第十五章
確かに真一郎の耳にはその音が聞こえていた。 けれど、どうしてもそれが現実の物とは思えなかった。
……いや、信じたくなかったと言った方が正しいだろう。
だから今もこうして、
「嘘だ……嘘に決まってる! こんな事がある訳がねえ!」
と、壁にへばり付くようにして、必死に抵抗しているのだ。
だが、そんな物が通用する程、現実は甘くない。
「真、いつまでそうしているつもりだ? もう予鈴が鳴ったのだから、早く教室へ行け」
「よれい? 何ですか、それは。 食べられますか?」
真一郎は本当にキョトンとした顔で言った。
しかし、それに対する琢磨は、
「……新学期早々、しかも朝からつまらん冗談に付き合わせるな」
と、眉間の中央に皺を寄せている。
そう、今日から新学期。 夏休みは昨日で終ったのだ。
なのに真一郎ときたら、朝から往生際の悪い事を言い続けている。
その隣りには涼もいるのだが、さすがに真一郎のような真似はしていない。
「なあ〜琢磨ぁ〜……お前だって普通に授業を受けてるより、休みの方がいいだろ?」
「どちらにも良い部分がある。 一概には言い切れん」
「自分の心に嘘を吐くな! 普通に学校に来るより、休みの方がいいに決まってる!」
「誰も彼もお前と同じだと思うな。 さあ、いい加減に現実を直視しろ。 時間はお前が考えているより、ずっと早く流れているんだ。 無駄にするな」
少し疲れたような感があるが、それでも琢磨は毅然として真一郎に言い放った。
「俺様は信じねえぞ! あんなに楽しく、充実した日々が戻って来ないなんて……もう終っただなんて! また一年も離れ離れになるなんて!」
「シチュエーションによっちゃあ良い台詞に聞こえなくも無いけど、ここでこいつが言うと妙に腹が立つな……」
「涼、つまらん分析などしとらんで、さっさと連れて行け。 夏休みボケした奴がウロウロしていると目障りだ」
さすがに琢磨は気持ちの切り替えがちゃんと出来ているようで、昨日まで夏休みだったなどとは微塵も感じさせない。
もっとも、ずっと精神修行していたと言うのだから、それも当然かもしれない。
規則正しい生活をしていた者と、そうでない者の差がハッキリ出ている。
「琢磨には解らんのか!? 愛しい人との別れにも似た、この切ない感情が!」
「皆目見当も付かん。 特に、お前が言うと戯言にしか聞こえん」
「何と情緒の無い奴……見損なったぞ!」
「そんな下らん事で引き合いに出されては、情緒もさぞ迷惑だろうな。 さあ、教室へ戻れ。 俺はもう付き合わんからな」
そう言うと、琢磨は会話を切り上げて、さっさと教室の中へ入ってしまった。
きっと、この場で真一郎を説き伏せるのが面倒になったのだろう。
……いや、不可能だと悟ったのかもしれない。
「くそ〜……。 悔しがらせてやろうと思ったのに、全然相手にされなかったぞ。 遊んでた俺の方が負け組みたいだ……」
本気で悔しがる真一郎に、涼は笑いながら、
「琢磨と俺達じゃ精神構造から違うんだよ。 あいつは鍛えてるからな」
と言った。
まあ、真一郎の言いたい事も何となく解るような気がするのだが、人にはそれぞれ性格もあるし、どちらが正しい姿かなど決められはしないだろう。
「若者らしくないっ! あいつはもっと感情を表に出すべきだ!」
「お前みたいに出しっ放しでも困るだろ。 ほら、行くぞ」
まだ不満気な真一郎を引き摺るようにして、涼も教室へ向かって歩き出した。
「まったく……真にも困ったものだな」
自分の席に座ると、琢磨は 『ふう……』 と静かに溜息を吐いた。
「どうしたの? 琢磨君。 何だか元気無いみたいだけど」
「え?」
急に声をかけられて少し驚いたように琢磨が顔を上げると、そこには雛子が立っていた。
「あ、ああ……さ、佐伯か」
「何かあったの?」
「い、いや、別に何も無い。 し、真の奴がつまらん事を言っていたので、少し疲れただけだ」
以前に比べれば大分話せるようにはなったものの、やはりまだ多少どもってしまう。
しかし、他の女子とは殆ど喋れないのだから、雛子に対してだけは、かなり進歩したと言えるだろう。
「真君? 何の話だったの?」
「な、夏休みの楽しさを俺に説こうとしていたらしいが、逆に夏休みが終わった事を再認識して寂しがっていた。 ……時々、奴は理解に苦しむ」
琢磨は再び溜息を吐きつつ、提出する宿題のテキストを鞄から出し始めた。
勿論、琢磨だって歳相応に遊びたいと思う気持ちが無い訳ではない。
ただ、辞めようと思えばいつでも辞められる事を自分の意思で続けているのだから、それを途中で投げ出してしまうような真似をしたくないのだ。
「そう言えば、琢磨君はずっと禅寺に行ってたんだよね?」
「あ、ああ、そうだ。 こ、子供の頃からやっている事だからな、もう当たり前になっている」
「これからもずっとそうなの? 毎年?」
「い、いや、そうとも限らん。 先日、祖父とも話したのだが、来年からは自分の時間も作る事にした。 ……真とも約束したからな」
約束……来年は一緒に海に行こうという約束。
冬休みにも何か企画していると真一郎は言っていた。
それを思い出した琢磨は、自然に口元に笑みを浮かべていた。
「約束? ああ、遊びに行こうって?」
「う、海に行こうと誘われたんだ。 こ、今回は断ってしまったが、俺も海で泳ぐのは好きだからな。 来年が楽しみだ」
琢磨がそう言うと、何故か雛子はクスクスと笑った。
「な、何だ、佐伯。 俺は何かおかしな事を言ったかな?」
「ううん、違うの。 何だかんだ言ってても、やっぱり仲がいいんだなと思って」
「誰と誰がだ?」
「琢磨君と真君」
「……そうか?」
それ程意識した事は無いが、周りからはそう見えるのだろうか?
それが良い事なのか、それとも憂慮すべき事なのか……自分の席に戻った雛子の背中を見ながら、琢磨は暫し考え込む事となった。
と……。
「たぁ〜くまくぅぅ〜ん」
「うわあっ!?」
いきなり耳元で囁かれ、琢磨の全身に鳥肌が立った。
普段ならば背後から近付く気配など簡単に察知出来るのだが、雛子と話した直後だった為、注意力が散漫になっていたようだ。
「な、何をやっとるんだ真! 教室に戻ったのではなかったのか!?」
「いや、お前に言い忘れてた事があったもんでさ、戻って来た」
「後でも良かろう? もうすぐ先生が来てしまうぞ?」
「お前さ、今日は時間あるか?」
琢磨の言葉などどこ吹く風といった感じで、真一郎は続けた。
これは意見するだけ無駄だと悟った琢磨は、取り敢えず真一郎の用件を聞いてしまおうと思った。
その方が進行が早い。
「ああ。 今日は稽古は休みだし、特に用事がある訳でもないからな」
「んじゃさ、帰りに 『らんぶる』 行こうぜ」
「それがお前の用事か?」
『らんぶる・ろっく』 に立ち寄る事など、今更用事と言う程の事ではないだろうに……と琢磨が言おうとすると、
「違う違う、ちっと相談があんだよ。 あ、ところでお前さ、リズム感はいい方か?」
ニコニコしたまま真一郎は言った。
「どうだろう? 特に考えた事も無かったが……ある程度の感覚は備わっていると思うぞ? リズムを取る事は、剣道でも必要な場合があるからな」
「それを聞いて安心した。 では、俺様は消えるとしよう……ふっふっふ……」
そう言うと、真一郎は身を低くして、何故か壁伝いに教室を出て行った。
それを見送った琢磨は、何だかやたらと疲労感に襲われている自分を感じていた……。
始業式と言えば、全員が元気な顔を見せ、宿題を提出してしまえば、後はやる事など無いのが普通である。
(もっとも、二学期制をとっている学校では、この限りではないが)
みんな心ここにあらずといった感じで、帰りはどこに寄ろうかなどという話で盛り上がっている。
中には宿題を終わらせる事が出来なかった者もいるようで、その処理に奔走する者もいるし、休みの思い出に浸っている者もいる。
まだ夏休み気分の抜け切っていない生徒達にとって、今日から学校が始まるなどという事は意識の片隅にしかないのだ。
いつまでも夏休み気分でいたら駄目だという担任の言葉など、耳には入っても頭までは行かない。
「やれやれ、みんな浮付いているな」
琢磨は帰り支度をしながら、クラスメイト達の様子を見て思った。
そうは言っても、急に気持ちの切り替えを迫られて 「はいそうですか」 と切り替えられる程、みんな人生を生きていないのだから仕方ない。
そんな事を考えているから真一郎に 『ジジむさい』 と言われてしまうのだが、琢磨の中ではそれが通常の思考なのだから、これも仕方ない。
「さて……真の奴、一体何の用があると言うんだ」
稽古の無い時には真っ直ぐ帰宅しようと思っていた琢磨だったが、大事な用があると言うのでは顔を出さない訳にもいかないだろう。
琢磨は鞄を手にすると、机と椅子のポジションをきっちりと直してから教室を出た。
校庭を横切って敷地から外に出ると、そこには生徒である事を忘れてしまった者達がたくさん歩いている。
これからどこへ行こうとか、何をしようとか、そういった類の会話が琢磨の耳にも届いて来る。
思えば自分もその内の一人なのだと気付くと、
「……そう言えば、俺はどうして素直に真の言う事を聞いているんだ?」
歩きながら琢磨は考え始めた。
本来ならば学校帰りに喫茶店に立ち寄る事などは校則で禁止されている。
勿論、琢磨は校則を破る事を良しとはしていない。
にも拘らず、琢磨は敢えて校則違反を犯し、涼や真一郎と行動を共にする事が多いのだ。
琢磨自身も、それが何故なのかよく解らなかった。
いつもなら、そんな真似をする連中には意見して、そういった行為をやめさせている筈なのだが……。
「不思議と、あいつらにはそういった事を言う気にならんな。 それに……」
一緒にいる事が楽しい。
確かに涼はまだしも、真一郎にはイライラさせられる事が多いのだが、そういった事を差し引いても余りある程に楽しいのだ。
涼も真一郎も、ただの悪ガキとは違った何かを持っているように思えてしまう。
ただ、二人は学生として埒外な事もするし、決して褒められた行動ばかりでない事も事実だが……。
「お、来た来た。 琢磨、こっちだ」
琢磨が 『らんぶる・ろっく』 のドアを開けると、すぐに真一郎がそれに気付いて、奥の席から手を振った。
その向かいの席には涼の背中が見える。
「それで、相談というのは何……どうした涼、何かあったのか?」
真一郎の隣りに腰を下ろした琢磨は、涼の顔を見て言った。
「……何でもねえよ」
「そこまで不機嫌そうな顔をしていて、何でもない事は無かろう?」
「お前もすぐに俺と同じ顔になるよ、きっと……」
「……?」
「ほい、琢磨にプレゼントだ」
涼の言っている事が理解出来ずにいる琢磨の目の前に、黒い棒が二本差し出された。
当然、それを差し出したのは真一郎なのだが、何故かニコニコと機嫌良さそうに笑っている。
「真、これは何だ?」
「これか? スティックって言ってな、ドラムを叩く時に使う物だ」
「ほう? こういう形をしているのか。 実物を見たのは初めて……ん? どうしてこれを俺にプレゼントするんだ?」
「今日からお前が、これを使うからだ」
「……はあ?」
訳が解らず首を傾げる琢磨に向かって、
「……バンド組むんだってよ。 つーか、もう組んでる事になってるんだよ、俺達で」
相変わらずの不機嫌さで涼が言った。
その態度から察するに、きっと涼もこの場で突然聞かされたのだろう。
「組んでいる事になっている……? 涼、どういう事だ?」
「文化祭でバンドコンテストがあるの知ってるだろ? あれに出るんだとさ」
「出るって……俺達がか!?」
「もう登録済みだってよ。 真の野郎、夏休み中に生徒会長に直接申し込んだんだと。 ……つーより、無理矢理捻じ込んだんだろうな」
既にバンドは組まれていて、出場登録済み。
そして今日から使えと、スティックがプレゼントされたという事は……。
「ちょ、ちょっと待て! 俺はドラムなど触った事すらないし、ましてや人前で演奏など出来ん!」
男子だけならいざ知らず、そういったイベントならば女生徒だって大勢見に来るだろう。
そんな多数の視線に晒されながら不慣れな事をやるなど、琢磨の想像を絶する行為だ。
「俺は辞退させてもらうぞ!」
「もうガッチガチに予定組まれちまってるから、今更出ねえなんて言ったら生徒会から吊るし上げ喰らうぜ。 ……諦めろ、琢磨」
涼の方はとっくに観念してしまっているようで、特に真一郎に反対する様子も見られない。
まあ、言ったところで無駄だろうけれど……。
「し、しかし……!」
「二ヶ月もありゃ何とかなるって、大丈夫大丈夫」
焦る琢磨に、真一郎は呑気な顔をして言った。
本当に何とかなると思っているのか、それとも単に何も考えていないのか……その顔色からは窺い知る事は出来ない。
「たった二ヶ月で何が出来ると言うんだ! そんな短期間では、基本的な事を覚えるだけで精一杯だぞ!」
「お? やる気満々じゃねえの琢磨、いいねいいね〜」
「俺が言っているのは、そういう意味合いの事ではないっ!」
「練習場所は体育館を抑えてあるから安心しろ。 楽器も借りられるからタダだ。 心置きなく練習しような、琢磨」
「だから! どうしてお前は俺の話しを聞かないんだっ!」
「ほい、CD。 これ聴いてイメージトレーニングしてくれ」
「話を聞けと言っとるだろうがっ!」
だが、琢磨が何を言おうと真一郎が聞く耳を持っている筈も無く、 結局、誰かに迷惑をかけてしまうよりマシだと、琢磨はそれを承諾する事になってしまった。
「……ただいま」
「お帰りなさい、琢磨」
力無く玄関の戸を開けた琢磨を、琢磨の母、華末砂 (かずさ) が出迎えた。
だが、いつもの琢磨と様子が違う事に、少し戸惑っている。
「あら、どうしたの? 何だか元気が無いみたいだけど……学校で何かあったの?」
「あった……と言えば、あったのかな? 学校でじゃないけど……」
「何?」
「友達に、文化祭の出し物を一緒にやろうと誘われたんだ」
畳敷きの居間へ入ると、琢磨は制服を脱ぎながら言った。
だが、その動作は緩慢で、疲れているような印象を与える。
「まあ、素敵じゃない。 それで? どんな出し物なの?」
「バンドをやろうと言うんだよ。 でも、俺は今まで楽器なんて触った事も無いし、出来ないと断ったんだけど、結局、引き受けざるを得なくて……」
こめかみを押さえつつ、琢磨はやれやれといった感じで言った。
「あら、いいじゃないの。 やってごらんなさい?」
琢磨の制服をハンガーに掛けながら、華末砂は言った。
「もしかしたら意外な才能が眠っているかもしれないでしょ? それに琢磨は器用ですもの、きっとすぐに上手に出来るようになるわ」
「お母さんは気楽に言うけど、たった二ヶ月しか練習期間が無いんだよ? いくら何でも……」
テーブルの前に正座すると、琢磨は溜息混じりに言った。
大まかに性格は掴んだと思っていたのだが、やはり真一郎の行動は読み切れない。
きっと文化祭当日にも何か企んでいるだろうと思うと、少しばかり不安に似た気持ちも湧いてしまう。
「こんな状態で何かしたって上手く行く筈が無いよ。 まったく、あいつは……」
「……失敗してもいいじゃないの」
華末砂が笑いながら言うのを見て、琢磨はポカンとした表情になった。
「お母さんはね、何でも挑戦してみたらいいと思うの。 琢磨くらいの年代の失敗は、後でいい思い出になるものよ? そりゃあ成功した方がいいだろうけど、お友達と何かに夢中になったっていう記憶は、いつまで経っても色褪せない物だしね」
「でも……」
やるからには上手くやりたいのが人情である。
例えそれがお遊び程度の物だったとしても、上手く行くのと行かないのとでは大きな差がある。
「誘ってくれたのは真一郎君?」
「うん。 知り合って半年近く経つのに、未だにあいつだけは読み切れない」
それを聞いて、華末砂は優しげな笑みを浮かべた。
「困ったもんだよ、本当に……。 涼も巻き込まれて困惑している様子だった」
「でも、琢磨だって一緒にやりたいんでしょう?」
「え?」
華末砂の言葉に、琢磨は驚いたような顔をした。
一緒にやりたいと思っている? 自分が?
「だって、本当に嫌なら琢磨は断る筈だもの。 涼君も同じじゃないのかな?」
「いや、それは、俺が断ったら迷惑をかけてしまう人達がいるからで……涼だってそうだと思うよ」
「それは琢磨が自分を納得させる為に考えた理由でしょ?」
華末砂はクスクスと笑いながら、琢磨の向かいに正座した。
「剣術を始めた時にもそうだったものね。 お父さんは身体が弱くて出来ないから、僕が代わりにやるんだって言って……」
「……」
「でも、本当は琢磨自身が好きだから。 だから始めたし、続けているんでしょう?」
「……」
確かにそうなのかもしれない。 嫌ならいつだって辞められるのだ。
自分の時間を削り、同年代の者達が当たり前にしている事もせず、ただ稽古に打ち込んでいるのは、取りも直さずそれが好きだからだろう。
決して祖父に強要されたからではない。
「琢磨が自分の事を 『僕』 じゃなく 『俺』 って言うようになったのは、小学校に入学してすぐだったかしら?」
「……うん、多分そうだと思う」
「決意の表れだって、お父さんは言ってたわね」
「決意の表れ?」
「今までの自分とは違う自分になるんだ……そういった感情が入ってるんだろうって。 お父さん、嬉しそうだったわ」
小学校に入る前の琢磨は少々引っ込み思案で、周りに溶け込むのが苦手だった。
優しいと言うよりは臆病で、何に対しても消極的な面が見られたものだ。
それが剣術の稽古を始めてから少しずつ変わって行った。
何か一つでも自信のある物が出来ると、人はその態度から変わって行くのだ。
「最初は無理だって、お母さんは思ってたんだけどね。 琢磨には剣術なんて向いてないって」
「うん……自分でも、そう思っていたよ」
「でも、全然そんな事無かった。 稽古をしている時の琢磨は、まるで別人みたいに活き活きしてるもの。 ……隔世遺伝なのかしらね?」
琢磨の父、翔磨は、元々身体の弱いせいもあって、剣術どころか運動はからっきし。
代わりに芸術方面に才能を発揮し、その絵はなかなかの評価を得ている。
手のかからない、大人しい赤ん坊だった琢磨を見て、将来は翔磨と同じ芸術方面に進むだろうと華末砂は考えていた。
だが、天賦の才と言うべきか。 三歳の誕生日に祖父の弦磨から贈られた竹刀を、琢磨は見事に振って見せたのだ。
恐らく祖父が木刀を振る様を見て、自然に覚えてしまったのだろう。
「やってみなければ判らない……ね? 思い切ってやってごらんなさい」
「……そうだね」
あれこれ言い訳する前に、やってみればいいのだ。
笑顔で言う華末砂を見て、琢磨は静かに頷いた。
「とは言うものの……」
翌日から始まった練習で、やはり当然の如く、琢磨は苦労していた。
「両手両足をバラバラに動かすなんて、なかなか出来るものでは……」
何とか真一郎に言われたようにしようとするのだが、そうそう簡単に出来る筈も無く、練習場所として借りている体育館には、何ともギクシャクとしたドラムが響いている。
どうにか基本的なリズムは刻めるようになったものの、それ以外の事をしようとすると途端に手足が付いて行かなくなってしまうのだ。
「待て待て待て、ストップだ琢磨! そこは三連だよ」
「え? 三連?」
一応、前以って一通りの事は教わっているが、それですぐ出来れば苦労は無い訳で……。
「スネアだけで回したって駄目なんだって。 フロアタムも使えよ」
「そう言われても、そこまで手が回らん」
「そこを回すのがドラマーの務めだ。 いいか? もう一度やって見せるから、頭に叩き込んで身体にフィードバックしろ」
「簡単に言うな……」
琢磨からスティックを受け取ると、真一郎は軽く腕を回して 『ドドドン』 と連続してリズミカルに叩いた。
琢磨の物とは違って、その音はスムーズに発せられている。
「この後シャッフルが入るから間違えるなよ? タッカタッカと跳ねるように叩くんだからな」
「シャ……シャッフル?」
他にも真一郎の口からは、 『裏打ち』 『キメ』 『二拍三連』 と、琢磨の聞いた事の無い言葉がポンポン出て来る。
それを覚えるだけでも苦労しそうだ。
「おい真、フュージョンじゃねえんだから、そんな刻み使わなくていいだろ?」
少し狂ってしまったギターの音を合わせながら涼が言った。
「エイトビートの基本リズムだけでいいんじゃねえか? それに少しロール混ぜりゃ、それなりに聞こえるしさ」
「いやいや、琢磨の見せ場も作ってあるんだから、そこでドーン! と派手に魅せたいじゃん」
「見せ場って……ドラムソロやらせんのか?」
「勿論! いまいち地味で目立ってない琢磨を前面に出す、いい機会だからな」
琢磨の為を思っているのか、それとも単に面白がっているだけなのか。
涼としては後者だと受け取ったのだが、当の琢磨はそれどころではないようで……。
「ええっと……ここで右手でこちらを叩き、すかさず左手でこちらを叩く……」
シャドーボクシングならぬシャドードラミングの真っ最中だ。
どうやらかなり真剣にやっているようで、涼達の会話も耳に入っていないようだ。
「それに合わせてバスドラを……っと、どうもここでタイミングがずれるな……」
だが、何事も一朝一夕には行かない物のようである。
「これは家でも反復練習の必要があるな。 しかし、ドラムセットなど持ち歩けんし……真、何か練習方法は無いか?」
「ああ、それなら電話帳でも雑巾でも、それをドラムに見立てて叩きゃいいんだよ。 配置は頭に入ってるだろ?」
「そんな物でいいのか?」
「それが基本だ。 恵まれた環境でやってる素人なんていないぜ」
要は思い通りに手足が動かせればいいのだから、何もフルセットのドラムを用意する必要は無いのだ。
どうも練習する対象が無いといけないような気がしてしまうのが素人の思考らしい。
「おっと、もうこんな時間か。 済まん、俺は稽古に行かねばならん」
「何だ、もうか?」
「済まんな真、剣術の稽古はサボる訳にはいかんのだ。 ドラムの練習は家でやっておく」
「ま、しょうがねえか。 琢磨の祖父ちゃん、おっかねえからな」
以前、琢磨の稽古を見に行った時、いつもの調子で悪戯心を起こした真一郎は涼とチャンバラを始めてしまい、弦磨にどやしつけられた。
おまけに、
「そんなに竹刀が振りたければ、ワシが相手をしてやろう」
と言われ、足腰立たなくなるまで打ち込みをさせられたのだ。
当然、真一郎の竹刀が弦磨に当たる事などある筈も無く、外れる度に一撃を入れられ、全身アザだらけになったのは言うまでも無い。
だが、単にお仕置きの為だけにやった訳ではなく、どうやら真一郎に何かを感じたらしい弦磨は、幾通りかの技を見せたりもしていた。
「あん時は三日間、身体中痛くて、便所に行くのもしんどかったからなぁ……」
「あまり冗談の通じる人ではないからな、今後は気を付ける事だ。 ではな」
スティックとペダルを鞄に収めると、それを小脇に抱えて、琢磨は軽く手を上げながら体育館を出て行った。
「う〜ん……三人合わせて練習出来る機会は、かなり制限されそうだな。 何か考えとかねえと」
「おい真、それよりまだ詞が出来てねえだろ。 そっちはどうすんだ?」
「ああ、それはお前が書け」
「俺がやんのかよ!?」
「当たり前だろ? 俺は曲を作ったんだから、歌詞を作るのはお前の役目だろうが。 たったの三曲だ、ちゃちゃっと書いてしまえ」
「ならお前が書けよ……」
とは言っても、真一郎が一度言い出したら聞かない事は涼も承知している。
他の人間ならともかく、涼の都合など真一郎の頭の中には入っていないのだ。
「涼にはボーカルもやってもらうからな」
「何でだよ!」
「琢磨はドラムで手一杯だし、俺様は他に色々とやる事があって忙しいのだ。 それに、歌詞を書いた奴が歌った方が気持ちがこもる」
「何だかんだ言い訳してるだけで、ハナから俺にやらせるつもりだったんだろ……」
「おお、いつに無く鋭い。 解ってんなら文句言わずにやれ」
「まったく……」
だが、真一郎に書かせたら、歌詞の内容がお笑いの方向へ行ってしまう確率が高い。
メロディラインは悪くないのだから、それではあまりにも曲が不憫である。
「取り敢えず今日はこれでお開きだな。 明後日には琢磨も時間が取れるらしいから、それまでに一つだけでも考えとけよ、涼」
「はいよ……」
「それで、涼ちゃんが歌詞を考えてるんだ?」
おかずを盛り付けた皿をテーブルの上に置きながら雛子が言った。
独り言ではなく、テーブルの向かい側には涼が難しい顔をして座っている。
今夜は環が地方へ出ている為、雛子が宇佐奈家の夕食を作っているのだ。
「ああ。 まったくよ……真の野郎、全部段取り組んじまってから言うんだからなぁ……」
そう言うと涼は、何行か走り書きをした紙をクシャクシャと丸めてゴミ箱へと投げた。
帰宅してからずっと考えているのだが、なかなか良い歌詞が浮かんで来ないのだ。
幾つかのフレーズを書いては消し、また書いては丸めてしまうという行為を繰返すばかりだ。
「あそこまで組まれちまってたら、断るに断れねえよ」
「涼ちゃんの性格、しっかり掴んでるね」
雛子はクスクスと笑いながら言った。
事前に相談などしようものなら、涼はさっさと逃げてしまうだろう。
どうにもならない状況を作り出してからなら、余程の事でも無い限り涼は引き受ける。
無愛想ではあっても、基本的にはお人好しなのだ。
「なあヒナ、何かいいアドバイスくれよ。 全然フレーズが浮かばねえんだ」
「そう言われても……わたし、歌詞なんて考えた事無いし」
「お前、ドラマの主題歌とか流行の歌とかって、よく聴いてるだろ? そういうところからでいいからさ、引っ張って来てくれよ」
「……それって盗作じゃない。 駄目だよ、ちゃんと自分で考えなきゃ」
「人聞きの悪い事言うなよ。 インスパイアと言ってくれ」
「涼ちゃん、言い訳が真君化してるよ? さ、片付けて夕飯にしよう。 考えるのはその後ね」
「そうだな、取り敢えずエネルギーを補給するか」
いそいそと食器を準備する涼を、雛子は楽しそうな表情で見つめている。
小学生の頃、涼には殆ど友達がいなかった。
毎日のように喧嘩してばかりで、ちっとも自分から折れようとしないのだから、それも当然である。
でも、中学生になった途端、二人も親しい友人が出来た。 これは驚くべき進歩と言ってもいいだろう。
しかも、涼にも負けないくらいクセがある二人だというのに、コンビネーションもなかなか良い。
それに……。
「ねえ、涼ちゃん」
食事が始まってすぐ、雛子が口を開いた。
「ん?」
「海に行った後、利恵ちゃんと会った?」
「……何で楽しい夏休みに、必要以上にあいつの顔を見なけりゃならんのだ」
「え? だって……」
勢いに押されたとは言え、ハッキリと断ってもいないのだから、現段階で涼の恋人の座に納まっているのは利恵である。
雛子はそう考えていたのだが……。
「いいか、ヒナ。 ちゃんと考えるとは言ったけど、俺はまだあいつと付き合うとか、そういった事は言ってないんだからな」
「でも、それじゃ……」
「いいから! もうこの話はすんな、解ったな? それに、今はそれどころじゃねえんだ」
涼は再びテーブルの上に紙を広げると、歌詞の走り書きを始めた。
「食べ終わってからにしなよぉ」
「時間が惜しい。 明後日までに一つは書かなきゃなんねえんだ。 間に合わなかったら、真に何言われるか判ったもんじゃねえからな」
「もう……」
早い話しが、これ以上利恵の話題を出されるのが嫌なのだ。
「一緒に食べてるのに、何だか一人で食事してるみたいな気がする……」
「考え過ぎだ。 俺も目の前で食ってる」
「喧嘩してる訳でもないのに、顔も見ないで食べるのって嫌だなぁ……」
「見たけりゃ勝手に見てろ」
「わたしだけ見てたってしょうがないと思う……」
「ヒナ、おかわり」
雛子の顔を見ないまま茶碗を差し出す涼に少々呆れながら、雛子はこれでもかという程ギッチリご飯を詰め込んだ茶碗を渡すのだった。