7話:信じるに足る
トビアスが来て三日目。領地を案内することにした。
加工の計画を立てるにしても、この土地の全体像を知ってもらう方が早い。セバスには館の留守番を頼み、トビアスと二人で歩いた。グレンは少し離れてついてくる。
朝の空気は冷たい。でも、三ヶ月前の陰鬱な冷たさとは違う。道が通って、人が歩いて、空気が動いている。
最初に畑に寄った。
老婆が鍬を振っていた。腰は曲がっているが、腕の振りは衰えていない。こちらに気づくと、鍬を止めた。
「お嬢。また新しいのを連れてきたのかい」
「薬師よ。薬草の加工を手伝ってもらうの」
老婆がトビアスを上から下まで見た。
「ひょろいね。飯、食ってるかい」
「は、はい。いただいております」
「嘘おつき。その頬のこけ方は、ろくに食ってない顔だよ」
トビアスが返事に困っている。老婆は畑の端に行って、泥のついた蕪を三本引き抜いてきた。
「持ってきな。煮るなり焼くなり好きにしな」
「あの、いただくわけには——」
「いいから取りな。お嬢が連れてきた人間なら、うちの蕪くらい食わせるよ」
トビアスが蕪を受け取った。断る隙を与えない老婆だ。
「おばあさん、畑の調子は」
「悪くないよ。水路を直してもらってから、だいぶ楽になった。前は——」
老婆が鍬の柄に手を置いた。
「前はね、畑を耕しても半分は虫にやられてた。水が足りないから。でも今は水が来るから、虫もつきにくい。当たり前のことなんだけどね。当たり前のことを、誰もやってくれなかったんだよ」
当たり前のこと。水路を直したのも、帳簿の数字で優先順位をつけた結果だ。でもこの人にとっては「水が来た」、それだけのことなのだろう。
「おばあさん、息子さんから手紙は?」
老婆の表情が変わった。目尻の皺が深くなる。
「来たよ。春には戻るかもしれないって」
「よかった」
「まだ分からないよ。あの子は口ばっかりだから。でもまあ——」
鍬を握り直した。
「帰ってこられる場所があるってのは、大事なことだからね」
「行くわね。蕪、ありがとう」
「お嬢も食いな。あんたも痩せてるよ」
***
畑を離れて、修繕が終わった井戸の方に歩く。
道沿いで、若い男が石を積んでいた。家の塀を直しているらしい。こちらに気づいて手を止めた。住民集会で腕を組んで斜に構えていた男だ。
「領主様。塀、直していいですか。自分の家なんですけど」
「もちろん。資材が要るなら言って」
「いや、石はそこらに転がってるんで。ただ——漆喰が足りなくて」
「セバスに言っておくわ。次の調達に入れる」
「……ありがとうございます」
ぎこちない礼。まだ慣れていないのだ。頼みごとをすること自体に。
男が作業に戻った後、トビアスが小声で言った。
「あの人、前は手伝いに来てなかったんですか」
「最初は来なかった。腕を組んで様子見してたわ」
「今は自分の家を直してる」
「ええ。直す価値のある場所だと思えたんでしょう」
トビアスが黙った。何か考えている顔だった。
何気なく、領地を鑑定した。
【アーレン領】
現在価値:750
潜在価値:2,800
750。着任時の12から、随分遠くまで来た。
***
井戸のそばのベンチで休んだ。トビアスと並んで座る。グレンは少し離れた木陰に立っている。
「トビアス、この領地をどう思う?」
「正直に言っていいですか」
「どうぞ」
「驚いています」
トビアスが領地を見渡した。畑。直しかけの塀。広場で荷を仕分ける住民たち。
「殿下からは、辺境の荒れた領地だと聞いていました。実際、まだ発展途上だとは思います。でも——」
言葉を選んでいる。
「帳簿を見た時も思いましたが、仕組みが整っている。採取から出荷、住民の雇用、食料の調達。全部が繋がっていて、無駄がない。それを作った人間が、住民に蕪をもらって『ありがとう』と言っている」
「蕪くらいもらうわよ。断ったら怒られるし」
「そういうことではなくて」
トビアスがこちらを見た。
「仕組みを作る人間は、たいてい仕組みの外にいるものです。王都でも、ギルドでも。でもアイリス様は仕組みの中にいる。住民と同じ場所に立っている」
言い過ぎた、と思ったのか、トビアスが目を逸らした。
前の居場所で言われた言葉がよぎった。「やり方が冷たい」「人の気持ちが分からない」。
「……買いかぶりよ。私は数字を並べてるだけ」
「その数字に、人が動かされているんだと思います」
答えなかった。答え方が分からなかった。
***
夜。
執務室で帳簿に向かっていた。トビアスの加工計画を事業に組み込むための収支の再設計。グレンが壁際にいる。いつもの配置。
修繕費の明細を整理していた。山道の補修。広場の石畳。井戸。塀の漆喰。項目ごとに積み上げて、予算との差分を確認する。
合わない。
山道の補修に使った木材の数が、購入記録より多い。帳簿上は木材を三十本購入している。だが実際に補修された区間の長さから逆算すると、三十本では足りない。
「……どこかで計上漏れがあるわね」
帳簿をめくる。購入伝票を確認する。三十本。間違いない。でも現場は三十本以上使っているはずで——
「住民が、自分の薪を持ち寄っていました」
手が止まった。
グレンだった。壁際から、こちらを見ている。
「北側の斜面の補修の時です。足りないと分かって、近くの住民が家の薪を出した。四、五本だったと思います」
巡回で見ていたのだ。帳簿ではなく、現場を。
「帳簿には載りません。金銭の支出がないので。ですが、実際には使われています」
帳簿に載らない資材の移動。購入記録だけ見ていたら永遠に合わない。
「……ありがとう。住民の持ち出し分も記録に残しておくわ」
「はい」
グレンの灰色の瞳がこちらを向いていた。いつもなら視線が合った瞬間に外れる。今日は違った。小さく、頷いた。
それから定位置に戻った。
帳簿を修正する。住民提供分の木材を備考欄に記載。数字が合った。
ペンを置いて、ふと隣を見た。グレンは定位置に戻っている。いつもの壁際。いつもの姿勢。
でも、さっきまでとは何かが違う気がした。
***
翌朝。
トビアスが執務室に来た。手に小さな壺を持っている。
「アイリス様。試作品ができました」
蓋を開けた。澄んだ薬草の香り。色は薄い緑。指先で触れると、質感が滑らかだった。
「昨日の夜、配合を調整して。冷却の速度を変えたら、かなり良い仕上がりになりました」
トビアスの顔に、疲れと一緒に充実感が浮かんでいた。仕分け係の顔ではない。自分の腕で作ったものを差し出す、職人の顔だ。
「これなら市場に出せるわね」
壺を手に取って、頭の中で数字が走り始める。原材料の歩留まり。製造工程の時間。軟膏一壺あたりのコスト。売値との差額。月産量に換算したら——
「トビアス。量産するなら工程を数字に落としてほしいの。温度、時間、配合比率。全部」
「数字に、ですか」
「あなたの感覚に頼ると、あなたがいない時に品質が落ちる。再現性がないと事業にならないの」
トビアスが少し目を丸くした。それから、頷いた。
「分かりました。工程表を作ります」
「原材料の歩留まりも記録して。レムリア草何グラムから軟膏が何壺取れるか、正確に」
「……帳簿の方ですね、それは」
「何事も数字よ」
トビアスが笑った。小さく、だけど確かに。
「港町で売り先を探しましょう。ロッソ商会なら軟膏も扱えるはず」
壺を机に置いた。試作品の隣に帳簿を開く。数字を書き始める。
三百五十の男が作った、最初の一壺。ここから事業の第二段階が始まる。
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