く足首に触れると、女の子は瞬間的に方目を閉じて痛そうな顔をした。
「やっぱり……いつ痛めたの?」
「……最初の競技の時です。 ゴールしたあとに隣の選手と接触して、それで……」
「それなのに準決勝まで……今回は棄権しなさい、いいわね?」
「あと一回走るだけなら大丈夫です! やらせて下さい! せめて決勝にくらい残らないと……!」
顧問の言葉を聞いた瞬間、女の子は慌てて言った。
しかし……。
「だめよ、これは命令です。 従えないのなら、もう部に出なくて結構よ」
返って来たのは厳しさを含んだままの声だった。
それは教師として、そして顧問として当然の命令だったろう。
「先生……そんな……」
「また次があるわ。 じゃ、手続きをしてくるから着替えておきなさい、いいわね?」
「はい……」
女の子としては、それ以外の返事は出来ないだろう。
「着替えたら、そのままロッカールームで待ってて」
先生はそう言い残すと、どこかへ歩いて行ってしまった。
その背中を見送ってから、涼は重大な事に気が付いた。
(あ! 道訊きそびれたじゃねえか! 何だよ〜、こいつに訊くしかねえのか?)
チラリと、ベンチに腰掛けたまま項垂れている女の子に目をやった。
重い……果てし無く雰囲気が重い……。
例え真一郎でも、この状態の女の子には話しかけないだろうと思わせる空気だ。
(しょうがねえ、こうなりゃ適当に歩いて行くしかねえか。 全部回ればどれか一つは当たりだもんな。 はは……今日中に帰れるかな、俺……)
涼が絶望的な気分になると……。
「恨むわよ……!」
顔を伏せたまま、女の子がボソっと言った。
「ん? 何か言ったか?」
「あんた……恨むからね!」
「何で? 人がせっかく……」
涼がそう言うと、今まで伏せていた顔をキっと上げ、目に涙を一杯溜めた女の子はベンチから立ち上がり、涼に挑みかかるように怒鳴り始めた。
「やっとここまで来たのに! ずっと頑張って来たのに! あんたのせいで台無しよっ! どうしてくれるのよっ!」
必死に堪えているのだろうが、溜まった涙が一つ、ニつと、その頬を伝った。
だが、女の子は決して、そのまま泣いてしまうような事はしなかった。
きっと涼に泣き顔を見せるのが嫌なのだろう。
「一年のくせにって先輩に嫌味言われたって、先生に取り入ったって陰口言われたって、ずっと我慢してやって来たのにっ! 結果を残せなかったら何の意味も無いじゃない! わたしは実力で選ばれたんだって証明出来ないじゃないっ!」
「……何だそりゃ」
気色ばんで怒鳴る女の子に対し、涼はつまらなそうにそう言い放った。
その態度でまた頭に来たのか、女の子の表情は更に険しくなった。
「 な、何だとは何よ! わたしがどれだけ頑張って来たかも知らないくせにっ!」
「下らねえ。 お前、一体何の為に走ってんだ?」
「そんなの……そんなの、走るのが好きだからに決まってるでしょっ!」
「へえ〜。 今の台詞からだと、そうは思えねえけどな。 俺はまた、その先輩ってのを見返してやろうとかっていう、安いプライドの為かと思ったぜ」
まるで女の子を小馬鹿にするように、涼は続けた。
何故か意識的に女の子を煽っているようだ。
「あ……あんたなんかに解るもんかっ!」
「解って欲しいとも思ってねえだろ? それじゃ誰にも解んねえよ」
「うるさい! どっか行け! 馬鹿っ!」
「いや、だからさ、俺も行きたいんだけど……スタンドまでの道順、教えてくんないかな?」
「ふざけないでよっ!」
(マジなんだけどなあ……)
涼は頭をポリポリ掻くと、今度は一転して真面目な顔になった。
「ところでさ、お前はどこまで走るんだ?」
「何言ってんのよ……意味が解んない……」
涼が、今度は自分を馬鹿にして言っているのではない事が解ったのか、女の子は先程よりも静かに言った。
「この大会がゴールなのか? って訊いてんだよ」
「……え?」
涼が言わんとする事が解らず、女の子はキョトンとした顔になった。
「違うんだったら先の事考えろよ。 高校でも、大学でも、婆さんになったって走れるんだぜ? 今ここで無理して大好きな事が出来なくなったら、それこそつまんねえだろうが」
「……」
そんな事は解っていた……いや、解っていたつもりだった。
だが、意地を張って無理をしていた自分に気付かされ、女の子は少しバツが悪い思いがしていた。
「期待の星なんだろ? また頑張れるさ。 お前、根性ありそうだし」
涼は笑いながら言った。
しかし今度は馬鹿にするのではなく、親愛の情を込めてだ。
それが伝わったのか、
「あ、あのさ……」
「あ?」
「……さっきはごめん。 ちょっと言い過ぎた」
女の子は、きちんと頭を下げて涼に詫びた。
自分のミスで負傷したのに涼に八つ当たりしてしまった事を、今更ながら悪いなと思ったのだろう。
「ま、いいんじゃねえの? イラついてただけなんだろうしさ、気にすんなよ」
「……ありがと……」
「あ? 聞こえねえよ、何つった?」
「何でもない! ……ところで、いつまでここにいるつもり?」
「だから……道教えてくれって、さっきから言ってるだろ?」
「は? ……もしかして、ホントに迷ってるの?」
疲れ切ったように言う涼を、女の子はポカンとして見つめた。
まるで万華鏡のように、女の子の表情はくるくると変わる。
涼はそれを見て、面白い奴だなと思った。
けれど、今はそれどころではない……。
「これ以上無いってくらいに迷ってて、気分は遭難だ……」
涼は、肩を落としながら言った。
「……五分待てる?」
「待てるけど?」
「着替えたら案内してあげるから、そこにいて」
「あ……ああ、悪いな」
「いいわよ。 じゃ、勝手に歩かないでよ? もっと迷ったって知らないからね?」
「わーったよ! ここにいればいいんだろ?」
何となく風向きが変わったような気がして、涼は暫くの間、その場でボケっとしたままだった。
「まあ、一週間もすれば腫れも完全に引いて、また走れるようになりますよ。 ご心配無く」
「そうですか。 良かった……有難うございました」
顧問の女性教師は先程までの厳しかった表情が和らぎ、心底ホっとしたように安堵の息を漏らした。
「但し、この一週間の間は安静にしている事。 練習は禁止ですよ?」
「はい。 ありがとうございました」
「お大事に」
女の子は丁寧に医師に頭を下げると、先に立って医務室のドアを開けた。
「本当に一人で大丈夫なの?」
「はい。 それに、みんなと顔をあわせるのが、ちょっと……」
「そう……解ったわ。 あなたの家はここからも近いし、いいでしょう。 但し気を付けて帰るのよ、いい? 寄り道なんてしないで。 ご両親へは先生から連絡を入れておきますからね」
「はい」
女の子の返事を聞くと、先生は階段を上って行った。
それを見送り、先生の姿が完全に見えなくなったところで、
「待たせちゃったわね」
女の子は振り返り、廊下の柱に向かって声をかけた。
女の子が言うと、柱の影から涼が顔を出した。
別に隠れる必要は無いのだろうが、何となく先生と顔を合わせるのに気が引けたのだ。
「どうだった?」
「うん、一週間もすれば大丈夫だって」
「そっか、良かったな」
「友達が待ってるんでしょ? 行こう」
「ああ」
女の子は、涼の先に立って歩き出すとすぐに、 『学校はどこ?』 『家はどこ?』 『好きな物は何?』 などの質問をぶつけて来た。
普段、雛子以外の女の子と話す事など滅多に無い涼は、その矢継ぎ早の質問にしどろもどろになり、まともな答えを返せなかった……。
「あ! 涼ちゃん、こっちこっち!」
スタンドの階段を上り切った所で、キョロキョロしている涼を見つけ、雛子は手招きをした。
さすがに子供の頃から聞いている雛子の声はすぐに聞き分けられるのか、涼はすぐに雛子を見つけて歩み寄って来た。
「おい涼! お前、どこまで用足しに行ってんだよ! もう俺のダチの出番終わっちまったぞ! ったく……このアホたれ」
道案内よりも、先に治療をするように涼が言った為、スタンドに上って来るまでに大分時間が経っていたらしい。
結局、涼は真一郎の友達の応援は出来ずじまいだった。
「わりい、迷っちまってさ。 で、結果は? どうだったんだ?」
「惜しかったんだけどさ、決勝で四位だった。 全国はお預けだ〜な」
「そっか……まあ、また次があるさ」
大会が年に何度あるか知らない涼は、取り敢えずさっきの顧問が言っていた台詞を言った。
それに、まだ一年生なのだし、この先いくらでもチャンスはあるだろう。
「お前の熱い声援があれば、もしかしたら勝てたかもしれんのに……」
「んな訳あるか。 そんなんで勝てたら誰も苦労しねえよ」
と、涼が苦笑すると、
「ねえ、やっぱり先にこっちに来た方が良かったんじゃない?」
今まで涼の陰になっていた女の子が、涼の横からヒョイと顔を出して言った。
「あれ……? 涼ちゃん、その子、誰?」
涼の交友関係はそれ程広くないので、幼馴染の雛子は殆どの友人の顔を知っていたのだが、その女の子の顔に心当たりが無かった。
真一郎の友人という訳でもなさそうだし……。
「ん? ああ、こいつはさ……」
「初めましてえ〜! この人の彼女で〜っす!」
そう言うと女の子は、涼の腕に自分の腕を絡ませた。
一瞬、三人の周囲の空気が凍り付いたようになり、その直後、
「えぇぇーっ!?」
「何ぃーっ!?」
「な……何だとぉっ!?」
会場の声援に勝るとも劣らない程の驚きの声が、三つ同時に上がった。
その涼達のリアクションに、女の子の方が驚いている。
「あ〜、ビックリしたぁ。 何もそこまで驚かなくても……」
「涼! てめえ……応援そっちのけでナンパしてやがったのか! しかも、こんな可愛い子を……。 お前だけは信じてたのに〜っ!」
真一郎は腕を目に当てると、大袈裟に天を仰いで叫んだ。
「ナンパなんてしてねえっ! 俺がそういうの嫌いだって知ってるだろ!」
「涼ちゃんがナンパ……涼ちゃんが……!」
雛子はヨロヨロと後退りつつ手を口に当て、首を左右に振りながらイヤイヤをする。
「こ……こら、ヒナ! 汚物を見るような目で俺を見るなっ!」
涼は慌てて女の子の腕を振り解き、雛子の肩を掴もうとするのだが、雛子は真一郎の後ろに回りこみ、涼から逃げ回る……。
「素直に白状しちゃえば? わたしとは深ぁ〜い絆で結ばれちゃったって」
「お前は! そこで話をややこしくすんなっ!」
結局、涼が必死に説明して真一郎と雛子を納得させるのに、十五分かかった……。
「そっか。 まあ、話しは解った。 俺様は最初から涼を信じてたからな」
「そ……そうだよね、涼ちゃんがナンパなんて、する訳ないよね」
心底ホっとしたように、雛子は笑顔で頷く。
「お前ら、さっきは思いっきり疑ってたクセに……」
涼はイヤそうな目で、雛子と真一郎を交互に見た。
「しかし、いきなり 『彼女で〜っす』 はねえだろ? ド肝抜かれたぞ……。 何しろ相手が涼だからなぁ」
「そんなに変?」
「変とかじゃなくて、今まで涼ちゃんにそんな事無かったからビックリしちゃって……」
「そう言えば、この子の事 『ヒナ』 って呼んでたよね? この子があんたの彼女なんだ?」
女の子は雛子を品定めするように、ジロジロと見ながら言った。
と言っても悪意のある物ではなく、本当に興味津々といった感じだ。
「いや、ヒナは友達だ。 それに、俺には彼女なんていねえよ」
「ふ〜ん……じゃあさ、わたし立候補してもいい?」
「えっ!?」
突然の事に固まる雛子。
その隣りで、真一郎は目が点になっている。
「お、おいっ! 何でそうなる!」
「ん? あんたの事が気に入ったから……かな? 一目惚れってやつ?」
「嘘吐けっ! 散々馬鹿呼ばわりしてたじゃねえか!」
「あ、わたし過去には拘らない性格なの。 つまらない事は忘れるのが一番よ、うん」
『あはは』 とわらいながら、女の子はサラリと言ってのけた。
こういう所が何となく誰かに似ている……テンパった頭の片隅で、涼はそんな事を考えていた。
「……」
雛子は何か言いたそうにしながらも、その様子を黙って見つめていた。
駄目だと言いたいのだろうか?
それとも、良かったねと言いたいのだろうか?
雛子は、自分の中で色々な感情が渦巻いているのを感じた。
けれど……。
「んじゃ、決定! あんた不束者だけど、よろしくしてあげるから感謝しなさい」
「決定じゃねえっ! それにお前、日本語がメチャクチャだぞ!」
「お前って言うな! わたしには、高梨利恵って立派な固有名詞があるんだから!」
「お前こそあんたって言うな! 俺にだって、宇佐奈涼って名前があるっ!」
「じゃあ利恵って呼んでよ、そしたら涼って呼んであげるからさ」
「呼ばんでいいっ! つーか呼ばんっ!」
「何でよっ! わたしじゃ不満だとでも言うのっ!?」
二人は席から立ち上がると、さっきよりも激しく言い合い始めた。
雛子も真一郎も唖然として、その光景を見守るしかなかった。
いや、口を挟もうにも何をどう言って良いのか判らないし、下手をすればこちらに飛び火しそうな雰囲気だからかもしれない。
「不満とか、そういう問題じゃねえだろ! おい真! ヒナも! 黙ってないで何とか言ってくれよ!」
「……この状況で俺らに何言えっつーの、お前」
半ば呆れた顔をして、真一郎が首を横に振った。
真一郎にしてみたら、可愛い女の子に好かれて嫌がっている涼の気持ちが理解出来ないのだ。
「……とりあえず、ゆっくりお話ししてみたら?」
「や〜ん、ヒナちゃん大好き!」
「お、おい、ヒナ! 俺を見捨てる気かっ!」
「そんな事しないよ。 ただ……ちゃんと、お話ししなくちゃいけないと思う」
雛子は真面目な顔で言った。
少なくとも、利恵は悪い子ではない……そんな確信があったのだ。
そして、利恵なら自分の願いを叶えてくれると……。
利恵は、そんな雛子の耳に口を近付けて、
「まずは、わたしが先制させてもらったからね」
と、片目を閉じて言った。
「えっ!?」
「さ、こんな所で立ち話しも何だから、どこかで落ち着いて話しましょ」
「そ〜だな。 んじゃ、俺様が取っておきの店に案内してやるよ」
真一郎が腰を上げながら言った。
その顔は、明らかに喜んでいる顔だ。
どうやら真一郎の中では、この状況を楽しむという結論が出たらしい。
「お、おい、お前ら! 何を勝手に話し進めてんだよ!」
「じゃさ、ついでに立会人になってよ。 あとで涼が言い逃れ出来ないように」
「お前、本気で言ってたのかっ!?」
「わたしは、いつでも本気で全力なの。 憶えといてね、涼」
この日から、運命の歯車は静かに回りだしたのだ……。