31話:見えない輪
調査が終わって、監査院の応接室に書類の山ができた。
調査員たちが報告書をまとめている。仕入れ元のリスト、商会の登録情報、回収した壺の数。事務処理の音だけが部屋に広がっている。終わった仕事の空気。
「アイリス様。本日はありがとうございました。見事な調査でした」
カイルが一礼した。
「報告書の取りまとめに入りますので、少しお時間をいただきます。完成次第お持ちしますので——」
「ええ。お願いします」
声だけ返した。視線は手元の書類から動かなかった。
カイルが退室した。調査員も一人、また一人と席を立って出ていく。
静かになった。
各商会から回収した取引記録をめくっている。軟膏の明細だけではない。提出された帳簿には、他の取引も全部載っている。
数字を追っていく。指が紙の上を滑る。一枚、また一枚。
「……どうかしました?」
グレンの声だった。壁際に立っている。調査の間もずっとそこにいた。
「ん。ちょっと引っかかったことがあって」
「何が引っかかったんです?」
ページをめくる手を止めた。紙を二枚並べた。もう一枚引き出して、三枚横に並べた。
「最初は転売だと思ってたのよね。薬種通りの軟膏。アーレン領の正規品を横流しして、上乗せして売ってる。それを潰すのが今回の調査だった」
「はい」
「で、潰した。試薬で特定して、仕入れ元を辿って、全部エルスト商会に繋がった。ここまでは想定通り」
グレンが頷いた。
「ただ、転売にしては数字が合わないの」
「合わない?」
「軟膏の転売、年間で金貨二百枚くらいの規模なのよ。悪質ではあるけど、商会の規模からすれば小遣い稼ぎに近い」
「はい」
「でもドライゼ商会の年間売上、金貨三千枚になってる」
グレンが紙に目を落とした。
「軟膏以外にも扱いがあるのでは」
「普通に考えればそうよね。私もそう思った。だから他の取引も見てみたの」
指で数字を示した。
「ここ。ドライゼ商会が、ケルツェン商会から金貨五百枚で商品を買ってる」
「仕入れですか」
「そう見える。でも同じ時期に、ケルツェン商会がドライゼ商会から金貨五百枚で別の商品を買ってる」
「……たまたま同額では」
「数字だけ見ればそう言えるわね。でも、もう少し見て」
紙を一枚足した。
「ドライゼ商会からフォーゲル商会に金貨五百枚。フォーゲル商会からランゲ商会に五百枚。ランゲ商会からまたドライゼ商会に五百枚」
グレンの目が紙の上を追った。
「一周して戻ってきてるの」
「……金が回っているだけ、ですか」
「数字の流れだけを見ると、そうなる。で、問題はここからなんだけど」
椅子の向きを変えて、グレンの方に紙を向けた。
「帳簿の上では、全員が金貨五百枚の売上を計上できるのよ。四社回れば合計二千枚の売上が帳簿に載る」
「実際には誰も——」
「稼いでない。金が動いただけ。でも帳簿だけ見れば、どの商会も繁盛してるように見える」
グレンが身を乗り出していた。さっきまで壁際に立っていた人間が、いつの間にか椅子を引いて隣に座っている。
「それに何の意味が」
「一般的に、売上が大きい商会は信用がある。信用があれば融資を受けられる」
グレンの手が止まった。
「……嘘の売上で、本物の金を借りる」
「借りた金は本物だから。店も出せる、人も雇える。税も払える」
グレンの声が低くなった。
「それで、この街は景気がいいのか」
「全部がそうだとは言い切れない。でもこの輪に入っている商会、数えたら相当数あるのよ」
紙を広げた。輪が一つではなかった。三つ、四つ。重なり合って、それぞれの商会が複数の輪に参加している。一つの輪で五百枚。別の輪でまた五百枚。帳簿の上では雪だるま式に売上が膨らんでいく。
「いつか破綻しませんか」
「する。嘘の売上が止まれば信用が消えて、融資が返せなくなって、全部倒れる」
部屋が静かだった。廊下から調査員の足音が遠く聞こえる。彼らはまだ軟膏の回収報告をまとめている。終わった仕事の後始末を。
「なぜ、そんなことを」
「分からない。でもこの規模のものが勝手に回り始めるとは考えにくい」
指で輪を辿った。どの商会からどの商会へ。金貨がどう回って、帳簿にどう載るか。
「誰かが仕組んでる」
グレンが黙った。
「仕組んでいるとしたら、何のために」
「数字の流れを見ると、売上が膨らめば税収が増えるわ。国庫が潤っているように見える」
「……それで得をするのは」
「税収が好調だと報告できる人間。その好調を理由に公共事業を拡大できる人間」
窓の外では、王都の通りに人が行き交っている。活気がある。店の軒先に品物が並んで、馬車が走って、荷物が運ばれていく。数字の上では繁盛している街。
「城壁修繕の中抜き、覚えてる?」
グレンが顔を上げた。
「あれ、単発の横領だと思ってた。でもこの構造の中に置くと、公金を流すための口実の一つだった可能性がある」
「最初から繋がっていたんですか」
「帳簿の数字を並べると、そう読める。ただ——」
紙の上に二人の影が落ちていた。並べた取引記録。商会の名前。金貨の額。全部の線が一つの場所に収束している。
「帳簿が言えるのはここまでよ。この先は証拠がない」
グレンが何も言わなかった。私も黙った。
帳簿を見つめた。輪の中心にいる名前。エルスト商会。港町で完璧すぎる帳簿を見た、あの商会。安すぎる為替。地元の商会を飲み込んでいった帝国系。
全ての輪が、ここを通っている。
(これはバブルね。帳簿の数字だけが膨らんで、実体がない)
(でもバブルは勝手に膨らむもののはず。これは明らかに仕組まれてる。……つまり弾けるタイミングも、選べるということ?)
背筋が冷えた。
「……カイルに渡すわ」
グレンが顔を上げた。
「これ以上は私の手に余る。エルスト商会が全部の輪の中心にいること。その背後に何があるかは分からないこと。軟膏の件は終わった。でも——」
帳簿を閉じた。紙の束が音を立てた。
「見えてしまったものは、見なかったことにできないから」
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