5話:見えない答え
ドルトンを追い返してから、十日ほどが経った。
領地は少しずつ形になり始めていた。薬草の出荷は順調に回り、食料も港町経由に切り替わった。手伝いに来る住民は三十人を超えた。
ただ、私が全部やっている。
採取量の管理。出荷の記録。日当の計算。食料の在庫。支出の承認。朝から晩まで帳簿に向かって、合間に現場を見て、戻って帳簿。このままでは回らなくなる。
「セバス、今日から日々の収支記録はあなたに任せるわ」
「私に、ですか」
「あなたにしか頼めない」
一時間かけて基本的な記帳のやり方を教えた。収入の欄、支出の欄、残高の計算。項目の分類。
セバスは真剣にメモを取っていた。質問も的確だ。「日当と材料費は分けた方がよいですか」「端数はどう処理しますか」。実務の感覚がある人間の質問だった。
夕方、初日の記録を持ってきた。丁寧な字。数字は正確。形式に癖はあるが、赤を入れれば直る。一週間もすればものになる。
翌朝。何気なく、セバスを鑑定した。
【セバス】
現在価値:510
潜在価値:950
510。昨日まで450だった。60上がっている。
帳簿を任せたことが、セバスの現在価値を押し上げた。仕組みが見えた。現在価値は固定じゃない。正しい場所に正しい人を置けば、数字は上がる。
自然と、視線がグレンに向いた。
【グレン・ファルクス】
現在価値:700
潜在価値:9,999
700。変わっていない。
でも潜在は9,999。正しい役割を与えれば引き出せるはず。
問題は「何の」潜在か分からないこと。
やれることはある。仮説を立てて、一つずつ試す。
***
仮説A。戦闘とセキュリティの才能。
グレンの700は騎士としてそこそこ優秀な数字だ。もし潜在が戦闘寄りなら、実力を発揮する環境に置けば動くはず。
「グレン、頼みがあるの」
「何でしょうか」
「領地全域の巡回を任せたい。山道、街道、領地の境界線。住民の安全確保と、異常がないかの確認」
グレンが少し間を置いた。
「護衛ですから、お傍を離れるのは——」
「領地を守ることも護衛の範囲よ。それと、ついでに鉱山跡も見てきてほしいの。帳簿上はもう閉山してるけど、実際の状態を確認したい」
「……分かりました」
グレンが出ていった。夕方、戻ってきた。
「北の山道に獣の痕跡が二箇所。追い払いました。街道と境界線には異常なし」
「鉱山跡は?」
「坑道の入口は崩れています。人の気配はありません。少なくとも半年以上、誰も立ち入っていない様子でした」
人の気配なし。半年以上。
帳簿には毎月「管理費」が計上されていた。人がいないのに。送金だけが動いている。帳簿で見た数字の裏付けが、現場から取れた。
——それはそれとして。
鑑定する。700。変わらない。
巡回は完璧にこなした。報告も的確。だが、数字は動かなかった。セキュリティは「正しい場所」ではないらしい。
***
仮説B。統率・指揮の才能。
翌日。薬草の採取班に、グレンを指揮役として入れた。
「今日は採取班のまとめ役をお願いしたいの」
グレンの眉がわずかに動いた。得意ではないのが分かる。
「護衛の延長で、山道での安全管理も兼ねてるから」
渋々引き受けた。
山から戻ってきた採取班に聞くと、「指示は的確だった」「無駄がない」「ただ、怖い」とのこと。最低限の言葉で的確に動かすが、それ以上のことはしない。人を鼓舞する類の統率ではない。
鑑定。700。動かない。
***
仮説C。知識。
夜。執務室で帳簿を広げながら、グレンに話を振った。
「近衛にいた時、部隊の予算管理とか見たことある?」
「いえ。末端でしたので」
「武器の調達は? 補給の仕組みとか」
「上から支給されるだけでした」
「王都の商業区の相場感とかは——」
「……興味がありませんでした」
会話が続かない。
三つ試して、全部空振り。
戦闘でもない。統率でもない。知識でもない。セバスの時は因果が明確だった。帳簿を任せたから上がった。グレンは何をしても動かない。
(……焦っても仕方ないか)
棚上げ。ただし、諦めてはいない。
***
帳簿に戻った。
領地全体の帳簿体系はまだ私にしか作れない。前の代官の帳簿は不正だらけで使い物にならなかったから、項目の立て方から全部やり直す必要がある。
蝋燭の灯りの下で紙を広げる。収入の柱。支出の構造。将来的に必要になる投資。一つひとつの数字に根拠を置く。
気づけば、没頭していた。帳簿に向かっている時、余計なことを考えなくていい。数字は感情を持たない。正しく積み上げれば、正しく積み上がる。
「……なぜ、そこまでするんですか」
手が止まった。
グレンだった。執務室の隅から、こちらを見ている。
出会ってから初めて、この男が自分から質問をした。
「何が?」
「流刑です。適当に暮らせばいい。なのに」
「……私ね、数字が好きなの」
「数字」
「帳簿が合った時、計画通りに利益が出た時、すごく気持ちいいの。パズルのピースがハマるみたいで」
グレンは黙っている。理解できないという顔だ。普通の人間は帳簿が合って興奮しない。
「それに——」
窓の外を見た。月明かりが荒れた領地をぼんやり照らしている。
「見捨てられるの、嫌いなのよ。自分がそうだったから」
少し後悔した。言い過ぎた。
「……とにかく、そういうこと。邪魔しないでくれるだけでいいわ」
帳簿に目を戻す。
長い沈黙の後。
「……もう遅いです。体を壊します」
ぼそりと。精一杯の気遣い、なのだろう。たぶん。
「もう少しだけ」
グレンはそれ以上何も言わなかった。ただ、部屋を出ていかなかった。
蝋燭が二本目に変わるまで作業を続けた。グレンはずっとそこにいた。
***
翌朝。
グレンが朝の報告に来た。
「……異常ありません」
何気なく、鑑定した。
【グレン・ファルクス】
現在価値:850
潜在価値:9,999
——850。
昨日まで700。150上がっている。
巡回でも指揮でも知識でも動かなかった数字が、一晩で150。
何が原因か分からない。仮説の検証を打ち切って、帳簿の再構築をして、遅くまで作業して——グレンと少し話して——それだけだ。
セバスの60でさえ「帳簿を任せた」という明確なトリガーがあった。150はその倍以上の変動。なのに原因が見えない。
「グレン、昨日から何か変わったことはあった?」
「いえ」
少し間があった。
「異常ありません」
いつもの返答。何も変わっていないように見える。
変わったのは数字だけ。数字は嘘をつかない。なら何かが変わったはず。
考えたい。この150の意味を。9,999との差を。仮説の枠組み自体がずれているのか——
ノックの音。セバスだった。少し慌てた顔をしている。
「アイリス様。お客様です」
「客?」
まさか、また公爵家から——
「いえ、公爵家からではなく。トビアス・ヴェーバーと名乗る方が、第二王子殿下の紹介状を持って来られました。薬師だそうです」
レオナルドの紹介。
850の考察が頭の中で止まった。それどころではなくなった。
「……通して」
グレンの灰色の瞳が、一瞬だけ鋭くなった気がした。
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