第一章
〜永遠の追憶〜第一部は、
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第二部は、
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チーン……と余韻を残す仏壇の鐘の音を聞く度に、宇佐奈涼は不思議な気持ちになる。
どんなに心がささくれ立っている時にも、誰かに 「まあまあ、落ち着けよ」 と諭されているような気がして、何故か気持ちが軽くなるのだ。
「父さん、俺も今日から中学生だよ。 しっかりやるから、安心してくれ……」
目を閉じたまま手を合わせ、今は亡き父、保の遺影に向かって涼は呟いた。
涼が小学三年生の時に交通事故で保が亡くなってから、こうして毎朝手を合わせるのは日課になっている。
それ以外にも事ある毎に、涼はこうして仏壇の前に座り、保に話しかけたりしている。
時々、保の声が聞こえたような気がして振り返ったりする事が今もある。
「父さんの母校なんだよね、翔峡中学……。 勉強の方は自信無いけど、とにかく頑張るよ」
普段は寝癖が付いていたりしてボサボサの髪も、今日はちゃんとクシを入れて整えてある。
真新しい制服にはシワも汚れも無い。
小学生の時には毎日喧嘩や遊びで服を汚したり破ったりしてばかりだったが、さすがに中学進学初日には綺麗で当たり前である。
もっとも、それもいつまでもつか怪しいものだが……。
「さて、そろそろ行くか。 初日から遅刻じゃ格好つかないからな」
涼が腰を上げた時、涼の母、環が仏間のドアを開け、
「ああ涼、丁度良かったわ」
と、顔だけを覗かせて言った。
腰まで伸ばした黒髪はツヤツヤとしていて、しっかりと手入れされているのが見て取れる。
中学生の子供を持つ母親としては、少し派手に思える服を着ているが、実際、環はまだ若い。
涼を身篭ったのが十九歳の時なのだから、それも当然である。
「母さん、何?」
「雛子ちゃんが迎えに来てるわよ」
「ヒナが?」
涼が 『ヒナ』 と呼んだのは、幼馴染の佐伯雛子の事である。
佐伯家は宇佐奈家のお隣さんであり、母親同士の仲の良さも手伝って、家族ぐるみの付き合いが、もう十年以上になる。
まあ、早い話しが涼と雛子の付き合いも、生まれた時から現在まで続いているという事だ。
「何でいちいち迎えになんて来るかな、あいつは……」
「またそういう言い方する」
環は渋い表情を浮かべた。
「わざわざ来てくれてるんだから、ありがとうって言って、一緒に行けばいいでしょうに」
「母さんには解んないんだろうなぁ〜。 こう……何て言うかさ、微妙な男心っていうか、そういう類の物がさ」
「はあ? つまんない事ゴチャゴチャ言ってないで早く行きなさい。 雛子ちゃん、玄関で待ってるんだから」
「嫌だよ。 中学生にもなって、ヒナと一緒になんて行けるかよ。 行くなら勝手に一人で行けって……」
涼が全て言い終わらない内に、つかつかと仏間に環が入って来たかと思うと、まさに目の覚めるような一撃が涼の後頭部に入り、パシーン! と小気味良い音を立てた。
「いってえ〜……。 何すんだよ、いきなり!」
「お黙り!」
環は一喝すると、
「何て冷たい事を言うんだ、お前は! この恩知らずっ!」
と、更に一撃を加えそうな勢いで言った。
「何がだよ!」
叩かれた後頭部に手をやりながら、涼は言った。
涼にしてみれば理由も告げられず、いきなり叩かれたのだから納得のしようが無い。
だが、環の 『口撃』 は涼の抗議で止むどころか、更に激しさを増して行く。
「何がじゃない! お前ね、夏休みも冬休みも宿題が終らないって泣きを入れた時、誰に助けてもらったんだ! わたしが地方講演で家に帰れなかった時、風邪ひいてウンウン唸ってたお前を一晩中、一睡もしないで看病してくれたのは誰だ! お前が大喧嘩して全身傷だらけになって帰って来た時、泣きながら心配してくれたのは誰だ! 感謝と尊敬の念を持って、その人の名を言うてみいっ!」
「そ、そりゃあヒナだけど、それとこれとは話が……」
「違わない!」
環は更に一歩前へと踏み出し、涼の顔に思い切り自分の顔を近付けると、
「中学最初の登校よ? 記念すべき第一歩よ? それをお前みたいな、ごく潰しのロクでなしと一緒に踏み出してくれようってのよ? 心の底からありがたいと思いなさい!」
と、本心から言った。
「そ、それが実の息子に向かって言う言葉かあっ!?」
「何が実の息子だ。 お前みたいなのがそうかと思うと、母さん情け無くて涙が出そうだわ。 お父さんも草葉の陰で泣いてることだろうね!」
「そこまで言うか? 普通……。 とにかく、俺はヒナと一緒になんて行かな」
最後の一言が涼の口から出る前に、ゴン! という鈍い音と共に、環の一撃が再び涼の頭を襲った。
今度はグーでの攻撃だった為、先程の物とは威力が段違いである。
「いててて……。 ぼ、暴力反対!」
「わたしが優しく言ってる内に、さっさとお行き」
「どこが優しいんだ、どこが……」
涙目で頭を摩りつつ、精一杯の抗議を試みる涼の頭の中には、生前の保が言っていた 『母さんを本気にさせるな』 という言葉が蘇っていた。
もうそろそろ逆らうのをやめにしないと、確実に今よりも痛い思いをする事になるだろう。
「……行って来ます」
「うむ、よろしい。 最初からそうやって、素直にしてればいいのよ」
ふふんと勝ち誇る環とは対照的に、涼の方は頭を押さえたまま、苦虫を噛み潰したような表情になっている。
悔しいとは思っても、例え涼が全力を出そうが不意を突こうが、環には全く歯が立たないのだ。
若い頃には地元のチンピラに 『無敵の鬼神』 とまで言われて恐れられていた保でさえ、環には逆らう事が出来なかったというのだから、環の本気がどれ程の凄まじさか、想像に難くない……。
「あ、あの……」
「ん? あら、雛子ちゃん」
環が振り返ると、仏間の入り口から申し訳無さそうに中を覗き込んでいる雛子の顔が視界に入った。
黄色いリボンでポニーテールに結い上げた髪は、小学生の頃からの雛子のトレードマークだ。
元々身長が低いのに、身体を縮めるようにしているので更に小さく見える。
「えと……涼ちゃんがなかなか出て来ないから、何かあったのかと思って心配になって、その……」
ちょっとタレた感じがする大きな瞳が、涼をじっと見ている。
先程まで雛子と一緒に行くのを嫌がっていた涼だったが、その視線に捉えられると、何故か嫌だと言えなくなってしまった。
子供の頃からいつでもそうだった。
雛子が瞳をウルウルさせて 『ごめんね』 などと言った日には、涼は一切の抵抗力を奪われてしまうのだ。
「ごめんね〜、いつまでも待たせちゃって。 このグズが朝っぱらからわたしに甘えるもんだから」
そう言うと、環はとびきりの笑顔を浮かべて雛子に抱き付き、スリスリと頬擦りをし始めた。
これは雛子が子供の頃からされている、恒例の 『ご挨拶』 である。
小さい頃の涼は、環が雛子にばかりこれをやるので、少しヤキモチを焼いた程だ。
「こんな馬鹿の事を気にかけてくれるなんて、何て優しい子なんでしょう。 環ちゃんは感動の涙で前が見えなくなりそうだわ〜……」
「お、おば様ったら……」
「何が環ちゃんだ。 前が見えないのは老眼だろ」
涼としたら聞こえないくらいの小声で言った筈なのに、環の耳にはしっかりと届いていたようで……。
「……なあに? 涼。 若くて優しくて、その上こんなに美しいママに、何かお話ししたい事があるのかな?」
「行くぞヒナ!」
「え? あ!」
にっこりと微笑む環に最高の恐怖を感じ取った涼は、即座に雛子の手を引いて仏間から飛び出した。
何が何だか解らないまま涼に手を引かれながらも、
「おば様! 行って来ます!」
と、雛子はきちんと挨拶をした。
生真面目な性格は、どんな場面でも発揮されるようだ。
「はい、行ってらっしゃい」
環はその様子を、優しげな笑みを浮かべつつ見送っていた。
そろそろ中学校が見えるくらいの場所まで、二人は歩いていた。
と言っても、家から学校までは然程離れていないので、大した距離ではない。
しかし、それでも数分は経ったというのに、涼はまだ自分の頭を摩り続けていた。
どうやら相当に環のゲンコツが堪えているようだ。
「ちくしょう……まだ頭が疼くぞ。 くそババアめ、本気で殴ったな?」
「またそういう言い方する……。 『お母さん』 でしょ?」
軽く涼をたしなめる雛子の、ポニーテールに結った髪がピョンと揺れた。
歩くのが速い涼と歩調をあわせようとすると、どうしても雛子は早歩き状態になってしまうのだ。
「本人の目の前では言えないんだから、せめて離れた場所でくらい言わせてくれよ」
「もう……。 でも、さすがの涼ちゃんも、おば様には勝てないんだね」
「あの豪傑親父がビビったくらいだからな、俺なんかが太刀打ち出来る訳ねえよ」
「そうなの? わたし、優しいおば様しか見た事無いなあ」
「ああいうのを外面がいいって言うんだ」
「悪いよ、涼ちゃん」
雛子は楽しそうに、クスクスと笑った。
何だかんだと言いながらも、涼が本心では環を嫌っていないという事を知っている雛子には、その悪態も可愛い物に思えた。
生前の保に対しては、涼は平然と 『くそじじい!』 と言い放っていたものだが、保に比べて環が強いからというばかりでなく、息子から母親に対する、一種の 『遠慮』 という物もあるのだろう。
「ねえねえ! ちょっといいかな?」
二人が校門に差し掛かろうかという時、同じ制服を着た男子生徒が話し掛けて来た。
涼よりも少し背が高く、体つきもガッチリした感じだ。
髪質が硬いのか、短く刈られた髪がツンツンと跳ねている。
「ん? 何だ?」
「いや、君じゃなくて、そっちの可愛い女の子」
男子生徒は、雛子を指差して言った。
「わたし? えと……何ですか?」
「見たところ同じ学校の生徒みたいだね、これも何かの縁だと思わない?」
「は?」
どうやら雛子をナンパしているらしい。
実際、雛子の見た目は平均レベルを上回っているのだろう。
本人が落ち着いた性格の為か、実年齢よりも上に見られるらしく、街中でもしょっちゅう声をかけられたりしている。
普段なら、こういう手合いは問答無用で殴り飛ばしているところだが、不思議と涼は、この男子生徒に嫌悪感を感じなかった。
「お前さ、校門の近くに立ってて、その台詞は変じゃねえか? この時間帯にここへ来るのなんて、この学校の生徒に決まってるし」
「あのね……俺は君じゃなくて、この子に用なの。 ちょっと黙っててくんない?」
「……だとさ」
「はあ……。 それで、ご用件は何ですか?」
「名前教えて」
ニコニコしながら男子生徒は言った。
何となく憎めない、まるで子供のような、屈託の無い笑顔だった。
「他人に訊ねる前に、自分が名乗るのが礼儀じゃねえかな?」
「これから同じ学校に三年間通うわけだし、楽しい学校生活を送る為には、友達をたくさん作る事が大事だと思わない?」
「お前の場合は、それ以上に敵を作りそうな気がするな、うん」
「ついては住所やら電話番号やら、色々と交換し合うというのも、また大事なコミュニケーションだと……」
「俺は思わないけどな。 少なくとも初対面の馬鹿に、そんなに気軽に教えられる訳も無い」
それでも涼にはその男子生徒の行動が面白くないのか、結局、男子生徒が雛子と話しをするのを邪魔している。
最初は涼を無視して雛子に話しかけていたのだが、やはりいちいち何か言う涼が邪魔なのだろう。
身体ごと涼の方に向き直ると、
「お前、さっきから本当に煩いな……。 喋りたくても喋れないようにしてやろうか?」
指をボキボキと鳴らしながら男子生徒は言った。
先程までのにこやかな顔が嘘のように、表情が無くなっている……まるで別人だ。
しかし、涼にとってはいつも通りの展開なので、ニヤリと笑って、
「……ふうん? 面しれえ冗談だな、お前ギャグのセンスあるぜ」
と、更に男子生徒を挑発し始めた。
既に拳は軽く握られていて、戦闘態勢は整っている。
「こらっ!」
涼が先制の一撃を繰り出す寸前に、雛子はその拳を押さえた。
長年、涼のケンカを見て来た雛子には、涼の挙動は手に取るように判るのだ。
と言うより、涼が全く進歩していない事の証明と言った方が早いか。
「涼ちゃん、喧嘩なんてしちゃ駄目! せっかくの入学式なのに、制服汚したらどうするの?」
「え? 涼ちゃんって……」
涼を抑えた雛子を見て、男子生徒の顔は、何か憑き物が落ちたように穏やかになった。
「下がってろヒナ。 お前に下らねえチョッカイかける奴は俺がブチのめすっ!」
「涼ちゃんっ!」
「あ……な〜んだ、そうだったのかあ。 いや、ごめん!」
そう言って、男子生徒はペコッと頭を下げた。
その顔は、最初に声をかけて来た時よりもニコニコしている。
「へ? な、何だよ急に。 調子狂うなあ……」
「いやいや、二人がそういう仲とは知らなかったもんだからさ」
「あの、そういう仲って……?」
雛子も、男子生徒の変わり様に面食らったのか、大きな目をパチパチして訊き返している。
「恋人にチョッカイ出されりゃ頭に来るよな、悪い悪い」
「こっ、恋人ぉっ!?」
涼と雛子は、同時に驚きの声を上げた。
確かに小学生時代に散々冷やかされたりはしたが、 『恋人』 という単語を使われたのは、これが初めてだったのだ。
「おお! 見事なユニゾン! こりゃあ、かなり長い付き合いと見た! ク〜ッ……羨ましいぜ! 俺も早く彼女作ろうっと」
「ま、待て! 誤解するな! ヒナは彼女じゃねえっ!」
「そ、そうだよ! わたし達、幼馴染なんだから!」
「何と! じゃあ、小さい頃からず〜っと一緒ってか? んでもって、これからもず〜っと一緒と……ますます羨ましい〜っ!」
「人の話しを聞けっつーの!」
「はははははは! ちゃんと聞いてるって、冗談だよ」
「まったく……」
すっかり毒気を抜かれてしまった涼は、ただ頭を掻くしかなかった。
どうもこの男子生徒の相手は調子が狂ってしまう。
言っている事が本気なのか冗談なのか、区別が付け難いのだ。
「そうそう、まだ名前を言ってなかったっけ。 確かにお前の言う通り、自分から名乗らなきゃな。 俺、掃部関真一郎ってんだ、よろしく!」
「宇佐奈涼だ、よろしくな」
「佐伯雛子です。 よろしくね、掃部関君」
「雛子ちゃんか〜……可愛い名前だね。 あ、俺の事は 『真』 って呼んでくれればいいよ」
「真君ね? わかった」
気付いてみれば、すっかり真一郎のペースで事が運ばれている。
だが涼にとって、それは決して不快な物ではなかった。
むしろ面白い奴だと好感を持ったくらいである。
こんな事は初めてだった……。
「んじゃ行こうぜ、涼!」
「おいおい、いきなりかよ」
「宇佐奈君って呼んだ方がいいか? それとも雛子ちゃんと同じく、涼ちゃんで行くか?」
「……気持ち悪いから涼でいいよ。 俺も真って呼ばせてもらうから」
「そうしてくれ。 何だか、お前とは心の友になれそうな気がするな〜」
「心の友って……」
「プッ……」
思わず吹き出した雛子につられて、涼と真一郎も笑ってしまった。
穏やかな春の陽射しが、三人を優しく包んでいた……。