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第十三章

 どこまでも澄んだ青を湛えた空に、混じりっ気無しの純白の雲が気持ち良さそうに浮かんでいる。

 波は穏やかに、ゆったりと寄せては返し、そして……。

「細かい事をごちゃごちゃ言う必要など無い! 俺様は、これより海へと突入するのだ!」

 真一郎は 『情緒』 という言葉とは無縁のようだ……。

 チェックインまでにはまだ時間がある為、それまでちょっと海で遊ぼうという事になったのだが、浜辺近くの駐車場に到着するなり、真一郎はいきなり海へ入ろうとしている。

 出発前に水着を着込んでいたらしく、ジーンズとTシャツを脱いだだけで準備完了。

 散歩に出かける前の犬のように気持ちが逸っているのが、手に取るように判る。

「駄目だよ真君、ちゃんと身体をほぐしてからじゃないと。 途中で足でも攣ったらどうするの?」

「大丈夫だよ雛子ちゃん。 俺様の鋼の筋肉は、そんな事くらいじゃビクともしないって」

 そう言って、真一郎は腕を曲げて力こぶを盛り上げて見せた。

 確かに、鍛え上げられたその肉体は、かなり頑丈そうである。

 打撃に対してならば、それは有効だろう。

「ヒナちゃんの言う通りだよ、真君。 ずっと車に乗ってたんだから、まずは少し身体を動かさないと。 いきなりじゃ対応出来ないんだから」

「そんなもんは気合で乗り切る!」

「乗り切れないって……。 いざとなったら、そんな気合なんてどこかへ行っちゃうんだから」

 運動する前の準備をおろそかにするのがどれ程危険な行為か、利恵は知識として知っているし、実際に目にしてもいる。

 だから尚更、真一郎の行動を黙って見ていられないのだ。

「ならば! 俺様が、それを乗り切った初の男になってみせよう!」

「馬鹿な事言ってねえで、黙ってこいつの言う通りにしろっつーの」

 ペシ! っと真一郎の後頭部を叩き、真一郎と同じくトランクス型の海パン姿の涼は、その場で軽く屈伸を始めた。

「何だよ。 やけに真面目だな、涼」

「運動関係については、こいつの言う事が正しいからな。 それに、何かあってからじゃ遅いだろ?」

「ふむ……」

 確かにそれは一理ある。

 涼にまで言われると、真一郎としてもこれ以上は利恵の忠告を無視出来ない。

「しゃあねえ、いっちょ真面目にやるとすっか!」

「そうそう。 別に大した手間じゃねえんだから」

 そんな涼の事を、利恵は 「う〜ん……」 と言いながら腕組みして見ている。

 何だか不思議な物でも見るような感じの顔付きである。

 そんな利恵の視線に気付いたのか、

「……何だよ、俺の顔に何か付いてるか?」

 涼は顔を上げて言った。

「ううん、そうじゃないんだけどさ」

「じゃあ何だ?」

「ん? いや……今日の涼は、いつもと何か違うなと思って」

「どこが?」

「どこがどうって言うんじゃないんだけどね、何となく」

 曖昧に笑って、利恵は言った。

 実際、利恵自身にも良く判らないのだが、本当に何となく、いつもの涼とは違うような気がしたのだ。

「変な奴だな。 さて、行くか……って、お前はいつまでやってんだよ」

「いや、どうせやるなら徹底的にと思って」

 涼の隣りでストレッチしながら、真一郎は言った。

 屈伸どころか、全身くまなく伸ばしている真一郎を、行き交う人が何事かという目で見ている。

 まあ、駐車場で入念過ぎるほどのストレッチをしていれば、注目を集めても仕方ないだろう。

「そこまでやらんでいいって。 汗ビッショリじゃねえか」

「やり始めたらハマった」

「どこまでもアホだな、お前は……。 ほら、行こうぜ。 お前らも来いよ」

 涼は雛子と利恵にも声をかけたのだが……。

「う〜ん……わたし、今は遠慮しとく」

「あ、わたしも……」

 と、二人ともノリが悪い。

「何でだ?」

 一瞬、水着を持って来るのを忘れたのかと涼は考えたが、そもそも海に行くという目的で来ているのだから、そんな事は無いだろう。

「これからが一番陽射しが強い時間帯だからね」

「だから?」

「紫外線が怖いでしょ? シミとかソバカスとか出来ちゃったら嫌だからさ」

「何だよ、お前らそんな事気にしてんのか?」

「女の子の基本です。 ね、ヒナちゃん」

「そうだね」

 雛子はクスクスと笑いながら言った。

 基本と言われても、涼にはピンと来ない話である。

 もっとも、涼のような男がお肌に気を遣っているところを想像すると、ちょっと気持ち悪い……。

「という訳で、わたし達はいいから、二人は適当に楽しんでおいでよ」

「ふうん……。 何だか判んねえけど、それじゃ俺達だけで行って来るわ。 恭さんも行かない?」

「ああ、そうだな。 環、お前はどうする?」

「わたしも二人と一緒に車の中にいるわ。 男だけで行っておいで」

「そうか。 それじゃ、車のキーはお前に預けとくよ。 一〜二時間遊んで来るから、その間自由に乗り回してていいぞ」

 ポイっと環に向かってキーを投げると、恭一は涼と真一郎と共に浜辺へと歩いて行った。

 環は受け取ったキーを人差し指でクルクルと回しながら、

「さて、むさ苦しいのがいなくなったところで、わたし達はどこか涼しい所でティータイムとしゃれこみましょうか?」

 と、夏の陽射しに負けないような笑顔で言った。

「さんせ〜い!」

「あ、あのぉ〜、おば様。 移動は車じゃなくて、歩きにしませんか?」

 ノリノリの利恵の隣りで、何故かおずおずと雛子が言った。

 それほど汗かきでもない筈なのだが、その顔には玉のような汗が浮いている。

「ん? ヒナちゃん、どして? 紫外線の直撃を受けながら歩いたんじゃ、海に入らなかった意味無いよ?」

「う、うん……それはそうなんだけど……」

「ほらほら、時間は限られてるんだから有効に使いましょ? さ、しゅっぱ〜つ!」

「あ、利恵ちゃん! ちょっと待っ……」

 まだ何か言おうとしている雛子の背中をグイグイと押して車に乗せると、利恵も並んで座り、ドアを閉めてしまった。

「お母様、OKで〜っす」

「よっしゃあ! それじゃ行くわよ〜!」

「利恵ちゃん、シートベルトしっかり締めてね……」

「え? そりゃあ、ちゃんと締めるけど。 ヒナちゃん、どうかした……」

「後方確認良しっ! そりゃあっ!」

 利恵が最後まで言い終わる前に、車はバックの状態で、タイヤを鳴らして急発進した。

「えっえっえっ!?」

「環スペシャル! リバース・ターン!」

 タイヤが悲鳴と共に白煙を上げる。

 暴れ馬の如く軋む車体を華麗にコントロールし、環は見事にスピン・ターンを決めて見せた。

 そして……。

「Ready……Go!」

 車が向きを変えると同時に、環は掛け声と共にアクセルを思い切り踏み込んだ。

 進路を遮る車 (と言っても、周囲の車はごく普通に走っているだけなのだが……) を右に左に避けまくり、怒涛の勢いで加速して行く……。

「きゃあ! ちょっと、何事っ!?」

「利恵ちゃん! 舌噛むから喋らない方がいいよっ!」

 二人はお互いを抱きしめつつ、必死に体勢を整えながら運転席の環を見た。

 すると……。

「おらおら、どけどけどけーっ! 宇佐奈環様のお通りだぁぁーっ!」

「な、何? お母様に何が起こったのっ!?」

「おば様は、ハンドル握ると人格が変わるタイプなのーっ!」

「先に言ってよーっ!」

 ある意味いつも通りと言えなくもないが……。

 環の運転する車は、海沿いの道を快調にすっ飛んで行った。




「い〜やっほう!」

「うわっ!?」

 かなり沖の方まで出た所で、真一郎は涼の肩を踏み台にして高く跳躍し、再び海の中へと頭からダイブした。

 当然、いきなり踏み台にされた涼は、海の中へ潜ってしまう訳で……。

「……ぶはっ! てめえ、いきなり何しやがるっ!」

「いやいや、この間テレビでシンクロを観たもんでな。 ちょっと真似てみたくなったんだ」

「理由になるかっ!」

「騒々しいな、お前らは……。 ま、人も少ない事だし、少しくらいならいいか」

 そのすぐ傍で、のんびりと海面に身体を浮かべながら恭一が言った。

 仕事柄……と言うより、昔の因縁絡みで揉め事ばかりを扱っている恭一にとって、こうして何も考えずにゆっくりするのは久し振りの事であった。

 それに、周りには数は少ないとは言え、ちょっとセクシー系な水着姿のお姉さん達 (恐らく二十台前半くらいだろうと思われる) がいるのだから、文句など言う筈も無い。

「ふむ……眼福眼福」

 となれば、いつまでも恭一が大人しく浮かんでいる訳も無く、お姉さん達が乗っているゴムボートにス〜っと近付くと、

「やあ、こんにちは。 絶好の海水浴日和だね」

 などと言いつつゴムボートの縁に手を掛けて、初対面の相手にも拘らず馴れ馴れしく話しかけたりしている。

 通常、このような声のかけ方でナンパが成功する筈も無いのだが……。

「……とまあ、そんな感じで、チェックインまで暇潰ししてるんだけど、ちょっと時間を持て余し気味でね」

「あ、それじゃあわたし達と同じですね。 わたし達も今夜、そのホテルに泊まるんですよ」

「へえ〜、そりゃあ奇遇だね。 じゃあ、時間まで一緒に遊ばないかい?」

「ええ、いいですよ」

「実はわたし達も、女だけで退屈してたんですよ〜」

「これは嬉しいな。 綺麗どころが三人もお相手してくれるなんて」

 何故か上手く話が進んでいるようで、お姉さん達と和やかムードを醸し出している。

 確かに外見上は問題無いどころか、美形に分類されていいくらいなのだから、お姉さん達が騙されても無理は無いだろう。

 しかし、彼女達は知らない……。

 美浜恭一という男の本当の姿、裏の顔を……。

「……おい、掃部関君。 背後で俺の人格を疑われるようなナレーションを入れるの、やめてくれるか?」

「綺麗なお姉さんを独り占めしようとするからっすよ。 ど〜も! ただ今ご紹介に預かりました、掃部関真一郎です! いつまでも子供の心を忘れない、そんな素敵にピュアな大人になる為、日夜修行に励んでます!」

 ビシ! っと敬礼をしながら真一郎は言った。

「あはは。 この子おもしろ〜い!」

「ねえ、あそこで怖い顔して、こっちを睨んでる人がいるんだけど……知り合い?」

 お姉さん達の一人が指差す先には、海面に顔を鼻から上だけ出して、恭一と真一郎をジト目で見ている涼がいた。

 その目には、二人の行動に呆れているという感情が色濃く出ている。

「お〜い、涼。 お前もこっち来て、一緒にお姉様方とお話しようぜ」

「俺はいいよ……」

「え〜? そんな事言わないで、君も何かお話してよ〜」

「あら、よく見たら結構カッコいいじゃない……ねえ、一緒にボート乗らない? ほら、場所空いてるよ」

「お姉さん達と密着出来るチャンスだぞ〜?」

「い、いや、いいっすよ……」

「あ! 赤くなってる! 可愛い〜」

 いつの間にか、お姉さん達の興味は涼に向いてしまったようで、恭一と真一郎を置いて、涼の方へとボートを移動させ始めてしまった。

 だが……。

「……面白くねえな」

「そうですね……」

 今度は恭一と真一郎の二人が、涼の事をジト目で睨んでいる。

「テトラポットに括り付けてやろうか?」

「それより、その辺の船の碇にでも縛り付けて、沈めちゃいません?」

「お? いいな、それ。 そのあとは、そのまま外洋にでも出させちまうか……遠洋漁業の船はねえかな?」

 二人の会話の内容がどんどんエスカレートして行く中、涼はお姉さん達にからかわれ、オロオロするばかりであった。

 こんな時に琢磨がいてくれたら、自分の身代わりに差し出して逃げられるのに……などと、とんでもない事を考えながら。



「つ、疲れた……」

 適度に冷房の効いた店内で、利恵はグッタリとした様子で席に座っている。

 オープンしたばかりのケーキビュッフェ。

 チーズケーキやムースの他にも、ピッツァやピラフなどのライトミールも取り揃えられており、ドリンクアイテムも多彩。

 しかも入店から一時間の間は食べ放題という、まさにパラダイスとも言える場所なのだが、今の利恵はそれどころではないらしい。

「利恵ちゃん、大丈夫?」

「何とか……。 ヒナちゃんは?」

「わたしは結構慣れちゃってる部分があるから」

「意外とタフなのね……」

 絶叫マシーンなどは平気なのだが、それはあくまでも遊具であるという前提があるからだ。

 リアルで暴走マシンに乗せられては、さすがの利恵も精神的疲労を感じて当然である。

 それに、帰りも環の運転する車に乗らなければならないのだから尚更だろう。

「はいはい、これでも食べて元気出しなさい!」

 両手にケーキ満載のトレーを持った環が席に戻って来た。

 零れ落ちそうになるケーキを押さえつつ、トレーをテーブルに置くと、

「さあ、食べるぞ〜!」

 と、環は気合充分で、ケーキに挑みかかるように食べ始めた。

「お母様! そんなに食べると、あとが大変ですよ?」

「ん〜? あとって? 何が大変なの?」

「摂取し過ぎたカロリー、どうやって消費するんですか?」

「美味しく食べてる時に、そんなつまらない事を気にしてちゃ駄目よ。 それに、今は制限時間内にどれだけ食べられるかが重要なんだから」

「……栄養学の講師してる人の台詞とは思えない」

「あはは……」

 と言いつつも、利恵も雛子も甘い物は好物である。

 美味しそうに食べている環を黙って見ているだけなどという事も無く、手近な物から口に運び始めた。

「わ! これ美味しい!」

「うん。 あまり甘過ぎないし、後味がスッキリしてるね」

 二人とも幸せ一杯の顔である。

 そんな二人の様子を、環も幸せそうな顔で見ている。

 何しろ涼は甘い物など殆ど食べないし、やはり息子とよりは、こうして娘 (本当のではないが) と一緒に飲むお茶の方が美味しい。

 環が満ち足りた気分でいると、

「ねえねえ、君達どこから来たの? このあと時間あるかな?」

 何やら隣のテーブルから声が聞こえて来た。

 十代後半くらいだろうと思しき女の子の二人組みに、やはり同年代くらいの男の子が声をかけている。

 女の子達の方もまんざらでもないのか、にこにこしながら対応している。

 まあ、夏の海での事である。

 こうして出会う人達もいるだろうと、環も然して気に留めなかったのだが、

「昔はわたしも、ああして声の一つくらいかけられたもんだけどな〜……」

 と、過ぎし日の栄光を思い出した。

「お母様、結構モテたくちですか?」

「あったりまえなのさ。 わたしには親衛隊だっていたんだぞ?」

「さすがお母様!」

「あれ? でも、美浜さんから聞いた話だと、おば様の場合、親衛隊と言うよりは軍だ……」

「雛子ちゃ〜ん、あれは親衛隊と言うのよ? いや、みんなわたしのファンだったんだから、むしろ逆ハーレムと言っても過言ではないわ!」

「そうだったかなぁ……?」

 雛子が小さい頃、環が出かけて留守をしていた時に、たまたま遊びに来ていた恭一が昔の写真を見せてくれた事があった。

 そこには環を中心に、かなりの人数の怖そうなお兄さん達が、ひきつった笑顔を浮かべて写っていた。

 その時、確か恭一が 『これはな、おばちゃんの子分達なんだ。 ま、差し詰め環軍団ってところだな』 と言っていたような気がするのだが……。

「む……雛子ちゃんには記憶の混乱が見られるわ。 さあ、糖分を摂取して、脳を正常に動かしましょう!」

「ちょ……おば様、わたしそんなに食べられ……ん〜!」

 口に無理矢理ケーキを押し込められながら、そう言えば恭一も、帰宅した環に 『余計な事を教えた』 という事で、かなり苛められてたな……と、雛子は思い出していた。


 さて、それから二時間後。

 約束通りに駐車場で男性陣と合流し、そのまま今夜の宿であるホテルでチェックインを済ませた一行は、食事の前に一風呂浴びてスッキリしようという事になり、大浴場前にいるのだが……。

「それじゃ、七時から宴会だからね。 全員、遅れずに小宴会場に集合する事、いい?」

「ああ……」

「……どうしたのよ恭一、随分大人しくなっちゃって」

「真君、何かあったの?」

 海に入る前までは、あんなに元気一杯だったのに……と、環の横で雛子も心配そうにしている。

「大人しくもなりますよ……ねえ、美浜さん」

「そうだな……あそこまでやられちまうとな……」

 と、普段は先頭に立って場を盛り上げる筈の二人に、まるで覇気が無い。

「何よ、あそこまでやられるって……。 誰かと喧嘩でもして負けたの?」

「そんな事だったら、俺もここまで落ち込まねえよ……なあ、掃部関君」

「そうっすね……。 俺も、ここまでやられたのは初めてっすから……」

「俺も歳をとったって事なのかなあ……」

「俺もまだまだ修行が足りないって事なんですかねえ……」

「……さっぱり判らん」

 環は首を傾げつつ二人の顔を見ているが、やはりどうして二人の元気が無いのかは判らないままだった。

「ねえ、涼。 美浜さんと真君、何かあったの?」

 利恵も二人の様子が気になるのか、涼の腕を突付いて小声で訊いた。

「え? い、いや、別に何も……」

「そうかなあ? だって、いつもの真君じゃないよ?」

「俺にも判んねえよ……」

 そう言うと、涼は落ち着き無く頭をガシガシと掻いた。

 これは涼が困った時にやる癖だ……。

「……な〜んか怪しいわね」

 と、利恵は疑惑に満ちた眼差しを涼に向けた。

「な、何が?」

「妙にそわそわしてるし、わたしと目を合わせようとしないし……何か隠してない?」

「別に、お前に知られて困るような事なんてねえよ」

「ほお〜? じゃあ、何があったのか言ってごらん?」

「何も話す事なんてねえっつーの。 さ〜て、風呂入って来ようっと……」

「あ、こら! 話はまだ終ってないぞ!」

 しかし、涼は利恵の言葉には耳を貸さず、恭一と真一郎の背中を押しながら、とっとと男性用脱衣所へと入って行ってしまった。

 利恵も一応は女の子なので、男子用の脱衣所へ突撃するような真似は出来ない。

 いや、涼一人だけなら、お構い無しで入って行ったかもしれないが……。

「怪しさ炸裂……絶対に何かあるぞ、これは」

「ま、男共に何があろうと、わたし達には関係ナッシング。 さあさ、わたし達も汗を流してサッパリしましょ」

「……そうですね。 ヒナちゃん、行こう?」

「うん」

 女性陣も脱衣所へと入って行った。


「ったく……二人とも何だよ、さっきのあれは」

 大浴場に入ると、さっそく涼は先ほどの二人の態度について言及し始めた。

「あれじゃ勘繰って下さいって言ってるようなもんじゃねえか……」

「だってなぁ〜……。 せっかく俺らが仲良くなろうとしてるってのに、横からかっさらって行くんだもんなぁ〜……」

「まったくだ。 涼、お前には配慮ってもんが足りねえんだ。 少しは目上の者に対して気を遣え」

「そんな事言われても……」

 どうやら昼間のお姉さん達との事を言っているようだ。

 結局、お姉さん達は涼を気に入ってしまったらしく、恭一と真一郎が何をしても、殆どリアクションしてくれなかったのだ。

「別に俺は、あの人達に好かれようなんて思ってなかったのに……」

「今時こんな無愛想な野郎がウケるなんて、間違ってますよね」

「まあ、それはさて置き……」

 恭一はかけ湯を終えると、大きな湯船に入って手足を気持ち良さそうに伸ばしながら、

「涼、あとで彼女達の部屋へ遊びに行くぞ」

 と、鼻歌混じりに言った。

「……え?」

「環達が寝静まってからの方がいいか?」

「何で俺に訊くの? 行くなら恭さん一人で行ってよ」

「馬鹿野郎。 お前が招待されたってのに、お前が行かねえでどうする」

「やだよ。 俺、あの人達に興味無いもん」

 そうは言うが、涼だって健康な男子なのだから人並みに性欲だってある。

 しかし、今回の旅行には佐伯雛子に加え、高梨利恵も同行しているのだ。

 迂闊な真似をして二人の評価を落しては、今後の楽しみが無くなってしまうではないか……涼はそう考えていた。

「おい……下らねえナレーション入れてんなよ、真」

「お前の気持ちを代弁してやったんだ。 気が利いてるだろ?」

「全部間違っとるわ!」

「この際お前の気持ちなんざ、どうでもいいんだよ。 要は俺と掃部関君が楽しめるかどうかだ」

「何だよそれ……。 とにかく、俺は行かないったら行かない」

「ほう? この俺に向かって、そういう口をきくのか……上等だ」

 恭一は湯船から出ると、涼の隣りまで来てしゃがみ込んで、

「お前がそういう態度をとるなら、俺にも考えがある」

 と、にやりと笑った。

「な、何する気……?」

「昼間の出来事の全てを、残らず利恵ちゃんに報告してやる」

「残念だったね、恭さん。 そんなもん、あいつに知られたって俺は全然困らないよ。 俺とあいつは、単なる知り合いって程度の関係なんだから」

「さっきも言ったろ? お前の気持ちなんざ関係無いって。 お前が困るかどうかなんて問題じゃねえんだよ」

「ま、高梨としちゃ面白くないだろうからな〜……血の雨が降るかもしれねえな、涼」

「……」

 確かに、お姉さん達に気に入られた上、部屋に招待されたなどと利恵が知ったらどうなる事か……。

 しかも、今は恭一と真一郎がタッグを組んでいるのだから、何をどう脚色されるかわかったものではない。

 そばにいてブロックしようにも二人いっぺんには出来ないし、かと言って利恵とずっと一緒にいるのも抵抗を感じる。

「ここにいる間だけの事を考えてるなら、そりゃあ甘いってもんだぞ、涼」

「むしろ帰ってから知らされる方が、高梨の怒りはでかいんじゃねえかな〜? 却って疚しい事があったって思われるだろうな」

「……」

 確かに真一郎の言う通りだ。

 この場を上手く切り抜けても、この先ずっとこのネタで気苦労する破目になるのは目に見えている。

 しかし、涼としては自分に何の落ち度も無いのに、何故にここまでされなければならないのかという気持ちもあって、なかなか素直に頷けない。

「大人しく俺の言う事を聞くなら、この場限りの事にしてやってもいいぞ?」

「俺様は仁義を重んじる男だからな。 友の頼みは聞き入れる用意があるぞ?」

「……」

「選ぶのはお前だ。 さあ、どっちを選ぶ?」

「どうせなら楽しく遊んだ方がいいのと違うか? 涼」

「だ、だからさ、行くなら二人で行けば……」

「お前が気に入られたんだろうが……最後までケツ持てや、こら」

「美味しいとこ取りした野郎が、何を無責任な事言ってやがんだ……シバくぞ、ボケ」

 保に匹敵する強さの恭一と、剛力を誇る真一郎に左右から挟まれ、同時に耳元で脅されると、さすがの涼も戦う気が起きない。

 どうやら、どうやってもこの場を無事に切り抜けられそうも無いようだ。

 涼は力無く頷く以外に無かった……。



 それから少しして、風呂に入る前までとは一変してハイテンションになった真一郎が場を大いに盛り上げ、盛況の内に宴会は終った。

 満腹の上にアルコールも入った環は、宴会終了間際には、既に殆ど眠っているような状態だった。

 雛子と利恵も昼間の疲れが出たのだろう、大きな欠伸をしながら部屋へと歩いて行った。

「さて……そろそろいい頃だな」

「涼、行くぞ」

 一旦、環達と一緒に自分達の部屋まで戻った三人は、時刻が二十三時を回ったところで行動を開始した。

 勿論、お姉さん達の部屋へ遊びに行こうというのである。

「……やっぱ俺も行かなきゃ駄目?」

「往生際が悪いな、お前も。 いい加減に観念しろ」

 恭一は明らかに気乗りしていない涼を無理矢理立たせると、Tシャツの襟を掴んで部屋の外へと連れ出した。

 そのあとに続いて真一郎も廊下へと出る。

 前後で挟まれていては逃げる事も出来ないし、部屋のドアはオートロックな上に、鍵は真一郎がシッカリと握っている。

 涼は諦めて歩き出した。

「涼、彼女達は何号室だったっけ?」

「え〜っと……確か、五〇三号室って言ってたと思う」

「お? 美浜さん、丁度エレベーターが来てますよ」

「ほれ、神様も早く行けと仰られてるぞ」

 絶対に違う。

 これは悪魔が破滅へと導いてるんだ……と涼は思った。

 乗り込んでほんの数秒でエレベーターは五階へと到着し、静かな廊下に到着を知らせるベルの音が響いた。

 エレベーターを降りて少し歩くと、目的の五〇三号室はすぐに見つかった。

 部屋の前まで来て、涼は振り返って恭一の顔を見るのだが、恭一は早くしろという感じで涼の背中を突付くだけだ。

 観念した涼がインターフォンを押そうとすると……。

「あれ……?」

 ドアノブに何か小さな札がかかっているのに気が付いた。

「……恭さん」

「あ? 何だよ、早くしろよ」

「いや、そうじゃなくて……留守みたいだよ」

「はあ?」

 涼が指差す札を見て、恭一と真一郎は呆気にとられたような顔になった。

 そこには 『おでかけしてま〜す。 何か期待してた人、ごめんね』 と書かれていた。

 ご丁寧に、メッセージの最後には小さなハートマークまで描かれている。

 どうやら彼女達は、本気で涼達を誘った訳では無いようだ。

「ふっふっふ……上等じゃねえか」

「俺ら完璧に遊ばれてますね……」

「おう、真一郎! これから呑みに行くぞ! てめえも付き合えっ!」

「うっす! 朝まで付き合いますよ!」

「……俺はパスするよ、恭さん」

「付き合い悪いな、この野郎は……」

「へん! お前なんか頼まれたって連れてってやらねえよ、この役立たずめ! 恭さん、行きましょう!」

「おう!」

 肩を組み、大股でズンズンと廊下を進む二人は、エレベーターに乗り込んで階下へと降りて行った。

 それを見送った涼は、

「俺のせいじゃないのに……」

 と、一つ溜息を吐くと、階段を使って階下へと降りた。

 そのまま一階のロビーまで下りて来ると、そこにはちらほらと人の姿があった。

 さすがにこの時間では、まだ眠る人は少ないようだ。

 ラウンジでは深夜一時の営業終了まで、いつでもスナックと飲み物が用意されているので、それを利用しているのだろう。

 涼には何の曲かは判らないが、BGMとして生のピアノが流れている。

「とりあえずフロントに頼んで、部屋の鍵を開けてもらわなきゃな。 ったく……真の奴、部屋の鍵持ったまま行きやがって……ん?」

 ふと視線をラウンジの窓際の席に移すと、そこにはどこかで見たような顔が……。

「……何やってんだ? あいつ」

 ぽけっとした感じで窓の外を見ているのは、利恵であった。

 先程、宴会の時には浴衣を着ていたのだが、今は私服に着替えている。

 自然と、涼の足は利恵の元へと向かっていた。

「よう、何見てんだよ」

「……星」

「星?」

 都会と違って光が少ない為だろう、一階のラウンジからでも空に瞬く星がよく見える。

「部屋の窓からだって見えるだろ? 何でわざわざ下まで降りて来たんだ?」

「ん〜? 何となくね……。 涼は何してんの?」

「いや、真と恭さん、二人して出かけちまったんだけど、真の野郎が鍵持ったまま行きやがってさ……」

「締め出されちゃったんだ?」

「フロントに頼めば開けてもらえるからいいんだけどな」

 涼も椅子を引くと、利恵の向かいに腰掛けた。

 その時、テーブルが少し揺れたのだろう。

 利恵の前に置かれたアイスコーヒーの氷が、カランと小さく音を立てた。

「お袋とヒナは?」

「熟睡してるよ」

「……お前もさっき大欠伸してたろ? 眠くねえのか?」

「少しうとうとしたんだけど、何となく目が覚めちゃった。 涼は?」

「俺は、いつももう少し遅い時間に寝てるからな。 今くらいの時間じゃ眠くならねえよ」

「そうなんだ。 結構夜更かししてるんだね」

「そうか? これくらいは普通だろ?」

「ね、普段夜更かしして、何してるの?」

 利恵はテーブルに身を乗り出すようにして、涼に言った。

 星を見る事など、もうすっかり忘れてしまったようである。

「特に何もしてねえな。 読みかけの漫画読んだり、テレビ観たり……かな? 時々、真が電話して来て、それに付き合わされたりしてるけどな」

「ふうん、そうなんだ……あ、何か飲む?」

 利恵は手近にあったメニューを涼に向けて差し出した。

 メニューとは言ってもそれほどの品数は無く、数種類の飲み物と簡単なおつまみ程度の物の写真。

 それに品物の名前が書かれてあるだけだ。

「そうだな……じゃあスコッチと、何か適当につまみ」

「アルコールは駄目、未成年でしょうが」

「硬い事言うなよ」

「駄目ったら駄目! アイスコーヒーにしなよ、結構美味しいよ?」

「煩い奴だな……解ったよ、それでいいよ」

 そう言うと、涼はシャツの胸ポケットから煙草を取り出し、一本咥えて火を点けようとした。

 だが……。

「こらっ!」

 煙草の先に火が点く前に、利恵の手が素早く涼の口から煙草を奪い取って行った。

「お酒も煙草も二十歳になってから!」

「いいじゃねえか別に。 俺が何しようと俺の勝手だろ? それでお前に迷惑かけるでなし……」

「迷惑かけるとか、かけないとか、そういう問題じゃないの! 駄目な物は駄目なの!」

「副流煙の問題ってか?」

「わたしは涼の為を思って言ってるの! 身体に悪いでしょうが」

「んなもん、未成年だろうが成人だろうが、身体に悪いってのは変わらんだろ」

「あのね……売れば売っただけ国は儲かるんだよ? それでも国が 『未成年はいかん!』 って言ってるのには理由があるんだから、従うべき所は従いなさい」

「意外と理屈っぽいんだな、お前……」

 まあ、こんな場所で利恵と議論しても仕方ない。

 涼は言われるがままに、煙草をポケットにしまった。

「こらこら。 しまわないで捨てちゃいなさい、そんな物。 必要無いでしょ?」

「いや、物を粗末にしちゃいかんだろ?」

「身体を粗末にする方が問題です。 いいから捨てなさい」

「別に捨てなくても……要は吸わなきゃいいんだろ?」

「捨てなさい」

「だから……」

「涼が捨てるまで、わたしは何度でも言うよ?」

「ちっ……解ったよ!」

 これ以上言い合いをしていても、時間が過ぎるばかりでちっとも建設的でない。

 それに、あまり揉めていても周りに迷惑だし、何より旅行自体がつまらない物になってしまう。

 涼は席を立つと、ヤケクソ気味に 『可燃物』 と書かれたダストボックスへと煙草を投げ込んだ。

「ほれ! これでいいんだろ!」

「そうそう、それでいいの。 素直な涼が大好きよ」

「うるせえよ」

 再びドッカリと席に腰を下ろすと、涼は相変わらずの仏頂面をした。

 利恵はそれを見てクスっと笑うと、

「ねえ、お母様は知ってるの? 涼の飲酒と喫煙」

 と続けた。

「さあな。 俺は家じゃ飲んだり吸ったりしねえけど、臭いで判ってるんじゃねえかな?」

「お母様、何も言わないの?」

「何でも自分で責任を取れる範囲でやれってのが、お袋の流儀だからな。 もしも俺がケツまくったら、その時には殺されるだろ」

「ふうん……」

 要するに、人の道を外れさえしなければ、大概の事は黙認するという事なのだろう。

 一見、放任主義のように思えなくも無いが、自己の責任を認識させるには良い方法かもしれない。

 もっとも、それも本人の自覚次第ではあるが。

「一応、いい事も悪い事も、一通りやってみなけりゃ解らない部分ってあるだろ? モロに犯罪者になるような事は別としてさ」

「まあね」

 やって良い事、悪い事の判別も出来ないようなら、そこで環流の 『教育的指導』 が入るだろうし……。

「別に酒も煙草も、無けりゃ無いで困りゃしねえんだ。 ただ……」

「ただ?」

 利恵が訊き返した時、注文したアイスコーヒーが運ばれて来て、二人の会話が一旦途切れた。

 涼はアイスコーヒーに何もいれず、ストローも使わずに一口飲んだ。

「……うん、結構旨いな」

 ちゃんと豆を挽いて水から出してあるらしく、味がシッカリしていて香りも飛んでいない。

 これなら合格だ……と涼は思った。

「で? ただ……何?」

「別に何でもねえよ」

「あんまり話したくない事かな?」

「……そういう訊き方されると、返事に詰まっちまうな」

「あ、ごめん……」

「いや、謝らなくてもいいって」

 美味しいアイスコーヒーのおかげだろうか、涼は普段よりも素直に利恵の質問に答えた。

「親父がな、やっぱ俺くらいの歳で酒も煙草も覚えたって聞いてさ。 で、この歳でそういう物を覚えるってのは、どんな感じなのかなって、そう思っただけなんだ」

「……そっか」

「俺のやる事に大した理由なんてねえんだよ。 だから、あんまし気にすんな」

「……ねえ、お父様ってどんな人だったの?」

「親父? そうだな……お袋と同じで、ヒナにはやたら甘くて、俺には滅茶苦茶厳しかったな。 随分ゲンコツ喰らったし、延々と説教された事もあったしな」

「それは涼が悪い事したからじゃないの?」

「まあ、そうなんだけどな」

「あははは。 じゃあ怒られてもしょうがないね」

「……はは、まあな」

 笑う利恵につられて、涼も笑ってしまった。

 何だか利恵の笑顔を見ていると、自然に自分も笑顔になってしまうのだ。

 楽しそうに話しを聞いている利恵を見ている内に、何故か涼は、もっと利恵を笑わせてやりたいな……と思った。

「あ、そうそう。 明日はわたし達も海に入るつもりなんだ」

「そうしろよ、気持ち良かったぜ」

「うん……だからさ、一緒に泳ごうよ」

「ああ、別に構わねえよ」

「ほんとっ!? 良かった〜。 また 『やなこった』 って言われるかと思っちゃった」

 利恵はホっとして笑顔を浮かべた。

 だが……。

「何でだよ。 その為に海に来たんだから、泳ぐのは当たり前だろ」

 この涼のリアクションで、一気に脱力したような顔になった。

「……微妙にわたしの真意が伝わってない気がするんだけど?」

「何が? 明日は海で泳ぐんだろ? ちゃんと伝わってるぞ?」

「そうね……涼はそういう人だったんだよね……うっかりしてたわ」

「……?」

 何故かヘコんでいる利恵を、涼は不思議そうな顔をして見ていた。


 明日も晴れるといいな……。

 涼も利恵も、そう思っていた。

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