29話:逆手の刃
王都の門をくぐった。
前に来た時より、街が騒がしい。大通りに新しい看板が増えている。前はなかった菓子屋、仕立て屋、両替商。空き区画だった場所にも屋号が入っている。昼間から食堂が満席で、道に荷馬車が詰まっている。
(景気がいいのね)
前に来た時の違和感が頭をよぎった。王都全体の現在価値7,700、潜在4,100。現在が潜在を大きく上回っている歪み。あの時は意味が分からなかった。今も分からない。ただ、この賑わいと数字の歪みが無関係とは思えない。
でも今はそれどころじゃない。
まず薬種通りに向かった。
***
六軒目のあの店。棚に高値の軟膏が並んでいる。いつも通り。
「一つください」
金貨十枚。また高い買い物。でもこれが必要だった。
宿に戻った。部屋の机に壺を置く。蓋を開ける。見た目はいつも通りの軟膏。色も匂いも変わらない。
荷物の中から小瓶を取り出した。トビアスが用意してくれた試薬。
軟膏の表面に一滴垂らした。
淡い青色が広がった。
じわりと、軟膏の表面が青く変色していく。試薬が触れた部分だけ、はっきりと色が変わる。
(仕込みロットが出回ってる。確認完了)
蓋を閉めた。壺をそのまま持って、監査院に向かう。
***
カイルが応接室に通してくれた。
前と同じ部屋。前と同じ茶。ただ、カイルの顔つきが少し違う。前回は「立場上お伝えできません」で終わった。今回はこちらが情報を持って来ている。それが分かっている顔だった。
「今日は、お話があって来ました」
「お聞きします」
「前回の続きです。流通停止の件。あの後、港町まで行って調べてきました」
カイルの目が少し動いた。港町まで行ったことに驚いたのか、そこまでやるのかという顔か。どちらにしても口には出さない。
「まず事実から。うちの軟膏はロッソ商会経由で港町に卸しています。販売記録を見せてもらって、購入者を洗いました」
「購入者に何か」
「名前がバラバラなんです。個人名、商会名、輸出名目。全部違う。でも購入量とタイミングと支払い方法のパターンが揃いすぎてる」
「窓口を分散させている」
「そう。で、住所を突き合わせたら全部同じ場所に収束しました。エルスト商会の倉庫です」
カイルが黙った。手元の茶に目を落として、しばらく考えている。
「エルスト商会。帝国系の」
「ご存じですか」
「名前は。港町での活動が拡大しているという報告は、監査院にも上がっています」
「複数の名義を使って買い集めた軟膏が、王都で高値転売されている。これが私の軟膏の流通経路です」
「エルスト商会は認めましたか」
「いいえ。認めも否定もしませんでした。取引情報は第三者に開示できないと」
「正論ですね。法的には」
「ええ。だから正面からは崩せない。でも——」
壺を机の上に置いた。
「別の入口があります」
カイルが壺を見た。
「これは王都の薬種通りで今日買った軟膏です。金貨十枚の高級品。見てください」
蓋を開けた。試薬の小瓶を取り出す。
「うちの軟膏に、判別用の仕込みをしました。品質にも薬効にも影響しない微量のハーブ抽出液を精製段階で加えてあります。普通に使う分には、何も変わりません」
「それに試薬をかけると」
「こうなります」
一滴、垂らした。
青い色が広がった。カイルの目が見開かれた。
「これがうちの軟膏である証拠です。試薬に反応する成分は、うちの精製工程でしか入らない。再現性があります。何度やっても同じ結果が出ます」
「……もう一度、見せてもらえますか」
壺の別の場所に一滴。同じ青。カイルがじっと見ている。
「仕込みのないロットではどうなりますか」
「反応しません。変色なし。比較用の通常ロットも持ってきてあります」
荷物からもう一つの小壺を出した。アーレン領で仕込み前に取り置いた通常品。試薬を垂らす。何も起きない。色は変わらない。
「仕込みロット、変色。通常ロット、変色なし。王都の高値軟膏、変色。これでうちの製品だと証明できます」
カイルが椅子の背に寄りかかった。腕を組んで、天井を見た。考えている。
「アイリス様。あなたの論理は分かります。ただ、これをどう使うつもりですか」
「品質基準の不適合の逆手です」
「逆手」
「財務卿府が私の軟膏に品質問題があると認定しました。それが市場に出回っている。なら、消費者保護の観点から回収が必要です」
カイルの目がこちらに戻った。
「……なるほど」
「監査院が回収を実施するのは正当な職務でしょう。品質に問題ありと認定された商品が消費者の手に渡っているんですから。財務卿府の判断に基づく対応です」
「財務卿府の決定に従っているだけ、と」
「ええ。監査院が独自に財務卿府と対立するわけではない。むしろ財務卿府の品質判断を尊重して、市場に残っている問題商品を回収する。財務卿府の面目を立てる形になる」
カイルが腕組みを解いた。
「正直に申し上げます。監査院として、流通停止の経緯には疑問を持っていました。検査記録がない。手続きだけが整っている。ただ、財務卿府の決定を覆す根拠がなかった」
「今はあります」
「はい。根拠がある。それも財務卿府自身の決定を根拠にしている。これなら動けます」
カイルの声に力が入った。前回の「立場上お伝えできません」とは別の人間のようだった。組織の枠の中で動ける道が見えた時の顔。
「調査の範囲は」
「薬種通りの全店舗。高値軟膏を扱っている店を一斉に」
「一軒ずつだと」
「証拠隠滅されます。棚から下げて終わり。同時にやってください」
「調査員の手配が要ります。最低でも——」
カイルが指を折って数えた。
「薬種通りの規模なら、十人は必要です。各店舗に二人ずつ配置して、同時刻に入る」
「試薬は私が用意します。使い方は簡単です。垂らして色が変わるかどうか。判断に専門知識は要りません」
「日取りは」
「早い方がいい。仕込みロットが棚にある間に動かないと意味がない」
「三日後の朝。開店直後に入ります。準備はこちらで」
「お願いします」
カイルが立ち上がった。握手を求めてきた。
「ブルクハルト商会の時もそうでしたが、あなたは証拠の作り方がうまい」
「数字で戦うのが好きなだけです」
「数字と、帳簿と、今回は化学」
少しだけ笑った。カイルが笑うのを見たのは初めてかもしれない。
***
監査院を出た。
日が傾き始めている。大通りに灯りが点き始めた。通りの向こうで商人たちが笑っている。「今仕入れておけば来月にはもっと上がる」。誰かの声が聞こえた。建設途中の商業施設に、まだ完成していないのに入居者の看板が出ている。金貸しの看板が目につく。「低金利」「即日融資」。以前はこんなに多くなかった。
グレンが隣を歩いている。
「三日後よ」
「はい」
「それまで王都で待つ。宿を取りましょう」
段取りは決まった。あとは三日後。
通りを歩く。灯りが増えた王都の夜。賑やかで、華やかで、どこか落ち着かない。
(気のせいかもしれないけど、この街——)
言葉にならなかった。帳簿脳が何かを拾おうとしている。でも形にならない。今はリコールが先だ。
宿に入った。帳簿を開いた。三日後の段取りを数字に落とし込む。試薬の必要量。調査員の配置。対象店舗の一覧。
数字を並べている間だけ、街の違和感が遠のく。
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