死刑囚の手から、最後に金色の光がこぼれた
これは、一人の牢番が生涯背負うことになった、ある「鎖」の物語です。
王都イーヴェルンの地下深く、陽の光が一度も届いたことのない場所に、その回廊はあった。
石畳はいつも濡れているような灰色をしていた。壁に掛けられた燭台の炎は弱く、
伸びた影は、どこまでも人の足元についてきた。
囚人たちは、そこを「灰色回廊」と呼んだ。
死を待つ者が、最後に歩かされる道だった。
牢番リアン・ヴォスがこの職に就いたのは、二十二歳のときだった。
故郷の村が飢饉に見舞われ、家族を養うために王都へ出てきた。
王立監獄の牢番という仕事は、決して誇れるものではなかったが、
毎月、確かな給金を運んできた。
最初の数か月は、鎖の音や、夜ごと聞こえてくる囚人たちの怨嗟に眠れないこともあった。
だが、人はどんな場所にも慣れてしまう。
やがてリアンは、叫び声を聞き流し、鉄格子を閉め、
決められた時間に食事を運ぶことを、ただの仕事としてこなすようになった。
牢番の腰には、いつも二本の鍵と一本の短い鎖が下がっていた。
鎖は、囚人を移送するときに使う。
重い鎖だった。
若い頃のリアンは、その重さが嫌いだった。
だが、年月が経つにつれ、それもまた仕事の一部になった。
鎖を持つ者が歩く方向を決め、囚人はその後ろを歩く。
それだけのことだと思っていた。
その男が連れてこられたのは、雪の匂いが石壁の奥にまで忍び込む、冬のはじめのことだった。
名をガレンといった。
人並み外れた巨躯で、両手を鎖で縛られていても、その歩みには、
看守たちが無意識に距離を取るほどの迫力があった。
罪状は、隣村の幼い姉妹を殺めたこと。
森の小道で、姉妹の亡骸を抱いているところを旅人に発見された。
旅人の通報を受けて駆けつけた村人たちに取り押さえられ、そのまま王都へ送られたという。
証言も、状況も、すべてがガレンを犯人だと示していた。
ただ、ひとつだけ妙なことがあった。
現場に残されていた凶器が、見つかっていなかった。
「そんなもの、なくても判決には困らん」
上役の牢番は、そう言った。
「目撃者がいる。血のついた手で死体を抱えていた。十分だ」
リアンも、それ以上は考えなかった。
初めて独房へ入れた夜、リアンは正直、恐ろしかった。
あれほどの体躯の男が、幼い子どもを二人も手にかけたのだ。
獣にも劣る所業だ。
そう思いながら、リアンは鉄格子の向こうにいる大きな背中を睨んだ。
けれどガレンは、格子の隙間から漏れる灯りの中で、膝を抱えて座っているだけだった。
その横顔には、怒りも憎しみもなかった。
ただ、深い哀しみだけがあった。
「怖がらなくていい」
低い声だった。
けれど、驚くほど穏やかだった。
「わしは誰も傷つけたりしない」
リアンは信じなかった。
信じられるはずもなかった。
異変が起きたのは、それから半月ほど経った頃だった。
同僚の牢番、オズワルドが長年患っていた腰の痛みに耐えかね、回廊の途中でうずくまった。
「もう、歩けん……」
脂汗を浮かべ、歯を食いしばっている。
その様子を独房から見ていたガレンが、鉄格子越しに手を伸ばした。
「触れさせてくれ」
リアンは眉をひそめた。
「何をする」
「痛みを取ってやれる」
半信半疑のまま、リアンはオズワルドを格子のそばまで運んだ。
ガレンの大きな手のひらが、オズワルドの腰にそっと触れた。
その瞬間、淡い金色の光が、ガレンの指の間からこぼれた。
蛍の群れのように小さく明滅しながら、光はオズワルドの身体へ染み込んでいった。
オズワルドは目を見開いた。
やがて、ゆっくりと立ち上がる。
「……痛くない」
何度も腰に手を当てる。
何年も彼を苦しめてきた痛みが、跡形もなく消えていた。
リアンは言葉を失った。
目の前にいる男が、分からなくなった。
人を殺めた男が、どうしてこんな力を持っているのか。
いや。
そもそも、この男は本当に人を殺したのだろうか。
オズワルドは、しばらく腰に手を当てたまま動かなかった。
それから、ガレンを見た。
「……この力で、あの子たちも?」
ガレンは目を伏せた。
「間に合わなかった」
それだけだった。
三日後、オズワルドが古い記録を持ってきた。
「これを見ろ」
事件の起きた村から王都へ送られた移送記録だった。
そこには、ガレンの名のほかに、村から届いた急使についての記述があった。
その下には、短い一文。
――被疑者、村内に身寄りなし。
オズワルドは紙を指で叩いた。
「妙だと思わんか」
リアンは答えなかった。
記録には、本来あるはずの村人への聴取欄がなかった。
その部分だけが、不自然なほどきれいに空いていた。
「調べる」
オズワルドが言った。
「やめておいたほうがいい」
リアンの口から、思わず言葉が出た。
オズワルドが振り向いた。
「なぜだ」
リアンは答えられなかった。
家には病弱な母がいる。
妹もまだ嫁いでいない。
毎月送っている金が途切れれば、暮らしはすぐに立ちゆかなくなる。
それを口にすれば、自分が何を恐れているのか、はっきりしてしまう気がした。
その夜、リアンは腰の鎖を外して机の上に置いた。
鎖は、いつもより重く感じられた。
それから、ガレンとも少しずつ言葉を交わすようになった。
ガレンは訥々と、あの日のことを話した。
森の小道で泣いている姉妹を見つけた。
妹はすでに息がなく、姉も虫の息だった。
ガレンは二人を助けようとした。
けれど間に合わなかった。
姉妹を抱いているところを、旅人に見つかった。
ガレンの手には、姉を救おうとしてついた血が残っていた。
それが「凶行の証拠」とされた。
「わしの手は、人を癒やすためにあると思っていた」
ガレンは膝の上に置いた両手を見つめた。
「だが、誰も信じてはくれなかった」
しばらく黙ったあと、静かに続ける。
「この手のせいで、わしは化け物と呼ばれる」
リアンは何も言えなかった。
金色の光を見た今では、その言葉を嘘だとは思えなかった。
だが、信じることと、救うことは別だった。
数日後、オズワルドが宿帳の写しを手に戻ってきた。
「事件の前夜だ」
オズワルドが紙を差し出した。
村の地主の息子が王都へ向かったという記録だった。
その名の横には、家紋まで記されていた。
リアンは、その紋章を知っていた。
監獄長の指輪に刻まれていたものと、同じだった。
「監獄長に話す」
オズワルドが言った。
リアンはしばらく黙っていた。
「……俺も行く」
二人で監獄長の部屋へ向かった。
監獄長は宿帳を見るなり、顔を上げた。
「もう調べるな」
「ですが――」
「その家には、この監獄の建設費を出してもらっている」
監獄長は指輪を外すこともなく、暖炉の火を見つめた。
「ここで判決を覆せば、監獄そのものが危うくなる」
「ガレンは無実かもしれないんですよ」
「かもしれない、だ」
監獄長はリアンを見た。
「お前は家族を養っている。私も同じだ」
その言葉で、リアンは黙った。
監獄長は宿帳の写しを手に取った。
しばらく眺めていた。
そして、暖炉へ放った。
紙の端が赤く燃えた。
「処刑は予定通りだ」
炎が紙を食べていく。
リアンは立ったまま、それを見ていた。
監獄長は、もう二人を見なかった。
部屋を出たあと、廊下でオズワルドが足を止めた。
「リアン」
「なんだ」
「お前は、あの男を助けたいと思っているか」
リアンは答えなかった。
しばらくして、腰の鎖に手を触れた。
「……思ってる」
「なら――」
「でも、怖い」
オズワルドは黙った。
やがて、自分の腰に下げた鍵を見た。
「俺もだ」
それだけ言って、歩き出した。
処刑の朝、灰色回廊は深い霧に包まれていた。
リアンはガレンを絞首台まで導く役目を負った。
鎖を握る手が、ひどく重かった。
何度も口を開きかけた。
言ってしまえばいい。
俺は真実を知っている。
お前は無実だ。
だが、その言葉を口にしたところで、絞首台が消えるわけではない。
家族を守れる保証もない。
それでも言うべきだ。
そう思う自分と、黙っていろと囁く自分がいた。
リアンは、また黙った。
隣を歩くガレンは、静かだった。
しばらくして、ぽつりと言った。
「怖くはない」
リアンは顔を上げた。
「わしはただ、あの子たちを助けられなかったことだけが心残りだ」
リアンの喉が詰まった。
真実を知っている。
それなのに何もできない。
そのことが、鎖よりも重く胸にのしかかった。
絞首台への階段を前にしたとき、ガレンが足を止めた。
「ひとつだけ、頼みがある」
リアンが振り返る。
「わしが死んだら、この手のことは忘れてくれ」
ガレンは自分の両手を見た。
「誰かを助けたいと願ったことも、光のことも」
そして、少し笑った。
「ただの大男が、罪を犯して死んだ。それだけを覚えていてくれればいい」
「なぜ……」
「そのほうが、お前は楽に生きられる」
リアンは答えられなかった。
涙が頬を伝った。
ガレンはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、階段を上った。
一段。
また一段。
リアンも、その後ろをついていった。
最後の階段を上る直前、ガレンがふと振り返った。
リアンの手元にある鎖を見た。
そして、ほんの少しだけ笑った。
鎖の隙間から、淡い金色の光がこぼれた。
一瞬だった。
リアンが目を凝らしたときには、もう消えていた。
それが何だったのか、リアンには分からなかった。
ただ、あの男が最後まで誰かを憎まなかったことだけは分かった。
その日から、長い年月が過ぎた。
リアンは牢番を辞め、王都を離れた。
年老いた今は、森の近くの小さな村で静かに暮らしている。
それでも冬になると、ときどき雪の匂いがする夜がある。
そんな夜には、あの回廊が浮かぶ。
濡れたような灰色の石畳。
薄暗い燭台。
鎖の音。
そして、あの大きな手からこぼれた金色の光。
忘れてくれ、とガレンは言った。
だが、忘れることなどできなかった。
歳月が過ぎるほど、あの日のことは鮮明になった。
リアンは窓辺に立ち、雪の降る暗い庭を眺める。
誰もいない。
誰に聞かせるためでもない。
それでも、毎年同じ夜になると、彼は小さく呟く。
「すまなかった」
目を閉じると、あの日の回廊が浮かぶ。
灰色の石畳。
その上を歩く、大きな背中。
両手を鎖につながれたまま、それでも最後まで誰かを憎むことのなかった男。
リアンは、あの日、握りしめていた鎖の重さを思い出す。
若い頃は、それを囚人を縛るためのものだと思っていた。
今になって分かる。
あの日、鎖を握っていたのは、自分のほうだったのかもしれない。
窓の外で、雪が降っている。
リアンは老いた手を見つめた。
あの日、ガレンの手からこぼれた光を、もう一度だけ見たかった。
その願いを、口にはしなかった。
ただ、老いた手をゆっくり握りしめた。
雪は、何も知らないように降り続いていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。




