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第十七章

 頭痛と寒気と全身の節々の痛み。 これは実際にフルコースで喰らうと、思った以上の辛さがある。

 それに、喉が痛くて咳も出るし、妙に鼻がムズムズして……。

「ヘ〜ックショイッ!」

「きゃあ! ……もう〜! クシャミする時は口に手を当てるか、顔をそむけるかしなさい!」

 モロにクシャミの直撃を受けた雛子は、手にしたタオルで顔を拭きながら抗議した。

「ワザとじゃねえんだよ……身体が思うように動かねえから間に合わなかったんだ」

「じゃあ、暑いとか息苦しいとか文句言わないで、マスクしたまま寝なさい!」

「病人に冷たく当たるなよ、ヒナ……ゲホゲホ!」

 ベッドの中で涙目になりつつ、涼は情けない声で雛子に訴えた。

 今度は、ちゃんと口に手を当てられたので、雛子に叱られる事は無かった。

「あ〜、参った……」

 滅多にひいた事の無い風邪をひき、涼は心底参っていた。

 普段健康な人が病気になると、未体験の症状に襲われる為に心の準備が出来ず、ダメージが大きいのである。

「あ、体温計鳴ってる。 はい、出して」

 涼の手から体温計を受け取ると、雛子は液晶画面に視線を落した。

「三十九度……下がらないなぁ……」

 普段は寝込むような事は無いのだが、今回の風邪は性質が悪いらしく、涼の熱は一向に下がる気配を見せない。

 医者から解熱剤も貰ってはいるのだが、あまり目立った効果は無い。

 体力があるから余裕があるように見えるが、身体はかなり衰弱している筈である。

 氷枕を敷き、氷嚢をおでこに当ててあるのだが、ここまで高熱が続くなら、腋の下や大腿部にも氷を当てる必要があるかもしれない。

「……なあ、ヒナ」

「ん?」

「あいつ、何か言ってたか?」

「あいつって? ……ああ、利恵ちゃん?」

 一応、利恵の学校の文化祭に、涼は遊びに行くつもりだったのだ。

 利恵にしつこく言われたせいもあるが、翔峡中学での文化祭を内緒にしていた事で、気が引けていた為もある。

 たまには利恵が喜びそうな事をしてやってもいいかな? くらいに考えたのだ。

 しかし、運悪く前日から風邪をひいてしまい、結局行けずじまいだったのである。

 やはり慣れない事をするものではないな……と、涼は心底思った。

「凄く心配してたよ? ねえ、どうしてお見舞い断っちゃったの?」

「恩を売りつけられるのはまっぴらだからな」

「またそういう事言う……」

 利恵だけでなく、琢磨と真一郎の見舞いも、涼は断っていた。

 風邪をうつしては申し訳無いという気持ちからだったが、それをそのまま言うのは照れ臭いのだ。

 当初、利恵の学校の文化祭には行かずに看病しようとした雛子だったが、

「いいって。 そんな事したら、またあいつがうるせえだろうが。 俺は大丈夫だから行って来い」

 と、涼にしつこく言われて、止む無く真一郎と共に行く事にしたのだ。

「あ〜……腰が痛ぇ……」

 熱があるせいだろう、身体中の関節が悲鳴を上げているような感じだ。

 そのせいで寝返りを打つ気力すら湧かない。

 ずっと同じ姿勢でいるせいで、余計に腰が痛むのだ。

「くそ〜……。 ヒナ、何か作ってくれよ。 腹一杯食って体力回復してやる……」

「駄目だよ、涼ちゃん。 身体が弱ってる時にたくさん食べると、消化で体力を使っちゃうから却って良くないの」

「こういう時にだけでいいから、真くらいの強靭な消化器官が欲しいな……」

 雛子がチラリと時計を見ると、十一時を少し回ったところだった。

 薬も飲ませなければならないし、そろそろ昼食の支度をしなくてはいけないだろう。

 本来ならば親がするべき事だろうが、生憎と環が仕事を休めず、こうして雛子が涼の世話をしているのだ。

 ……まあ、それは大して珍しくも無い事だが。

「それじゃ、何か軽い物作って来るから、大人しく寝ててね」

 と、雛子が部屋から出ようとすると、

「ヒナ、リクエスト、いいか?」

 しゃがれた声で涼が言った。

「何?」

「分厚いサーロインと丼飯。 サイドオーダーはベークドポテトに、チーズとサワークリームとチャイブスと刻んだベーコンを乗せてくれ。 それから山盛りのサラダにコーヒー」

「全部却下! わたしの話し、聞いてなかったの? 軽い物じゃなきゃ駄目なの!」

「……じゃあ、コーヒーだけでもいいから」

「風邪ひいてる時のコーヒーは駄目! 昨日も言ったでしょ? まったくもう……」

 雛子は呆れ顔のまま部屋を出て行った。

「ちくしょう、コーヒーも飲めねえのかよ……ゲホ!」

 幸いにも食欲は減退していないので、涼としては栄養補給を最優先事項と考えたのだが、どうやらそれはいけないらしい。

 おまけに大好きなコーヒーも飲めないと来ては、さすがに精神的にも辛い物がある。

 そのショックかどうかは判らないが、意識が朦朧として来たような気がする。

 やがて三十分ほど経った頃、雛子が土鍋を持って部屋へ戻って来た。

「涼ちゃん、身体起こせる?」

 一旦、土鍋を机の上に置くと、ベッドの傍へ折りたたみ式の小さなテーブルを寄せて、雛子はその上に土鍋を乗せた。

「ん……何とか……」

「雑炊作って来たから、食べてお薬飲もう」

「雑炊かよ……」

「……文句言うなら自分でやりなさい」

 涼は不満気に言ったが、土鍋の蓋を開けると途端に表情が変わった。

「すっげえいい匂いがする……」

 しょうがと醤油の匂いが涼の食欲をそそる。

 鶏肉とニラが入っていて、それを卵で閉じてあるのだが、見た目にも美味そうである。

 やはり雛子が作っただけあって見映えがいい。

「腕は通さなくていいね」

 雛子は掛け布団の上に乗せたままになっているドテラを、涼の肩にかけた。

 そして、おもむろにレンゲを手に持つと、

「フーフーしてあげようか?」

「ふざけんな……貸せよ」

 真一郎なら自分から頼みそうだが、風邪で弱っていてもそこは涼の事、そういう言葉には乗らないのだ。

 雛子はクスクスと笑いながら、涼にレンゲを手渡した。

 暫し無言のまま黙々と食べ、薬を飲んだ後、涼は少し眠ると言ってそのまま目を閉じた。

「さて、じゃあ片付けちゃおうかな」

 空になった土鍋を持って、雛子は部屋を出て行った。

 とりあえず一旦は自宅に戻るとして、この後はどうしようか?

 夕飯を作りに来るのは勿論だが、掃除機などをかけて騒がしくするのはどんなものだろうか?

 二階にはそれほど大きく聞こえないだろうけど、せっかく眠っているのに起こしてしまっては良くない。

 今の涼は静養するのが一番の急務なのだから。

「今日のところは、わたしも大人しくしてる方がいいかな?」

 幸い今日はお天気も良いので、洗濯物を干しっ放しでも心配無い。

 土鍋を洗いながら夕食の献立を考えつつ、雛子はとりあえず各所の乾拭きだけでもしておこうと思った。


 そして、時間は静かに流れた……。



 何となく良い匂いを嗅いだような気がして、涼の意識が徐々に現実の世界へ戻って来た。

 妙に身体が軽いような感じだ……今まで感じていた辛さが薄らいでいる。

 それに、何だか心が落ち着いているような気がする……とても寝心地が良いのだ。

「……?」

 小さい頃に、これと同じ感覚を味わった事がある。

 やはり風邪をひいて寝込んでいた時だった。

 その時は、確か……。

 柔らかい物を感じてそちらに顔を向け、やがて薄っすらと開けた目には、暗闇だけが忍び込んで来た。

「真っ暗だ……雨戸がしまってるのか?」

 手探りで、頭の方にあるスイッチを探す。

 ベッドの縁に、小型のライトを取り付けてあるのだ

 小さなスイッチを探し当てて押すと、その小ささに見合う小さな音がして、同じくらいに小さな明かりが灯った。

 そして、その、ほの白い中に映し出されたのは……。

「……何やってんだ、こいつは」

 隣りですやすやと眠る利恵の顔だった。

 さすがにまだ完全復活していない為、いつものようにベッドから飛び起きる事も出来ず、

「起きろよ……ったく、人が具合悪くて寝てる時に……」

 涼は利恵の肩を突付くように揺さぶった。

 だが、完全に深い眠りに落ちているのか、利恵は全然目を覚まさない。

「随分寝たような気がするなぁ……今、何時だ?」

 起こすのを諦めた訳では無いが、とりあえず現状を確認するのが先だ。

 上半身だけ起こして、枕元に置いてある腕時計に目をやると……。

「……一時?」

 七時に夕飯を摂ったのだから、昼である筈がない。

 時計が狂っていないのであれば、今は深夜の一時である。

 と、その時、部屋のドアが静かに開いた。

「あ、涼ちゃん、起きてたの?」

「ヒナ……こいつ、何でここにいるんだ?」

「やっぱり心配で、家でジっとなんてしてられないんだって」

「いや、そうじゃなくて、何で俺のベッドに潜り込んでるのかって訊いてんだよ」

 雛子はクスクス笑いながら、洗面器を持って涼の傍まで近付いた。

「利恵ちゃん、ずっと涼ちゃんに付きっ切りだったんだよ。 汗拭いたり、氷嚢の氷やら氷枕やら取り替えたり……凄く一生懸命だった。 お蔭で他の用事が出来たから助かっちゃった」

「……」

 そのせいで疲れて、こんなにグッスリと眠っているのか……と、涼はちょっと申し訳無いような気持ちになった。

 いくら体力があると言っても中学生の女の子だ、疲れて当たり前だろう。

 ましてや病人の世話など、そんなに何度もした事がある訳も無い。

「お家の方には、わたしの家に泊まるって言ってあるから、心配しないでね」

「だ、誰が心配なんぞするかっ!」

「シーッ! 利恵ちゃん、起きちゃうでしょ」

「起こさなきゃ駄目だろうが。 こんな所で寝かせて、風邪がうつったらどうすんだよ」

「ん〜……そしたら、涼ちゃんが看病してあげないとね。 今日はずっと面倒見てくれてたんだから」

「そういう事じゃなくて……!」

「シーッ!」

 ちょっと責めるような雛子の視線に、涼は黙らされてしまった。

 どうも子供の頃から、この視線には弱いのだ。

「ところで、どう?」

「何が?」

「体調。 熱、まだあるかな?」

 言われてみると、まだ若干のダルさは感じるが、酷いとまでは行かない程度だ。

 関節の痛みも殆ど無いし、喉の痛みも和らいでいる。

 涼がそう言うと、

「じゃあ、今夜一晩グッスリ眠ったら大丈夫かもね」

 雛子は微笑んだまま、部屋を出て行こうとした。

「お、おい、ヒナ! こいつ、どうすんだよ!」

「変な事しちゃ駄目だからね? また風邪が酷くなっても知らないよ?」

「アホか! 問題はそこじゃねえだろ!」

「一晩くらいいいじゃない。 そのまま寝なよ」

「あのな……!」

「いいから寝かせてあげて。 利恵ちゃん、本当に疲れてるんだから。 わたしは一階にいるから、何かあったら内線で呼んでね。 じゃ」

 そう言うと、雛子は涼のいう事になど耳を貸さないまま、ドアを閉めてしまった。

 ベッドの横の折りたたみ式テーブルの上には、もう用済みになってしまった洗面器とタオルが置かれたままになっている。

「……」

 涼が困ったような視線を落しても、利恵は相変わらず穏やかな顔で眠ったままだ。

「何を幸せそうな顔してやがんだ、こら」

 涼が鼻を摘むと、利恵は少しだけ眉間に皺を寄せて、鬱陶しそうにその手を払った。

 だが、依然として目を覚ます気配は無い。

 少し冷えたのか、くしゃみをしそうになって、涼は慌てて自分の鼻を抑えた。

「ったく……しょうがねえな」

 そのまま布団に潜り込むと、少しだけ利恵の方へ寄って、掛け布団から利恵が出ないようにした。

 何の警戒心も無いまま眠っている利恵の顔を暫く眺めると、

「……ありがとよ」

 一言だけ言って、涼はクルリと背中を向けた。

 その後、数分もしない内に再び眠りについた涼は何故か、幼い頃に雛子と一緒に眠った時の夢をみた……。

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