19話:動かない歯車
監査院は王城の東棟にあった。
受付で名乗ると、奥に人が走った。待たされたのは短い間だった。
カイルが自分で出てきた。きっちりした身なり。表情を崩さない顔は前と同じだが、目が違った。アーレン領に査定に来た時の事務的な目ではなく、こちらを見つけた、という目。
「アイリス殿。直轄領の手続き以来ですね」
「お忙しいところすみません。少しお時間をいただけますか」
「もちろん。どうぞ」
通された部屋は簡素な面談室だった。グレンは廊下で待たせた。
カイルが向かいに座る。手元に紙とペンを用意して、すぐにペンを取った。聞く構えが最初からできている。
「城壁修繕事業に関して、不正の疑いがあります」
カイルの表情は変わらなかった。驚きはない。ただ、ペンが止まった。
「……城壁、ですか」
一瞬の間。何かを飲み込んだように見えた。気のせいかもしれない。
「ご説明いただけますか」
机の上に並べた。給与明細の写し。石の破片。聞き取った数字のメモ。
「まず大工の給金です。城壁修繕に従事している職人たちの給与明細を入手しました。ブルクハルト商会の判が押されています。金額はここに」
カイルが明細を手に取った。数字を追う目は鋭い。アーレン領の帳簿を見た時と同じ、一行も飛ばさない読み方。
「この金額は、公共事業の規模に対して低すぎます。複数人から聞き取りを行って、全員がほぼ同額でした」
「現場で直接聞かれた?」
「ええ。大工たちは隠す理由がないので、普通に教えてくれました」
カイルがメモを取る。質問に迷いがない。アーレン領の査定でもそうだった。この人は証拠を見る人間だ。
「次に素材です」
石の破片を出した。
「城壁に使われている石材の端材を現場で入手しました。城壁用の等級であれば剣で叩いても傷がつかないはずですが、護衛の騎士に試させたところ、一撃で割れました。断面を見てください。目が粗い」
カイルが石を手に取った。断面を指でなぞる。
「現場の大工も証言しています。高級素材と聞かされているが、職人の経験上、手触りも重さも等級に合っていないと」
カイルが石を置いた。メモにいくつか書き込んでから、顔を上げた。
「……元請けはブルクハルト商会ですね」
「はい」
「大工の方々は、ブルクハルト商会とだけやり取りをしている」
「そうです。受注元がどこかは知らないと言っていました」
カイルがペンを置いた。指先で机を軽く叩く。考えている。
この人は公爵家の不正を追った時も、こうだった。帳簿を見て、数字を追って、静かに結論を出す。信じるかどうかではなく、数字が何を言っているかだけを見る。
「動いていただけますか」
カイルの手が止まった。
「……正直に申し上げます」
声が少し低くなった。
「城壁修繕事業は財務卿府の管轄です。監査院から調査に入るには、財務卿府の許可か、もしくは枢密院経由の命令が必要になります」
「つまり、監査院単独では動けない」
「アーレン領の件は、管轄領主による自主監査の報告を受けた案件でした。監査院の権限で完結できた。しかし城壁修繕は国の直轄事業です。——権限の壁が違います」
丁寧に説明してくれている。門前払いとは違う。なぜ動けないかを、正確に、理由をつけて伝えてくれている。
(この人が悪いんじゃない。仕組みが、そうなっている)
公爵家の時は、帳簿があったから一撃で証明できた。今回は帳簿がない。ブルクハルト商会の帳簿が。
「一つ、お願いがあるんですが」
「何でしょう」
「城壁修繕事業の発注記録を見せていただけますか。公共事業の発注記録は公開情報のはずですけど」
カイルが頷いた。迷いなく。
「お出しできます。少々お待ちください」
席を立って奥に消えた。しばらくして、綴じられた書類を持って戻ってきた。
「こちらが城壁修繕事業の発注記録です。発注元、発注先、金額、日付が記載されています」
受け取った。発注元は財務卿府。発注先はブルクハルト商会。金額を見る。
(……この額を発注して、大工にはあれしか払ってない?)
差が大きすぎる。表情には出さなかった。
「写しをいただいても?」
「ええ、どうぞ」
カイルが写しを用意してくれた。
「何か進展があれば、お知らせください。監査院として動ける材料が揃えば、手続きに入れます」
門前払いではない。材料が揃えば動く、と言ってくれている。扉は開いたままだ。
「ありがとうございました」
立ち上がった。カイルに恨み言は一つも言わなかった。この人は、できる範囲のことをしてくれた。
***
廊下に出ると、グレンが壁にもたれていた。
「終わりましたか」
「終わったわ」
「監査院は動きますか」
「動かないわね」
あっさり言った。想定内だ。
外に出た。王城の東門を抜けて、大通りの端にある茶店に入った。ここで話す。
注文もそこそこに、机の上に給与明細と発注記録の写しを広げた。
「これが監査院で手に入った発注記録。国庫からブルクハルト商会にいくら出てるかが書いてある」
「……かなりの額ですね」
「でしょう。で、こっちが大工の給与明細。末端にいくら払ってるか」
グレンが両方を見比べた。
「差が大きい」
「大きい。素材費を引いてもおかしい。しかもその素材も粗悪品」
茶が来た。一口飲んだ。ぬるい。
「帳簿さえ見れば一発なんだけどね。入ってきた金、出ていった金、差額。全部分かる」
「……見せてもらう当てはあるんですか」
「ないわよ。正攻法で何かない?」
「監査院が動けば強制力がありますが」
「動かないって今言ったばかりよ」
「では、財務卿府に直接——」
「財務卿府管轄の事業を財務卿府に訴えるの? 自分のところの不正を自分で調べてくれって?」
「……無理ですね」
「無理ね」
グレンが茶を飲んだ。私も飲んだ。詰まった。
「仮にブルクハルト商会に直接乗り込んで、帳簿を見せろって言ったら」
「断られるか、追い出されるかでしょう。辺境の小領主にそんな権限はない」
「そうね。……でも、やましくなかったら?」
「は?」
「やましいことがないなら、見せればいいのよ。帳簿に問題がないなら『ほら、ちゃんとやってます』って出せば終わるんだから。見せないのは——」
「後ろめたいことがあるから。でも、相手はそんな理屈で帳簿を開けませんよ」
また詰まった。グレンが茶を啜った。
「……あの商会主は、辺境から来た小領主をどう見ると思いますか」
「どうって。田舎もんが何しに来たって思うんじゃない」
「舐めてくる、ということですよね。であれば——帳簿で正面から殴るんじゃなくて、舐めてくることを利用できませんか」
(——あ)
「グレン、今いいこと言ったわね」
「言いましたか」
「舐めてくる相手は、こっちが馬鹿だと思ってる。馬鹿に教えてやろうって思わせたら——」
「自分から帳簿を出す」
「そう。正面から開けられないなら、向こうから開けさせる」
給金で切り込んで、素材でもう一押し。でも素材の話は私が言ったところで笑われるだけだ。
「——グレン、石材に詳しい?」
「……護衛ですが」
「明日から専門家よ」
グレンが黙った。三秒くらい。
「……護衛です。専門家ではありません」
「ルッツから聞いたでしょう。城壁用の等級なら目が詰まっていて重い、今の素材はざらついて軽い。あと剣で叩いたら割れた。全部、あなたが自分で見て、自分でやったことよ。嘘は一つもない」
「それを専門家のふりをして言えと」
「ふりじゃないわ。演技よ。——それに、あなた普段から無口でしょう。黙ってるだけでそれっぽく見えるわ」
「……褒められている気がしません」
「褒めてない」
グレンが小さく首を振った。でも断らなかった。
「……護衛の延長、ですか」
「かなりの延長ね」
「覚えます。石材のこと」
「よろしい。じゃあ今夜、叩き込むから。——宿に戻りましょう」
茶店を出た。日が傾き始めている。
(明日、ブルクハルト商会に行く)
揺さぶって、開けさせて、覚る。その先は、帳簿を見てから考えればいい。
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