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第十二章

 鬱陶しかった梅雨の時期も終り、いよいよ夏本番が目前に迫った或る日の事。

 登校して来た涼が教室に入ろうとしたところで、

「おーい、涼! ちょっと待て」

 と、満面の笑みを湛えた真一郎に、後ろから声をかけられた。

「何だ、お前か。 相も変わらず、朝っぱらからテンション高いな」

 梅雨の最中には、毎日 『梅雨明けはまだかー!』 と煩くしていたのだが、梅雨が明けたら明けたで、今度は 『夏休みはまだかー!』 と、結局煩いままの真一郎に、最初の内はいちいち突っ込んでいた涼だったが、もういい加減疲れるので諦めた。

「なあなあ、お前さ、夏休みの予定って、もう決まってるか?」

「いや? 特に何も決めてねえけど?」

 日がな一日ゴロゴロして、無駄な時間を浪費する。

 そして夏休みが終る間際になって、終らない宿題を抱えて雛子に泣きつくのは、昔から続いている涼の悪習である。

 本当なら見捨ててしまうのが一番本人の為になるのだろうが、雛子もそこまで鬼にはなり切れないようだ。

「だったらさ、一緒に海に行かねえか? 二泊三日くらいで」

 浮かれまくりの様子で真一郎は言った。 

 もっとも、それはいつもの事なので、涼とすればもう慣れっこである。

 逆に今ではこれが無いと、真一郎の体調でも悪いのかと思うくらいになった。

「海か……いいな」

 街中で感じる陽射しよりも、海で思い切り浴びる方が、涼としても好みである。 

 昨今は紫外線の害が色々と報告されているが、今では有効な対策もあるし、ましてや涼はそんな物には無頓着である為、全然気にならない。

「プールでもいいんだけどよ、どうせなら遠出したいと思ってさ」

「ああ、そうだな。 市営のプールじゃ家族連れが多くて、まともに泳げねえし」

「だよな〜。 やっぱどうせ見るなら、お母様方やチビっ子よりも、お姉様方だもんな〜」

「……お前、海に何しに行くんだ?」

「海水浴だ」

「自分で自分の言葉を否定してるって事に気付いてないのか……?」

 涼は苦笑しながら言った。

「それで面子なんだけどさ、琢磨と雛子ちゃんは当然誘うとして、あと何人か声かけてみようかと思ってんだけど」

「おい、あんま大勢にしちまうと何かと面倒だぞ?」

「んな事言ってもよ、女の子が雛子ちゃんだけじゃ却って可哀相だぜ?」

「ああ、それはあるか……」

 いくら親しいとは言っても、やはり男の中に女の子が一人だけというのでは、雛子もつまらないかもしれない。

 真一郎の言う通り、誰か雛子と仲の良い女の子を誘う必要があるだろう。

「そこで、だ。 雛子ちゃんと仲がいいって言えば、やっぱ高梨だろ? 俺らとも馴染みだしさ」

「……」

 利恵の名前が出た途端に、涼は複雑な表情になった。

 別に利恵を嫌っている訳では無いのだが、どうもあのペースに巻き込まれてしまうのが困るのだ。

 いつの間にか利恵の思うままにされてしまうのが、どうにも面白くない。

 これで真一郎とタッグでも組まれたら、海でも同じパターンになってしまうではないか。

「嫌か?」

「別に嫌っていうんでもないけど……」

「まあ、お前がいくら嫌がっても、既に高梨は行く気満々だからな。 今更ダメだなんて言ったら、あとが大変だぞ?」

 真一郎は楽しそうに言うと、ポンポンと涼の肩を叩いた。

「も、もう声かけてやがったのか!?」

「当たり前だ。 可愛い女の子が参加しないで、何の為の海か。 ま、他にも何人か当てがあるから、俺の方でやっとくよ」

 事イベントとなると、真一郎の真価は遺憾無く発揮されるようだ。

「……そっちは適当にやってくれ」

 とりあえず、誘ってしまったものは仕方ない。 

 他の心当たりというのも甚だ怪しい (どうせ女子にしか声をかけないだろうし) が、 たまには大人数で騒ぐのもいいだろう。

「ま、俺があいつの相手をしなくて済むなら、それでいいさ」

 利恵の相手は雛子がしてくれるだろうし、どうせ真一郎は水着観賞してばかりだろうから、海へ行ったら琢磨と一緒に行動すればいい。 

 勿論一人でいても構わないが、せっかく海に行くのだから思い切り身体を動かす方が楽しい。

 琢磨となら運動能力も互角だし、何をするにもハンデが要らない分、楽しめそうだ。

 涼はそう考えていたのだが……。



「……行けない?」

 昼休みになり、一年一組に琢磨と雛子を誘いに行った真一郎は、ポカンと口を開けたまま呆けたようになってしまった。

「ああ。 夏休みの間、俺は祖父の知り合いの禅寺へ行く事になっているのでな」

「禅寺って……お前、坊さんにでもなる気か?」

「そんな訳があるか」

 琢磨は苦笑しつつ、

「精神修行だ。 剣を振るう者は精神も鍛えなければならん。 技の稽古だけでは、剣の腕は上がらんからな」

 と、普段と変わり無い様子で言った。

「まさか夏休みの間中ずっとって訳じゃねえんだろ? 空いてる日は?」

「いや、そのまさかだ。 俺は夏休みの間、ずっと禅寺に篭る。 こちらには八月三十一日に戻る予定だ」

「三十一日って……夏休み最後の日じゃねえか!」

「そういう事になるな。 まあ、お前達だけで楽しんで来い」

 そう言うと、琢磨は机の中から次の授業の教科書を取り出し、パラパラとめくり始めた。 

 勿論、琢磨とて行きたくない訳ではない。

 だが、自分は 『浦崎流剣術』 を継ぐ者として、果たさなければならない勤めがある。 

 遊びを優先させる訳にはいかないのだ。

「そっかあ……残念だなあ」

 真一郎にしてはアッサリと引き下がったが、これは琢磨の性格を考えての事だ。

 行けるのであれば、琢磨はちゃんと承諾してくれる。 

 それを断るのだから、本当にどうにもならないのだ。

「済まんな、真。 せっかくの誘いを断ってしまって」

「仕方ねえさ、お前にも都合があるしな。 けど、来年の夏休みの予定は空けとけよな? 今から予約だ!」

「おいおい、もう来年の夏の話しか?」

「あ、その前に今年の年末な。 初詣がてら、スキーにでも行こうぜ!」

「気の早い奴だな。 だが良かろう、予定は空けておく。 但し寒稽古があるから、それ以外の日でだ」

「よし! 約束したからな! あ、ひ〜なこちゅわぁぁ〜ん!」

 琢磨に約束を取り付けるとすぐ、某有名な大泥棒の三代目の真似をしつつ、真一郎は雛子の所へスキップしながら行ってしまった。

「何とも落ち着かん奴だな……」

 大袈裟に色々なポーズをしながら雛子を誘う真一郎を見て、琢磨はクスリと笑った。




「惨敗だ……」

 放課後。

 いつものように 『らんぶる・ろっく』 へと立ち寄った真一郎は、情けない顔をしながら言った。 

 当然の如く、そこには涼も一緒にいて、

「人望ねえな、お前は」

 と言いながら笑っている。

「みんながみんな予定が埋まってるってんだもんなあ……。 こんなのってアリかよ? これはきっと、誰かの陰謀に違いない!」

「お前の邪魔して、何かメリットがあるとも思えんけどな」

 そう言うと、涼はカップを手に取り、コーヒーの香りを楽しみつつ、一口飲んだ。

 いつ飲んでも、ここのコーヒーは旨い。

 豆をケチらず、手間を惜しまずに淹れているからこその味だ。

「ま、別にいいじゃねえか。 大勢でなきゃ楽しめないってもんでもねえだろ?」

「そりゃそうだけどよ……」

 対する真一郎は、まだ不満気である。

 まあ、いきなり泊りがけでなどと言われても、やはり中学生。

 ましてや女の子の身では、たとえ予定が空いていたとしても、気軽に了解も出来ないだろう。

「何方様もご家庭の指導が行き届いてらっしゃるご様子で」

「琢磨ならここで、 『当たり前だ。 俺達はまだ未成年なのだぞ』 くらい言いそうだな」

「ま、それはそれでいいや。 結局メンバーは俺とお前、それに雛子ちゃんに高梨の計四名だ」

「で? 交通機関は電車を使うとして、向こうでの宿はどうするんだ?」

「まさか一部屋でって訳にもいかねえから、男女に分かれて二部屋だ。 予約は俺が取っとくよ」

「高くつくけど、仕方ねえな」

 予算については、涼にも若干の蓄えはあるが少々心許ない。

 帰宅したら環に頼んでみようと、涼は考えていた。


 しかし、世の中というのは、なかなか自分の思った通りには事が運ばないもののようで……。

「お断りの上に、不許可です」

 と、環は言った。

 資金援助どころか、海に行く事すら許さないというのだ。

「金の事はまだしも、何で海に行くのまで駄目なんだよ?」

「そんなの当たり前でしょう?」

 環はテーブルの上の食器をまとめながら言った。

 既に夕食は終り、今は片付けの真っ最中だ。

「あんた達はまだ中学生、しかも一年坊主でしょうが。 子供だけで泊りがけなんて、親としては気軽に 『はい、そうですか』 なんて言えないっての」

「何だよ、それ。 ガキ扱いすんなよな」

「もうガキじゃないって突っぱねる程ガキなんだって知ってた? それに万が一何かあった時、お前と真ちゃんだけでどうにか出来ると思う?」

「何かあった時って何だよ。 その辺のチンピラに、俺が負けるとでも思ってんのかよ」

「バ〜カ! だからお前はガキだってのよ。 わたしが言ってるのは、事故でもあった時の責任が取れるのかって事よ。 どう?」

 改めてそう言われると、涼としても返答のしようが無い。

 よくよく考えてみれば、自分達には責任の取りようなど無い事が解る。

 まだ子供として扱われる立場の人間では、社会的な信用も低いと言わざるを得ない。

「お前一人で行って、それで怪我するなり事故に遭うなりしても、それは自分の責任ってだけで済むけど、他の人が一緒にいる場合、その責任は果てしなく大きくなるって事を理解しな」

 環が洗い物を始めたのだろう、キッチンからはカチャカチャと食器の音が聞こえる。

 しかし、これは困った。

 環の言う事を無視して行くのは簡単だが、その後の事を考えれば、それは得策ではない。

 たとえ海から無事に帰って来たとしても、それが意味の無い物にされてしまうからだ……。

「で、でもさ、母さん。 もう約束しちまってるし、今更行けないなんていうのも何だしさ……ほら、みんなガッカリしちまうよ」

 涼としては柔軟路線を敷き、なるべく穏やかな方向で環を説得するしかない。

「ヒナだって、夏休みの間じっと家に篭ってるなんて可哀相だろ? だからさ……」

 自分の事だけでなく、雛子の事も持ち出してみた。

 環は雛子に甘い部分があるので、もしかしたらこれで上手く行くかもしれない。

 最悪、駄目だった場合は、あとで雛子を連れて来て一緒に説得してもらう手もある。

「……いかがなもんでしょうか?」

 涼はそれ以上は何も言わず、環の反応を待った。 

 あまりしつこく言っても逆効果になる可能性があるからだ。

 やがてキッチンからの水音が止まると、タオルで手を拭きながら環が居間に戻って来た。

「お前……雛子ちゃんの事を持ち出せば、わたしを落せるとか思っとりゃせんか?」

「と、とんでもない! 俺は本気でそう思ってるんだから……」

 涼は慌てて否定したが、どうも環は全てお見通しのようで、嫌な目をして涼を見ている。

「ま、保護者同伴という事なら認めてあげてもいいし、資金援助も考慮しましょう」

「マジで? でも、保護者同伴って言っても、適当な人がいねえよ」

「暇人がいるじゃない、美浜恭一っていう遊び人が。 それと、わたし」

「……はい?」

 にこやかに自分を指さして笑う環を見て、涼は一瞬、呆けたようになった。

「大体、お前達だけで企画を立てるってのが間違いなのよ。 そういう楽しそうな事には、わたしも参加させなさい」

「い、いや、ちょっと母さん……?」

「拒否するなら、お前は夏休みの間中、家から一歩も外に出さないから覚悟しなさいよ?」

「マジかよ……」

 言わなきゃ良かった……。 

 涼は、 「どんな水着にしようかな〜?」 と浮かれている環を見て思った。

 しかし、後悔してもあとの祭りである。 

 こうなってしまった環を止める事など、どんな超人でも不可能なのだから……。




 そして嫌なテストも終り、見たくもない通知表を受け取ったあとは、待ちに待った夏休みの始まりである。

 もっとも、夏休みには大量の宿題というオマケも付いているが、今この段階ではそれは関係無い物として処理される。

 後半になって苦労するのは解っているのだが、今は自由を満喫するのが最優先事項なのだ。

 そんな子供達の心を象徴するかのような快晴の空の下、利恵の父、高梨洋二は不機嫌さを露にしていた。

「まったく……わたしは納得いかんぞ」

「あなた、食事は和やかにしないと、消化に悪いですよ?」

 祥子は苦笑しながら洋二を宥めるのだが、一向に効き目が無い。

 いつものように朝食を摂っているダイニングは、まるで台風が通り過ぎたあとのように散らかっているが、勿論、祥子がこんなに散らかす訳も無く、犯人は利恵である。

「どうしてわたしに断りも無く決めてしまうんだ? 今日まで何日もあったじゃないか、それなのに……」

「仕方ないでしょう? 最近はあなたも残業が多くて、利恵と話す時間が無かったんですから」

 どうやら洋二だけが、利恵が涼達と海に行く事を知らなかったらしい。

 自分だけが除け者にされたという事で、ヘソを曲げているようだ。

 もっとも、祥子にしても、最初に利恵から話を聞かされた時には反対の立場だったのだ。

 理由は概ね環と同様で、子供だけで海に行くなど、とんでもないという事であった。

 しかし、すぐに環から電話があり、監督者として同行するというのを聞き、了承した。

 一度も会った事の無い人間をすぐに信用してしまうのもどうかという向きもあろうが、不思議と祥子は不安を感じなかった。

 少し幼い感じもしたが、それは自分よりも五歳年下という事。 

 それに、受けた印象が、どこか利恵と重なったからだろうと思った。

 明るく、初めて話す相手だというのに少しも物怖じしたり、緊張する様子も無い。

 それどころか、どんどんこちらの中へと入って来る。 

 それでいて、全くと言って良い程不快感を感じさせない、不思議な人だった。

 そんな人が育てた男の子ならば、利恵を任せても良いと思えたというのは、祥子の率直な感想だった。

「それにしたってだな、メッセージを残すくらいの事は出来ただろう? 内緒にしてたくせに、小遣いだけはしっかり毟り取って行って……」

「あら、利恵は要らないって言ったのに、あなたが無理やり持たせたんじゃないんですか?」

 クスクスと笑いながら祥子は言った。

 どうやら洋二の行動は、全てお見通しのようである。

「……そ、そんな事より! こんなに散らかして、後片付けもしないまま行かせるのはどうかと思うぞ?」

「あまり皆さんをお待たせする訳にもいかないでしょう?」

「一体、利恵は何をしていたんだ?」

「涼君の朝ご飯を作るんだって言って、頑張ってましたよ」

「普段は料理なんてしないくせにか?」

「食べさせる相手がいると、やる気にもなるんでしょうね」

「……」

 祥子の一言で、洋二は更に不機嫌になった。

「しかし、宇佐奈さんと……美浜さんだったか? お二人にだけお任せするのは気が引けるな」

「あなたは出張、わたしはお友達の結婚式と、予定が重なってしまっていますもの。 これはこちらの都合で変えられませんからね」

「それなら海に行く日程を変更すればいいじゃないか……。 夏休みは長いんだし、車はわたしの物を使えばいいんだから」

「利恵達にだって都合がありますよ。 あなたが考えているほど、子供達は暇じゃないんですから」

 祥子はコーヒーを飲み干すと、腕まくりをして席を立った。

 雛子からもらったコーヒー豆は飲み口がスッキリしており、祥子の好みにピッタリだった。

 たった数回、一緒にお茶を飲んだりしただけなのに、雛子はすぐに祥子の好みに合わせた物を作り上げた。

 きっと、ああいう子と一緒にいれば、利恵も家庭的な事が上達するだろうと祥子は思った。

「いつまでもこの調子じゃ、もらい手が無くなっちゃうものね」

 ちょっと困ったように微笑むと、祥子は利恵が散らかした物を片付け始めた。

 洋二は相変わらず不機嫌な顔をしたまま新聞を広げ、

「来年は絶対に夏休みをとるぞ……!」

 と、一人でぶつぶつと呟いていた……。


 一方、海に向けて快調に走る車の中でも、朝食の時間が始まっていた。

 途中で何か買うか、ファミレスにでも立ち寄ろうかという話しもあったのだが、それでは時間が勿体無いという事になり、

「さあどうぞ、召し上がれ」

 こうして雛子の作った朝食を、車内で摂る事になったのだった。

 アルミホイルに小分けされたおにぎりと、タッパーに綺麗に詰められたおかずの数々は、馨しい香りと共に食欲をそそる。

「ほれ、恭一もお食べ」

「サンキュ。 ……うん、やっぱコンビニのとは一味違うな」

 恭一は助手席の環からおにぎりを一つ受け取ると、左手だけで器用にアルミホイルを開け、旨そうにパクついた。

 車はATなので、こういった事をするには楽である。

 ちなみに恭一の車では全員一度に乗れない為、今回は八人乗りのワンボックスをレンタルして来ている。

「真君はたくさん食べるからと思って大きめに握ったんだけど、食べ切れるかな?」

「楽勝楽勝! それに、旨い物は入る場所が違うのだ!」

 真一郎は雛子から包みを受け取ると、すぐさま開けて、

「いっただきま〜っす!」

 と頬張り始める。

「そりゃアレか? 甘い物は別腹とかいうのと同じようなもんか?」

「おお! おえああおいううおあ、おうえうえいああああ!」

「……何言ってんだか判んねえよ」

 涼は苦笑しながら言った。

 口一杯におにぎりを入れたまま、真一郎は何か言っているのだが、何が何だかサッパリ解らない。

「はい、涼」

 向かいに座った利恵が、にこにこしながら包みを差し出した。

 シートを倒せば対面式に座れる座席なので、こういったイベントの移動にはもってこいの車である。

 さすがに恭一は心得ている。

「ん? 何だこれ」

「朝ご飯に決まってるでしょ?」

「あれ? ヒナが作ったんじゃないのか?」

 明らかに雛子の物とは包みが違う。

 それ以前に、利恵のデイパックから取り出したのだから、雛子が作った物でない事は明白である。

「涼のはわたしが作ったの」

「面倒な事を……。 ヒナにまとめて作ってもらった方が楽だろうに」

 それを聞いて、真一郎と雛子は同時に溜息を吐き、首を小さく左右に振った。

(何で解んねえかな、こいつは……)

(涼ちゃん、相変わらず鈍感だなぁ……)

 涼との付き合いが長い雛子と、まだ日の浅い真一郎の考えが一致するというのは、それだけ涼が解り易い性格という事だろうか?

「へえ……」

 涼の開けたタッパーの中には、見た目には鮮やかと言って良い内容の物が詰められていた。

 雛子の物ほどではないにしろ、そこそこ良い香りも漂って来る。

「なかなかやるな、お前」

「そ、そう? 実は初めて作ったんだけどさ……」

「俺が詰めたんじゃ、こうは行かないからな」

「……詰め方を褒めたのか!」

「当たり前だろ? まだ食ってないんだから」

「しかも、比較対象が涼っていうのが引っかかるわ……」

「細かい事に拘るなよ」

 言いながら、涼は小さめに作られた俵型のおにぎりを一つ手に取り、口の中に放り込んで、

「……」

 そのまま言葉を失った……。

「ど、どうかな?」

「……ちょっと待て、今おかずも食うから」

 感想を求める利恵を制して、涼は再びタッパーに手を伸ばし、アルミカップで小分けにされたおかずを摘んで、口に運び、

「……」

 やはり黙り込んでしまった。

「ねえ、どう?」

「俺は腹減ってるよな? 今日は、まだ何も食ってないんだから……」

「は? そんなの、わたしに訊かれても解んないわよ。 そんな事より、ちゃんと感想聞かせてよ」

「いや、感想を言う為には、ちゃんと食わないといけない訳で……」

「当たり前じゃない」

「俺は腹減ってるよな……?」

 涼はタッパーを抱えたまま、何やら考え込むようにして動かなくなった。

「何だよ涼。 高梨が感想を求めてんだから、何かコメントしてやれよ」

 いつまでもブツブツ言うだけの涼に業を煮やしたのか、真一郎は、

「気の利かない奴だな」

 と言いながら、ヒョイと涼の手にしているタッパーからおかずを一つ摘んで、自分の口に放り込んで……。

「……解った、俺が悪かった」

 と、涼の肩を軽く叩き、お茶をがぶ飲みした。

「真君、コメントは?」

「それは、審査委員長の宇佐奈涼先生にお任せします……」

 逃げやがったな……? と、涼は恨めしそうに真一郎を横目で見た。

 涼の正面では、コメントを今か今かと待っている利恵がいる。

 ハッキリ言って、利恵の作った物はあまり美味しくない……ストレートな表現をすれば不味い。

 しかし、それをダイレクトに伝えて良いものだろうか?

 まあ、常識的に判断すれば、それはあまりにも失礼である。

 何しろ初めて作ったというのだから、その辺りを考慮するのが人としての道だろう……。

「……じゃあ、コメントしてやる。 おにぎりは塩の付け過ぎで塩辛い。 おかずも味付けが濃過ぎるし、鮭は焼き過ぎてて硬い。 要精進、三十点。 以上」

 あくまでも事務的に、抑揚を抑えて涼は言った。

 変にフォローなどしても、真一郎と違って口下手な自分では却って変な風になってしまうだろう。

 涼にとっては、これがベストの選択だったのだ。

「……」

 だが、涼のコメントを聞いた利恵は、黙り込んだまま下を向いてしまった。

(う……やっぱ、コメントとしてマズかったか……?)

 鉄拳が飛ぶか、はたまた蹴りか?

 涼が戦々恐々としていると……。

「よっし! インプット完了!」

 と、利恵がニコニコしながら顔を上げた。

「ありがとね、涼」

「へ?」

 機嫌を損なうどころか、逆に上機嫌な利恵を見て、涼は拍子抜けしてしまった。

「その場凌ぎで見え透いたお世辞言われるより、ハッキリ欠点を指摘してもらった方がいいもん。 そうすれば、次はもっと上手に出来るでしょ?」

「そ、そんなもんか?」

「うん!」

 元気に頷く利恵を見て、前向きだな……と、涼は思った。

 そう言えば、小さい頃の雛子も同じような感じだった。

 まだロクに料理も出来ない頃に作った物を試食させられて、そのあまりの不味さにコメントに詰まり、当たり障りの無い適当な事を言って誤魔化そうとしたら、

「それじゃ参考にならないよ!」

 と、雛子は物凄く怒った。

 その時に、こういった事の感想は正直に言うものなんだなと思ったのを、涼は思い出した。

「じゃあ、それ貸して。 しまっちゃうから」

「え? 何でだ?」

「ヒナちゃんが作ったのを食べてよ。 朝から美味しくない物食べたんじゃ、一日中調子狂っちゃうかもよ?」

「……いいよ、これで」

 そう言うと、涼は塩辛いおにぎりを口一杯に頬張り、もぐもぐと租借して……お茶で流し込んだ。

「無理して食べなくていいよ、涼」

「無理なんかしてねえよ。 それに、無駄にしちまったら勿体無いだろ? せっかく作ってくれたんだし、別に食えねえもんじゃねえんだから……」

「……」

「……あれ? もうお茶がねえや。 ヒナ、そこのお茶取ってくれよ」

「はい」

 横のシートに置いてあった段ボール箱から缶のお茶を取り出し、雛子は嬉しそうに涼に手渡した。

 涼は昔からこうなのだ……ぶっきらぼうで無愛想、そのくせ他人に気を遣う。

 判り難い気の遣い方だから、それが原因で喧嘩になってしまう事もあるが、こういった事は解る人にだけ判ればいいのだ。

「何笑ってんだよ、ヒナ」

「別に?」

 全然変わらない涼が、雛子には嬉しかった。

「……青春してるな」

 後ろのやり取りを聞き、恭一はクスっと笑った。

「うちの子達は可愛いわね〜」

「うちの子達って……お前の子供は涼だけだろうが」

「何言ってんのよ。 雛子ちゃんも利恵ちゃんも、ついでに真ちゃんも琢磨君も、みんな可愛い我が子よ?」

「欲張りな奴だな」

「良い物は独り占めにする。 それがわたしの哲学なのさ!」

「そりゃまた、随分と高尚な哲学をお持ちで……」

 車は快調に、海に向かって加速して行った。

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