第十八章
抱き付くつもりは無かった……それは本当だ。
だが、真一郎に押されたとは言え、結果的に抱き付いてしまった事に変わりは無い。
そして、それを密かに嬉しく思う心があった事も事実だ……それは認める。
だが……。
「あ、何だ琢磨君か……驚いちゃった。 どうしたの? いきなり」
「さっ! さ、さ、さ、佐伯っ!?」
学校の廊下で真一郎に突き飛ばされ、倒れ込んだ先に雛子の胸があった。
それは本当に偶然で、決して琢磨が意図的に倒れ込んだ訳ではなかったのだ。
けれど……。
「琢磨君も、こんなお茶目するんだね。 ちょっと意外だったな」
「ち、違うんだ! 今のはわざとではなくて、その……事故で……」
琢磨が慌てて両手を振りながら言うと、
「……嘘吐き」
どことなく厭な印象を受ける笑みを浮かべながら、雛子は言った。
「本当はこうしたかったんでしょ?」
雛子の両腕が伸びて来て、琢磨をその胸に抱きしめた。
『ふにゅん』 と柔らかい物が琢磨の顔を包み込む……。
「ち、違う! 俺はそんな事は考えていない!」
「嘘」
「嘘じゃない!」
「じゃあ、どうしてそんなに嬉しそうな顔してるの?」
嬉しそうな顔?
今、自分はどんな顔をしているのだろう……?
「さっきから全然抵抗しないし……それって嬉しいからでしょ?」
確かにそうだ……。
どうして抵抗しないんだ?
どうして……。
「琢磨君、他にはどんな事して欲しい? 何でもしてあげるよ?」
何でも……?
「琢磨……」
ゆっくりと雛子の顔が近付いて……。
「……!」
思い切り開いた琢磨の目に飛び込んで来たのは、見慣れた天井と、何やら複雑な表情を浮かべた母、華末砂の顔だった。
「お……お母さん……?」
「大丈夫? 琢磨。 珍しくうなされてたみたいだけど……変な夢でも見たの?」
「夢……?」
布団の上に上半身を起こし、今さっきまで見ていた夢を思い出してみた。
どんな夢だったろう……はっきりとは思い出せない。
うなされていたのだから、厭な夢だったのだろうか?
「……何となく記憶には残っている感じなんだけど、よく憶えていないみたいだ」
ちらりと時計を見てみると、今日はいつもよりも寝てしまった事が判った。
普段は目覚ましを使わなくても六時には目が覚めるのに、今は八時を回ってしまっている。
ちなみに、今日は日曜日なので学校はお休みである。
「夢ってそういう物だものね。 もう起きる? なら、今日はいいお天気だから、お布団を干しましょう」
「はい。 お父さんは?」
「今日は体調がいいみたいで、六畳間に入ってるわ。 いいモチーフが見つかったんですって」
琢磨の父、翔磨がアトリエ代わりに使っている六畳間は、普段は書斎として使われている。
まあ、書斎と言っても翔磨と琢磨が読む本をしまってあるだけの、ごく普通の部屋だ。
「さ、顔を洗って、ご飯を食べなさい。 居間に支度してあるから」
「はい」
パン! と一度だけ自分の頬を叩くと、琢磨は布団から出てすぐに着替えを済ませる。
そして背筋をしゃんと伸ばし、自分の布団を肩に担いで、キッチリとした足取りで部屋を出て行く。
そんな琢磨の行動には、寝起きと言っても一部の隙も無いように見える。
華末砂はそれを見て、時々無性に寂しくなる事がある。
確かに琢磨はしっかりした子だし、真面目で親孝行だ。
だが、あまりにも杓子定規な生活態度は、却って琢磨の可能性を奪ってしまう事になりはしないだろうか?
そのせいで、小学生の頃は友達らしい友達もいなかったのだから。
「宇佐奈君と掃部関君。 それに佐伯さんか……」
何度か遊びに来た、中学生になってすぐに出来た友達。
琢磨は大層彼らの事を気に入っているようだが、果たして本当に琢磨の良い友人になってくれるのだろうか……。
「……心配し過ぎね」
翔磨の親族に昔から少し苦労させられて来た事もあって、他人との付き合いに臆病になっているのだろう。
両親共に一人っ子の華末砂には親類と呼べる存在が無く、そういった関係に少々不慣れな部分があるのだ。
それに大学時代の友人と言っても、翔磨を中心にして繋がっているようなものなのだから。
「しっかりしなきゃね、お母さん」
華末砂も琢磨の真似をして自分の頬をパン! と叩くと、少し強く叩き過ぎたのか、ちょっと頬を摩りながら琢磨の部屋を出て行った。
「お父さん」
食事を終え、片付けを済ませた琢磨は、六畳間でカンバスに向かっている翔磨に声をかけた。
「ん? ああ、琢磨か。 食事は済んだのか?」
「はい。 何か良いモチーフが浮かんだみたいだって、お母さんが言っていたけど……」
翔磨の肩越しに覗いてみるが、そこには真っ白なカンバスがあるだけだ。
準備は済んでいるようだが、何かを描いた様子は無い。
「ああ、そうだ。 だが、まだラフも描いていないよ」
「お父さんにしては珍しいね。 いつもはすぐに描き始めるのに」
琢磨は油絵の具と油が匂う六畳間が好きだ。
小さい頃から嗅いでいるその匂いは、イコール父の匂いであり、当たり前に感じられる物だ。
それに、臥せっている事が多かった父が元気な時にだけ、この匂いが嗅げるのだから、琢磨にとって嬉しい匂いなのである。
「ああ。 今回のは今までの物とは少し違うんだ」
そう言って、翔磨は絵の具を溶かし始めた。
翔磨は主に植物性の油絵の具を使う。
何となく動物性の物の匂いが好きになれないのだそうだ。
乾燥油にも拘りがあるらしく、市販のオイルは使わず、必ず自作のサンシックンドオイルを使う。
未加工のオイルを陽の光に晒すと同時に、空気にも触れさせて作るのだが、これがかなりの手間を食う。
幅の広いガラス容器に水を入れ、その上に薄く油の層が出来るようにし、水と油を度々かき混ぜるのだ。
しかも、それをニ〜三ヶ月以上晒す。
それをしながら、翔磨は頭の中で絵の構成を決めて行くのだ。
「タッチを変えるの?」
「いや、題材そのものが違うというだけさ」
翔磨が描くのは主に静物画で、動物や人物などは滅多に描かない。
少し考えるように自分の顎を摩ると、翔磨は綺麗に道具を並べ始めた。
「よく油絵は難しいって聞くけど、お父さんはそう感じた事は無い?」
油絵を描く基本的な方法は、顔料をリンシードオイル、またはポピーオイルで練った物を、テレピン油、リンシードオイル、樹脂などで溶き、板やカンバスに白い下塗りを施し、その上に筆などで描く 。
水彩画と違って色々な手間がかかる為、琢磨にはそれが難しさと繋がって思える。
「そりゃあ思うさ。 だが、小学生にだって油絵を描いている子がいるくらいだからね。 要は何が自分に向いているかって事だけさ」
「成る程……」
「琢磨だって、剣術を難しいと思う事があるだろう? それと同じだよ」
話をしながらも、翔磨の視線はカンバスに向いている。
どこにどんな線を引くか、あれこれ考えているのだろう。
「……済まないな、琢磨」
「何が?」
「わたしが浦崎流を継げれば、お前には普通の生活をさせてやれたんだが……」
「……それでも結局は俺が継ぐ事になったでしょ? 早いか遅いかの違いだけだよ、お父さん」
浦崎家の子供は琢磨だけ……つまり、翔磨が跡を継いだところで、結局は琢磨にお鉢が回って来るのだ。
「いや……そうだな……」
浦崎流を自分が継いだなら……それは、翔磨が健康体であったらという前提だ。
もしも自分が健康であったなら、子供は琢磨一人ではなかったかもしれない。
さっきの言葉にはそういった意味合いも込められていたのだが、それは言っても仕方の無い事だ。
翔磨はそれ以上の台詞を飲み込んだ。
「琢磨、今日も稽古か?」
「今日は会合があるとかで、お祖父さんからの稽古は無いよ。 休むか自分で稽古をするか、好きにしろって言われてる」
「そうか……なら、今日は休んで遊びにでも出かけたらどうだ? あまり根を詰めて稽古するのもどうかと思うし、折角の休日に家にこもっていたんじゃつまらないだろう?」
「え?」
稽古を一日休んだら、取り戻すのに三日かかる。 これは祖父から常々言われている事だ。
たとえ休日と言えど、琢磨の頭の中には稽古を休むという考えはない。
それに、急に出かけろと言われても、琢磨には何をして良いか解らない。
「いいよ。 どうせ休むなら、ちゃんと身体を休めないと。 それに、今日はお父さんが絵を描くのを見ていたいんだ」
「おいおい、じっと見られていたら描けないよ。 わたしは人に見られていると集中出来ないんだ」
道具を準備しながら、翔磨は苦笑した。
「お前、友達が出来たと言っていただろう? 電話してみたらどうだ」
小さい頃から剣術の稽古ばかりで、ロクに遊ぶという事をしなかった琢磨に友達が出来た。
それも、かなり癖のある子だという事で、翔磨は大変嬉しく思っていた。
どうせ友達になるなら、一癖も二癖もある方がいい。 そちらの方が断然、面白いに決まっている。
琢磨も同年代の子に比べたら充分に変わっているのだし、その方が馴染むのも早いだろうと思っているのだ。
「でも、急に言ったら迷惑だよ。 みんなにも予定があるだろうし」
「それを確認する為の電話じゃないか。 琢磨、友達というのは、そういう関係の人の事を言うんだぞ?」
「そ、そうなの?」
どうにも今まで友達付き合いという物をして来なかった琢磨には、その辺の事はよく理解出来ないようだ。
何しろ小さな頃から行く場所と言えば、学校の他には道場しか無いようなものだったのだから。
「その人との親しさにもよるが、変な遠慮は却って良くない。 お前から誘いをかけるというのも、大事な事だ」
そう言われて、琢磨は少し考えてみた。
確かに以前と比べれば、誰かと一緒に過ごす時間が増えはしたが、あくまでも涼や真一郎に誘われて、それに付いて行くというだけだった。
それでは友達付き合いをしているとは言えないのかもしれない。
自分からも能動的に動いてみる必要があるだろう……と琢磨は思った。
「……そうだね、電話してみるよ」
「ああ、そうするといい」
琢磨が六畳間を出ると、翔磨はすぐにカンバスに筆を走らせ始めた。
どうやら女性の絵を描くようだ。
「驚いたぜ。 まさか、お前から電話が来るとは思ってなかったからな」
二人分のコーヒーを淹れて自分の部屋に戻って来た涼は、クスクスと笑いながら言った。
涼はトレーナーにジーンズと普段通りにラフな格好だが、琢磨の方はきちんとアイロンのかけられたワイシャツにスラックスといった具合で、二人の性格の違いが現れた服装である。
「そ、そんなに意外だったか……?」
本当は真一郎に電話しようと思ったのだが、折角の休日に説教だけして終る結果になりかねないと思い、持ち上げた受話器を置いたのだ。
「まあな。 ほれ、飲めよ」
琢磨にマグカップを手渡すと、涼は琢磨の体面に胡坐をかいて座り、コーヒーを一口啜った。
さすがにコーヒー好きという事もあって、涼もなかなか上手くコーヒーを淹れる事が出来る。
香りと味に満足したのか、涼は軽く頷いている。
だが、琢磨は……。
「……苦い」
どうにもその味に馴染めないのか、一口飲んで顔を顰めている。
「涼、砂糖とミルクをもらえないか?」
「何だよ琢磨。 お前、甘党か?」
「いや、特にそういう訳ではないんだが……涼はいつもこのまま飲んでいるのか?」
「酸味と苦味を味わうのに、砂糖とミルクなんて入れたら味が判んなくなっちゃうだろ?」
「そ、そういうものなのか……」
もう一口飲んでみる……が、やはりこの苦さには馴染めそうにない。
お茶の渋味は美味しいとさえ感じる事が出来るのだが、どうにもコーヒー独特の香りと味が、琢磨には合わないようだった。
涼から砂糖とミルクをもらい、よくかき混ぜてからもう一度飲んでみた。
幾分マシになったものの、やはり自分から進んで飲もうとは琢磨には思えなかった。
「今日はおば……いや、環さんも家にいらっしゃるのだな」
一瞬 『おばさん』 と言いそうになって、琢磨は慌てて言い直した。
先日の真一郎の惨状を見ている事もあって、勢い慎重にならざるを得ないのだ。
何しろこの家の主なのだから、どこで聞かれるか判ったものではない。
おまけに地獄耳な上に神出鬼没だし……。
「ああ、日曜だしな。 地方へ行くんでもなけりゃ、休日は大抵家にいるよ」
「そうか。 ……ところで、いきなり押しかけて来てしまったが、本当に何も予定は無かったのか?」
「ねえよ。 あったら来ていいなんて言えないだろうが」
「それはそうなのだが……ほら、お前には恋人がいるのだろう? その人と出かける予定でもあったのではないかと思ってな」
「恋人? ……ああ、あいつの事か」
涼は頭をガシガシと掻いた。
真一郎のせいで、琢磨はすっかり利恵の事を涼の恋人と思い込んでいるようだ。
もっとも、仲間内でそう思っていないのは、涼一人だけかもしれないが。
「琢磨、改めて言っとくぞ? あいつと俺はただの知り合いで、恋人なんかじゃねえ」
「そうなのか? では、お前はその人との交際を断ったのだな?」
「え? いや……そういう訳でも……」
「何だ、まだきちんと返事をしていないのか?」
「ああ……」
「まったく……そんな事でどうするんだ。 先日、俺が言った事を忘れたのか?」
琢磨はただでさえ真っ直ぐな背筋を更にピン! と伸ばして、涼に説教をし始めた。
「相手のある事だから、返事は早めにしなければいけないと言っただろう。 お前にも考える時間は必要だったろうが、もういい加減返事をしなければいかん」
「そ、そりゃあ解ってるんだけど、こう……何て言うか、何をどう言っていいか……」
「受け入れるか拒絶するか、二つに一つではないか。 時間をかけたところで、その選択肢が増える訳でも減る訳でもなかろう」
「まあ……な……」
琢磨のいう事はいちいちもっともで、涼としては反論の余地が無い。
言っているのが真一郎や環なら何か言い返すところだが、琢磨が相手だと何故か逆らう気になれない。
きっと琢磨が真面目で、真摯な態度だからだろうな……と、涼は分析しつつ現実逃避していた。
「涼、聞いているのか? 曖昧な態度はいかんぞ」
「はいはい、聞いてますって。 何だよ、今日は俺に説教する為に来たのか?」
「これは説教ではなく、友人としての忠告だ。 やはりこういった事はきちんとしないといかん。 俺にはこういった経験は無いが、それだけは言える」
結局、真一郎がいなくても説教する事になってしまっているのだが、琢磨はそれには気付いていないようだ。
どうにも涼と真一郎に対しては、何か一言を言わないといられないようになってしまったらしい。
「ヒナにも顔合わす度に言われてるんだから、せめてお前くらいは言わずにいてくれよ……」
「佐伯……?」
雛子の名前を聞いた途端、琢磨の顔が赤くなった。 今朝方見た夢を、いきなり思い出したのだ。
起きた直後は忘れていたのに、どうして今、突然思い出したのだろう? あの柔らかい感触を……。
「うわわわっ!」
琢磨は大慌てで顔を左右に振り、頭に浮かんだイメージを追い払おうとした。
だが、一度浮かんでしまった物は、そう簡単には消えない。
「琢磨、どうかしたか?」
「い、いや! 何でもない! 気にするなっ!」
「何慌ててんだよ」
「あああああ慌ててなどいない! お前の気のせいだ! 見間違いだ! 勘違いだ! 見当違いも甚だしいぞ!」
「あからさまに怪しいだろ、その挙動は……顔、真赤だし」
「あ、赤いだと!? な、ならば、それは血行が良い証拠であって、俺が健康だという事だ! お前は俺が健康だと不満なのか!」
琢磨は勢い良く立ち上がると、涼を指差しながら捲し立てた。
「言ってる事が滅茶苦茶だぞ、お前……」
何故か興奮している琢磨を見ながら、涼はゆっくりとコーヒーを啜った。
真一郎に対して何か言う時には、もっと理路整然と正論を述べるのにと思いながら。
「いいから黙れ! もう何も言うな! 男は無駄口を叩かないものだと昔から相場が決まっている! 然るに、昨今の若者は……!」
「お前が一人で喋ってるだけだっての……ちょっと落ち着けよ」
「お、俺は落ち着いている! 落ち着きが無いのは真だけだ! そもそも、あいつは……!」
「とりあえず座れ。 今、お茶淹れて来てやるから大人しく待ってろ」
どうにも琢磨が舞い上がってしまっているので、ここは一息つかせる必要がある。
普段はお茶を常飲していると言うし、きっと慣れないコーヒーのせいで興奮が収まらないのだろう。
涼はそう考え、少し濃い目のお茶を入れてやろうと思った。
「……失敗した」
涼が部屋を出て少しすると、さすがに琢磨も若干落ち着きを取り戻し、先程までの自分の行動を振り返る余裕が出て来た。
ドアを背にしてクッションに腰を下ろすと、両方の頬をパンパンと叩き、顔を左右に振った。
「思い切り動揺してしまった……まだまだ精神修行が足りていないという証拠だな」
しかし……と琢磨は考えた。
たかが夢を思い出しただけで、何故あそこまで動揺してしまったのだろうか?
確かに、自分には女性に対する免疫が無く、女性に関する事柄で冷静さを欠いてしまう事は認める。
だからと言って、夢の事であそこまで我を失ってしまうなど、どう考えてもおかしいではないか。
「原因は何だ……?」
琢磨は冷静に自己分析を始めた。
発端は今朝方見た夢なのだから、まずはその内容がどんな物だったか思い出す必要がある。
夢の内容……そうだ。
学校の廊下で真一郎に押されて、雛子に抱き付いてしまった一件……それが微妙に違う形で夢に現れたのだ。
『本当はこうしたかったんでしょ?』
夢の中の自分は、雛子の胸に顔をうずめて嬉しがっていた……?
つまり自分は、常日頃からそれを望んでいる……?
「否! 断じてそのような事は無い! 俺は……!」
『じゃあ、どうしてそんなに嬉しそうな顔してるの?』
嬉しそうな顔……?
夢の中の自分はどんな顔をしていたのだろう……?
『琢磨君、他にはどんな事して欲しい? 何でもしてあげるよ?』
何でも……? 『何でも』 とは何だ?
「俺は……一体何を求めているんだ?」
「お茶でしょ?」
「!?」
背後で聞こえた声に、琢磨は思い切り驚いて飛び上がった。
勿論、本当に飛び上がった訳ではなく、それくらいビックリしたという事である。
「どうしたの? 琢磨君。 そんなに驚いて」
「さ、さ、佐伯!? ど、どうしてここに……!?」
初めて見た雛子の私服姿……それは琢磨の目にとても新鮮に映った。
涼と違って寒さには強い雛子は、余程寒くならない限り、あまり厚着はしない。
今日は白いファーアンサンブルニットにスカートと軽装だ。
「さっき表で涼ちゃんに会ったの。 そうしたら琢磨君が来てるって言うから、遊びに来たんだ」
「お、表で? りょ、涼はどこへ行ったんだ!?」
まさかこの場で雛子と二人きりにされてしまうとは思っていなかった為、琢磨は内心焦っていた。
そんな状態が続いたら、まともな会話など出来はしない。
「お茶菓子買いに行くって言ってた。 お茶だけ持って行くなんてお前は馬鹿かって、おば様に言われたんだって」
雛子はクスクス笑いながら、琢磨の前に小さなテーブルを出し、お茶の準備を始めた。
その動作の一つ一つはとても自然で、手馴れた感じを受ける。
「わたしが行こうか? って言ったんだけど、わたしじゃ歩くのが遅いから、余計に時間がかかるって。 で、帰って来るまでの間、琢磨君の相手をしててくれって言われたの」
雛子は涼のベッドを背にする形で、琢磨の右側に腰を下ろした。
座る場所を特に決めている訳では無いのだが、小さな頃からの習慣で、涼の部屋では自然にそこへ座る癖が付いているのだ。
「そ、そうか……済まん」
淹れられたお茶を一口飲んでから、琢磨が言った。
だが、そのお茶の味がどういう物か、琢磨には全く判らなかった。
「何が?」
「いや……お、俺の相手など退屈なだけだろう。 さ、佐伯の時間を無駄にさせて、申し訳無いと……」
「琢磨君、変」
自分もお茶を飲みながら、雛子は言った。
紅茶やコーヒーも好きだが、今はこの場に琢磨しかいないので同じ物を飲んでいるのだ。
「わたしは琢磨君が来てるって聞いて、それでここへ来たんだよ?」
「え? だ、だが、涼に俺の相手を頼まれたと……」
「だからぁ、表で会った時に涼ちゃんがそう言って出かけたっていうだけだよ。 元々ここには来るつもりだったの」
「そ、そうか……済まん」
「また謝ってる」
雛子はクスクスと笑った。
何故だろう……こうしている瞬間が楽しいと琢磨は感じていた。
ごく普通に他愛も無い話をし、それで相手が笑ってくれる事が嬉しい。
涼や真一郎と話している時とはまた違う楽しさ……。
「琢磨君、今日はお稽古お休みなんだね」
「あ、ああ。 そ、祖父が会合に出ているのでな。 それで、ち、父にも言われて、こちらにお邪魔させてもらったんだ……」
「お父さんに? 何て言われたの?」
「せ、折角の休みなのだから、家に篭っていないで友達と交流を深めろと……」
雛子との会話に楽しさを感じながらも、どうしても語尾が弱々しく、しぼみがちになってしまう。
母の華末砂以外の女性と話す時は、いつもこうだ。
まったく情けない……と琢磨は思った。
「そうだね、わたしもその方がいいと思うよ? 琢磨君、それでなくても稽古ばかりで、自分の時間が少ないんだし」
「そ、そんな事は無い」
細かい手の震えを雛子に悟られないように気を付けつつ、琢磨は湯飲みを両手で掴み、
「稽古は自分の意思でしている事だ。 誰かに強制されてしているのではない。 だから、俺は自分の時間を犠牲にしているなどと思った事は一度も無い」
一度、二度と湯飲みを傾けてお茶で喉を潤すと、琢磨は続けた。
「稽古をして強くなり、祖父に認めてもらえるようになる……それが、今の俺の一番の目標なんだ。 そうする事で、俺もまた自分自身を認める事が出来るようになる」
「……? 自分自身を認めるって?」
「あ、いや、認めると言うか……その……」
情けない自分を変える事が出来るかもしれない……とは言えなかった。
しかしこればかりは、いくら稽古を積んだところで難しそうである。
何しろ性格や性癖という物は、一朝一夕に変えられる物ではないのだから。
琢磨は残りのお茶を一気に飲み干すと、
「す、済まない、もう一杯もらえるか?」
完全に収まらない動揺を隠すように、少し慌てた感じで湯飲みを差し出した。
だが、それがいけなかった。
勢い良く差し出したせいで手が滑り、湯飲みが手から抜けてしまったのだ。
当然、湯飲みは雛子に向かって飛んで行く訳で……。
「きゃっ!」
飛んで行った湯飲みは、見事に雛子の胸を直撃した。
「あ……す、済まん、佐伯! 大丈夫か!?」
「うん、大丈夫大丈夫。 空になってたし、軽く当たっただけだから」
自然と、琢磨の目は湯飲みの当たった部分に行く。
勿論、琢磨の中に変な考えなど全く無かった。
しかし、その視線の先にあるのは……。
「湯飲み、洗ってくるね」
雛子はそう言うと、すっと立ち上がって部屋を出て行った。
その後を一瞬遅れて、仄かに良い香りが動いた。
何となく甘いような、それでいて酸っぱいような、何とも不思議な香りだった。
「化粧品の匂いではないな……シャンプーか石鹸だろうか?」
正座をして、琢磨は呆けたように考えていた。
動悸が治まらない……風邪をひいた時のように顔が熱いのが判る。
「こ、これは一体……?」
雛子が部屋に入って来た時からそうだ。
落ち着こうとすればする程、気持ちに反して落ち着きが無くなって行く。
……いや、それは嘘だと琢磨は思った。
正確には、初めて雛子と言葉を交わした時からずっとだ。
目立たぬように、ひっそりと教室の隅にいた時とは違い、今ではクラスメイトとも話をするようになった。
女子が相手だとどもってしまうのは相変わらずだが、それでも雛子を目の前にした時のような反応はしない。
それは自分でも気付いていた事だった。
「自分に嘘は吐けんな……俺は、きっと佐伯が好きなのだろう……」
だからこそ、今朝のような夢を見たのだ。
琢磨は大きな溜息を吐くと、そのまま顔を伏せてしまった。
「し、しかし……だからと言って、何をどうすればいいんだ?」
こういった経験など皆無の琢磨にとって、この感情をどう処理すべきなのかなど考えつく筈も無い。
誰かに相談すると言っても、親しい友人は涼と真一郎、それに雛子だけだ。
だが、当然、相談相手として雛子は除外である。
涼もどうやらその手の事には疎いようだし、そうなると残っているのは真一郎だけだが……。
「……ガソリンをかぶって火事現場へ突入するようなものだな」
という事は、誰にも相談出来ないという事である。
自分で考え、自分で行動する以外、どうしようもない。
「難しい……」
それはそうだろう。
ただ好きになったというだけで、具体的に何をどうしたいのかが判っていないのだから、何をどうしようもない。
切ない溜息だけが、琢磨の口から零れる……。
「どうしてそういうのしか頭に浮かばないのかなぁ……」
再び背後から聞こえた雛子の声で、琢磨は一瞬ギクッとした。
自分の考えている事を見透かされたような気がしたのだ。
だが、雛子がそう言った相手は……。
「何だよ、何かおかしいか?」
「涼ちゃんが買って来たのって、スナック菓子ばっかりじゃない。 それはお茶請けじゃなくて、おやつだよ」
「いいじゃねえか別に。 それに琢磨は甘党じゃねえって言うしさ、それなら塩気のあるもんの方がいいだろ?」
「甘党とか、そういう事じゃなくて……だったら、お煎餅の方がいいと思わない? お茶なんだし」
「年寄りじゃねえんだから。 それに、俺はポテチが食いたかったんだ」
「結局、自分の好みだけじゃない……何これ、他のは殆どカレー味ばっかり」
「もう買って来ちまったんだから文句言うなっての。 おう、琢磨、待たせたな。 どれでも好きなのを開けて食えよ」
ドサドサと無造作にテーブルの上へ菓子を落すと、涼は琢磨の向かい側へドッカリと腰を下ろした。
「もう! そんな出し方する人がいますか!」
言いながら、雛子も先程と同じ場所へ腰を下ろす。
そしてすぐに琢磨の湯飲みにお茶を注ぎ始める。
勿論、テーブル上に広げられた、邪魔な菓子袋を片付けながらだ。
「ベタな返しで申し訳無いが、ここにいる」
「わたしはギャグで言ってるんじゃないのっ! いくら友達だからって、そういう所はちゃんとしなさい!」
「最近、口やかましさが増したな、ヒナ」
「言われるような事ばっかりするからです!」
目の前で展開する光景を、琢磨はただ唖然として見ていた。
何とも違和感の無い、本当に自然な会話だ。
特に雛子の口調は、琢磨に対する時のそれとは明らかに違う。
「あ、さっき飲みかけで出て行っちまったんだっけ……ヒナ、コーヒー淹れ直して来てくれよ」
すっかり冷めてしまったコーヒーの入ったカップを差し出しながら涼が言った。
「たまには自分でやりなさい」
「そう言わないでさ、な? やっぱヒナが淹れた方が旨いし」
「まったく……こんな時ばっかり口が巧いんだから……」
ぶつぶつ言いながらも、雛子はコーヒーを淹れに席を立った。
結局は本心から嫌だと思っている訳では無いのだ。
「参ったな……これでは敵わん……」
琢磨は軽く微笑むと、少し顔を伏せた。
雛子とこんな風に話す事など、琢磨には出来そうも無い。
「何だよ、好みの煩い奴だな。 やっぱ煎餅の方がいいのか?」
「え? あ、ああ……そうだな、お茶にはやはり煎餅だろう」
「年寄りくせえな……」
ガサガサとポテトチップの袋を漁りながら涼が言うと、琢磨は何かを思い出したように自分の膝をポンと叩いた。
「ところで涼、先程の話の続きだが」
「ん? さっきの続き?」
「きちんと返事をしろという話だ」
「何だよ……その話はいいって」
「良くはない。 ……何故お前は返事をする事を躊躇っているんだ?」
「え?」
躊躇っている……そう言われて、涼は不思議な気持ちがした。
確かにそんな感情が無い訳でもない事に、今、気付いたのだ。
「佐伯がいるからか……?」
「おいおい、俺とヒナはそういう関係じゃないって。 お前まで真みたいな事言うなよ」
「では、何故返事をしてあげないんだ」
「何故って……」
だが、何故かと改めて訊かれると、明確な回答が出来ない。
受け入れてしまう事、それ自体には何の問題も無いし、難しくもないように思える。
断ってしまう事だって、それ程面倒でもないし、むしろそうする事によって色々と煩わされる事だって無くなるのだから結構な事だろう。
けれど、それで利恵という存在が消える事を考えると、何となく寂しいような、複雑な感情が顔をもたげて来るのも事実だ。
「彼女だって、いつまでもそれだけを待っている訳にもいくまい。 お前は相手の時間も使っているのだという事を考えた事があるか?」
「……」
「無為な時間を使わせてはいかん。 人が使える時間は限られているんだ。 無駄に使って良い時間など、一秒たりとも無いんだぞ?」
「……俺さ、正直言ってそういう経験が無いから、何をどう言っていいのか解んねえってのがあるんだよ。 だから……」
「それは俺にも解る。 俺もお前と同様、そういった経験が無いからな。 だが、求められた答えを相手に告げる事に、経験の有無は関係無かろう」
「そう端的にぶった斬られてもなぁ……」
「要はお前の心の方向性が定まっていないという事なのだろう? ならば今ここで、その方向を決めろ」
琢磨は目の前に置かれていた湯飲みを掴むと、グイっと一息に飲み干した。
「……随分と美味しいお茶だな」
さすがに今度は手も震えておらず、お茶の味もしっかりと判った。
それだけ落ち着いているという事だ。
「お袋が前に講師をした大学が、契約農家から取り寄せてるんだって言ってたな。 ま、俺にはどのお茶も同じに感じるけど」
「ほう? さすが環さんは拘っておられるのだな……いや、そういう話ではなくてだな」
「解ってるって。 ……俺も、全然考えてねえって訳じゃねえんだ。 最近じゃ、あいつの事も少しは解って来たからさ」
「そうか……」
「けど、お前に言われてやっと踏ん切りがつきそうだ。 それもいいかなって、ちょっと考えてたしな……」
「お前がどのような返事をするかまでは訊かん。 だが、いずれにしても誠実に対応する事だけは忘れんようにな」
琢磨の言葉に、涼は軽く頷いた。
『それもいいかな』 という涼の言葉の意味は解らなかったが、それでもそれに曖昧な気持ちは感じられなかった。
涼の素直な気持ちがこめられていると感じられたのだ。
「コーヒー淹れて来たよ。 はい、琢磨君にはこれ」
涼の前にカップを置くと、雛子は琢磨の前に菓子盆を置いた。
そこには、あられや煎餅などといった、お茶のお供が入っている。
「解った? 涼ちゃん。 お茶菓子っていうのは、こうやって出す物なの」
「そりゃ客に出す時だろ?」
「琢磨君はお客様です!」
言い合う二人を横目に見ながら、琢磨はあられを一つ口に入れた。
醤油の味が、少ししょっぱく感じた……。