誰にでもできる仕事と解雇された議事控官の所感欄を、48冊全てお読みになった方がいるそうです
所感——彼は笑っている。私も。
その一行を書く日が来るとは、思っていなかった。
◇
「——お務めは、本日をもって終了です」
王妃付き侍従マーガレーテ・ヘッセンの声は、会議室の壁によく響いた。
私は筆を置いた。インクの乾かない最後の一文字を見下ろし、それから帳面を閉じた。
「承知いたしました」
「あら、随分とあっさりですのね」
マーガレーテは少し面食らったように眉を上げた。泣くか、抗議するか、少なくとも動揺くらいはすると思っていたのだろう。
「引き継ぎに何日いただけますか」
「必要ありません。誰にでもできるお仕事ですもの」
誰にでもできる仕事。
4年間、1日も休まず、衝立の向こう側でこの国の全ての会議を記録してきた。大臣が何を言ったか。使節が何を隠したか。誰の声が震え、誰の目が泳いだか。出席者の名前の綴り、爵位の正式名称、敬称の格式。そういったものを一度も間違えずに、48冊の議事控帳に閉じ込めてきた。
——誰にでもできる仕事。
1年前、婚約者にも似たようなことを言われたのを思い出す。「会議に座って字を書いているだけの女と、何を話せばいいのかわからない」と。
あの時も泣かなかった。今も泣かない。泣いたところで、4年間の控帳が報われるわけではないのだから。
「では、帳面をお返しいたします」
「帳面? ああ、あの記録ですか。置いていってくださって結構ですわ。後任の方にお渡ししますから」
「48冊あります」
マーガレーテの顔が止まった。
「……48冊?」
「4年分です。年度別に整理してあります。目録もお付けしますので、保管庫の3段目に収めていただければ」
「あの、そこまで丁寧にしていただかなくて結構ですわ。どうせ議事録ですし」
どうせ議事録。
丁寧にしなければ誰にも引き継げない。この48冊の中に、通商条約の解釈根拠も、同盟国との外交経緯も、10年前の勅令の正確な文面も入っている。けれど彼女にそれを説明する気力は、もうなかった。
帳面を48冊、荷造り用の布で包んだ。腕に抱えると、ずしりと重い。4年分の重さだ。
会議室を出る時、振り返った。衝立が、まだそこにあった。
あの向こう側が、私の4年間だった。
◇
宮廷議事控官ルティア・ヴェルデン。男爵家の長女。24歳。
この職に就いたのは20歳の時だった。宮廷での仕事を探していた私に、当時の宰相補佐官が言った。「字が綺麗で、口が堅くて、存在感がない人間が必要なのだが」と。3つとも私の特徴だった。
仕事は単純に見える。会議室の衝立の向こう側に座り、議事の全てを書き取る。ただそれだけ。
衝立には細い隙間がある。そこから会議室が見える。大臣の表情。使節の手の動き。居眠りする伯爵の顎が落ちる瞬間。全部見える。でも向こうからは、私は見えない。私は会議の家具だった。椅子や机と同じで、誰も名前を覚えない。
議事控帳には2つの欄がある。
左側が「議事録」。誰が何を言ったかの公式記録。淡々と事実だけを書く。
右側が「所感」。本来は会議の印象を簡潔にまとめるための欄だった。
だが4年の間に、この所感欄は——私の分析ノートになっていた。
「ヴァイス使節の善処するは外交辞令。発言直前に視線を右下に逸らしている。実質の拒否と解すべき。なお前回も同じ文言を使用した際、3か月後に正式拒否が届いた。再現性あり」
「ブレンナー伯の本日の発言は先月の主張と矛盾。具体的には、関税引き下げに賛成していた立場が反対に転じている。背景に伯爵領の繊維業への影響を推察。なお伯は13時以降、断続的に居眠りをされていた。所感——午後の会議は形骸化しつつある」
「フィッシャー将軍の軍事費要求は前年比18%増。ただし発言の語尾が弱い。閣議での根回しが不十分と推察。否決の可能性70%」
誰も読まない欄だった。だから自由に書けた。自由に書けたからこそ、正直に書けた。
——ただ1人を除いて。
2年前のことだ。外務次官エーリヒ・ローゼンクランツが着任した。若い。灰色の目。背が高く、声が通る。着任初日の会議で、彼は同盟国使節の曖昧な発言に対し、具体的な数字を求めた。それまでの外務次官とは、明らかに違った。
彼は月に2度、過去の議事録を正式に請求した。書庫の申請書に「外務次官ローゼンクランツ」と書かれた紙が届くたびに、私はその48冊を整えて渡した。
48冊の議事録の中で、請求を受けたのは彼だけだった。
だから——いけないと分かっていたのに——所感欄に、彼のことを書くようになった。
最初は業務上の観察だった。
「外務次官ローゼンクランツ殿、本日の反論は的確。ヘルトリング大使の矛盾を3点指摘。所感——議場の空気が変わった」
次第に、そうではなくなった。
「外務次官は本日、会議後に窓の外を見ていた。夕陽が横顔に当たっていた。所感——業務とは無関係の観察である」
「外務次官が議事録を請求した際、受け渡しの手が触れた。所感——記録する必要のない事象。しかし記録した」
「業務とは無関係の観察が増えている。所感欄の目的から逸脱している。しかし——消せない」
48冊目の最後のページ。解雇を告げられる直前に書いた最後の所感。
「外務次官ローゼンクランツ殿、本日も議事録を請求。48冊中、請求者は彼のみ。所感——」
その先は書けなかった。書いてしまったら、業務上の観察という嘘が、もう通らなくなるから。
◇
解雇から3日後。
実家の居間で父の帳簿を整理していると、宮廷伝令係のフリッツが息を切らせて飛び込んできた。
「ルティア! 大変なことになってる!」
「落ち着いて、フリッツ。お茶を淹れるから座って」
「お茶どころじゃないの!」
フリッツは私より3つ年下で、宮廷で唯一の友人だった。伝令係という仕事柄、宮廷中の情報が彼女のもとに集まる。そして彼女は、その情報をまっすぐに伝える癖がある。宮廷には向いていないが、友人としては最高だ。
「新しい記録官がね——ブレンナー伯のことをブレンナー卿って書いたの!」
「……それは」
「爵位を間違えたのよ! 伯爵が『余の爵位はいつ下がったのだ』って、それはもう、会議室が凍ったって」
「控えめに言って外交問題になりうるわね」
「控えめじゃない方で言うと?」
「……辞書を贈ってあげて。あと爵位一覧表。私が作った一覧が書庫にあるはず」
フリッツは笑わなかった。むしろ、目に涙を浮かべていた。
「4年間、一度も間違えなかったのに。ルティアは爵位も、名前の綴りも、敬称の使い分けも、全部完璧だったのに。あの人は4年間ルティアの仕事を見てたはずなのに——それでも誰にでもできるって言ったのよ」
「フリッツ。声が大きいわ」
「大きくて結構! 私は怒ってるの!」
「……ありがとう」
私の代わりに怒ってくれる人がいる。それだけで、胸の奥が少し温かくなった。
◇
1週間後。フリッツがまた来た。今度は走ってきた。息が上がっている。
「もっと大変なことになってる」
「座って。今度はお茶も出さないから」
「通商条約の解釈で問題が起きてるの。ヴァイス使節が先月善処するって言った件——外務省がそのまま合意として処理しちゃって、向こうから正式に『そのような合意はしていない』って抗議が来たの」
「所感欄に書いてあったのに」
思わず言ってしまった。フリッツが目を丸くした。
「——あれは拒否の外交辞令だって。視線の動きと、前回の態度との変化を照合すれば分かること。所感欄の第36冊目に全部書いた」
「所感欄って、あの——ルティアが勝手に作ってた右側の欄?」
「勝手に、というか。本来の用途を少し拡張しただけ」
「少しどころじゃなかったでしょう、あれ」
フリッツの言う通りだった。
「で、それだけじゃないの。外務次官のローゼンクランツ様がね——48冊全部を至急で請求したんだって」
「……48冊全部?」
「宰相閣下も初めて所感欄の存在を知って、会議の場で読み上げさせたらしいの」
背筋が冷たくなった。読み上げた。あの所感欄を。誰にも読まれない前提で、正直に、辛辣に、そして——個人的に書いたあの所感欄を。
「えっと、どの部分を読み上げたの」
フリッツは手帳を開いた。宮廷伝令係は噂話の速記も得意である。
「えっとね。ヘッセン子爵の提案は本年度3度目。過去2回は否決。所感——三度目の正直を信じる姿勢には敬意を表するが、提案内容は前回と一字一句同じである」
「……それを、宰相閣下の前で」
「宰相閣下、すっごい真顔で聞いてたんだって。それで一言——この記録官は相当辛口だな」
私の顔から血の気が引いた。政治分析だけならまだいい。だが、あの48冊の中には——もっと個人的なことが書いてある。もし最後の数冊を読まれていたら。
「で、外務次官が仰ったそうよ。辛口なのは所感欄だけです。議事録本文は4年間、一字の誤りもありませんでしたって」
「……」
「その後ね、宰相閣下がこう仰ったの。この控帳は外交基盤そのものだ。この分析がなければ、我が国は過去4年間の交渉経緯を正しく把握できない。なぜ事前に報告がなかったのだ——って。マーガレーテ様、真っ青だったらしいわよ」
ざまぁみろ、と思ってしまった。品がないと分かっていても。
「で、フリッツ。もう1つ聞いていい?」
「なに?」
「所感欄は——どこまで読み上げられたの?」
「全部は無理でしょ、48冊だもん。外交分析の主要な部分だけって聞いたけど」
「……そう」
主要な部分だけ。主要な部分だけなら、大丈夫。外務次官の横顔に夕陽が当たっていたとか、そういうことは書いていない——いや、書いている。書いているけれど、それは「主要な部分」ではない。
はず。
◇
さらに3日後。
私は父の農地台帳を整理していた。整理というか——気づいたら、右側に所感欄を新設してしまっていた。
「小麦の収穫量、前年比12%減。南の排水路に詰まりあり。所感——畑に住みついた野良猫が排水口の付近にいたので調査を兼ねてしばらく通いたい。なお猫は三毛で、触らせてくれる」
我ながらどうかしている。農地台帳に猫の記録を付けてどうする。
控帳のない生活は、思ったより落ち着かなかった。耳に入る会話をつい分析してしまう。市場で商人の声の調子から仕入れ値を推測し、父の書斎で来客の足音から用件を当ててしまう。昨日は隣家の奥様の挨拶の声色から「今月は何か良いことがあった」と断定して、本当にお孫さんが生まれたと聞かされた。
私は職業病かもしれない。衝立の向こう側が、すっかり私の世界になってしまっていたのだ。
玄関の扉が鳴った。父の来客だろう。
足音は2つ。1つは父。もう1つは——革靴。軍用ではない。宮廷の室内靴。歩幅は広いが急いでいない。背の高い男性。重心が安定している。武官ではなく文官。
職業病は重症だ。
「ルティア」
父が居間の戸を開けた。
「お客様だよ。外務次官のローゼンクランツ殿だ」
手元の農地台帳を閉じる暇もなかった。所感欄が——猫の所感が——開いたままだった。
エーリヒ・ローゼンクランツは、戸口に立っていた。黒い髪に灰色の目。会議室では衝立の隙間越しにしか見たことがなかった姿が、いま目の前にある。思ったより——近い。
「お久しぶりです、ヴェルデン殿」
「……お久しぶりでございます」
「宰相閣下からの要請で参りました。議事控官としての復帰をお願いしたい」
復帰。あの衝立の向こう側に戻ること。誰にも見えない場所に、もう一度座ること。
「……恐れ入りますが、辞退いたします」
「理由を伺えますか」
「誰にでもできるお仕事ですので。お急ぎでしたら、他の方をお探しください」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。マーガレーテの言葉をそのまま返してしまった。
エーリヒは表情を変えなかった。
それから、椅子を引き、静かに座った。帰るつもりはないらしい。
「誰にもできませんでした」
「……」
「あなたの後任は10日で3つの外交事案を損ないました。そのうち1つは修復に半年かかります。ですが——」
彼は少し間を置いた。
「——私がここに来た理由は、宰相の要請だけではありません」
「……他に何がおありなのですか」
「所感欄を、全て読みました」
心臓が跳ねた。
「48冊。全てです」
「あれは——業務上の分析メモです」
「分析メモとしても卓越していました。ヴァイス使節の件だけでなく、ブレンナー伯の矛盾、ヘルトリング大使の密約工作、フィッシャー将軍の財政圧迫——すべて、あなたの所感が正しかった。私の外交判断は、過去2年間、あなたの分析に支えられていました」
立っていられなくなりそうだった。けれど座っているので、代わりに両手を膝の上で握りしめた。
「しかし」
エーリヒの声が変わった。会議室で外交報告をする時の、あの淡々とした声ではなく。もっと静かで、もっと——揺れやすい声。
「私が議事録を最初に請求したのは、所感欄を読むためではありませんでした」
「——では、なぜ」
「あなたが、会議中に首を傾けるからです」
意味が分からなかった。
「衝立には隙間があります。私の席からは、あなたの横顔が見えた」
「——」
「初めて会議に出た日に気づきました。ブレンナー伯が根拠のない数字を述べた時——あなたは首をわずかに左に傾けた。他の誰も反応していないのに、あなただけが。次の会議でも見ました。クラウス公が約束を反故にした時、あなたはまた首を傾けた。嘘を聞いた時にだけ起きる反応です」
知らなかった。自分にそんな癖があることを。
「精度は驚くほど高かった。あなたが首を傾けた発言を後から検証すると、例外なく虚偽か誇張が含まれていた。私は——それを確かめたくて議事録を請求しました。首の傾きと、所感欄の分析が、完全に一致していた」
「……つまり、分析の精度を確認するために」
「最初はそうでした」
エーリヒは目を伏せた。初めて見る表情だった。会議室では常に落ち着いていて、使節相手でも表情を崩さない人だったのに。
「最初は、そうでした。けれど48冊を読み進めるうちに——分析の正確さだけではなくなった」
「……」
「所感欄には、あなたの性格が出ていました。辛口だけれど公正。鋭いけれど残酷ではない。居眠りする伯爵にすら敬称を崩さない。誤りを指摘しても、人格を否定しない。4年分の所感を読んで——私はこの国で最も信頼できる目を持つ人間が、衝立の向こうにいると思いました」
最も信頼できる目。
4年間、誰の目にも映らなかった私の目を——そう言ってくれる人が、いた。
「そして——」
彼の視線が、まっすぐに私を見た。衝立の隙間越しではなく。
「——48冊の議事録に、あなたはこの国の真実を書いていた。けれど私がいちばん読み返したのは、あなたが私について書いた行でした」
呼吸が止まった。
あの所感欄を。読まれていた。
「外務次官の声は会議室でよく通る。業務上の観察である」
やめてほしい。
「外務次官は本日、会議後に窓の外を見ていた。夕陽が横顔に当たっていた。業務とは無関係の観察である」
やめて。
「業務とは無関係の観察が増えている。所感欄の目的から逸脱している。しかし——消せない」
目の奥が熱くなった。
「消さないでくれて、よかった」
エーリヒの声が、はっきりと揺れた。
「あなたの横顔を見てから2年。所感欄を読んでから2年。私はずっと——衝立の向こう側にいるあなたに、会いたかった」
涙が落ちた。4年間、解雇の日も、婚約破棄の日も泣かなかったのに。
「……ずるいです」
「何がですか」
「人の——帳面を、勝手に、全部読んで——それで、こんなことを」
「所感欄は公文書です。閲覧に許可は要りません」
「公文書にあんなことは書きません……!」
エーリヒが、少し笑った。会議室では見たことのない、柔らかい笑い方だった。
「では、あれは何ですか」
「…………所感です」
「所感ですか」
「業務外の所感です」
「それを、48冊書き続けたのですか」
「……2年分だけです」
「2年分。私が着任してからの、2年分ですね」
もう反論できなかった。顔が熱い。涙が止まらない。帳面を盾にしたいのに、手元にあるのは父の農地台帳だけだ。しかも猫の所感が開いている。
「——それは、何の帳面ですか」
「父の農地台帳です。所感欄を勝手に作りました。猫のことが書いてあります」
「……」
「職業病です」
エーリヒが声を出して笑った。
それから、笑いながら手を伸ばして、私の手から農地台帳をそっと取り上げた。
「所感。猫は三毛。議事控官は泣いている。ただし泣いている理由は悲しみではなく——おそらく。裏取りは、これから」
「……勝手に人の帳面に所感を書かないでください」
「あなたも、48冊書いたでしょう」
返す言葉がなかった。
◇
翌週、宰相命令により議事控官への復帰が決まった。
宰相は会議の冒頭でこう述べたそうだ。
「議事控官の所感欄は、この国の外交基盤そのものであった。4年間の分析がなければ、我が国は通商条約の正確な経緯も、同盟国の態度変化も把握できない。これを誰にでもできる仕事と判断した者には——その判断能力そのものを問わねばならない」
マーガレーテの推薦した後任は即日解任された。マーガレーテ自身も、侍従の職を静かに解かれたと聞いた。同情はしない。——少しだけ、する。彼女は悪人ではなく、ただ仕事を見くびった人だった。見くびるというのは、最も静かで、最も取り返しのつかない加害だと思う。
復帰を知ったフリッツが泣いた。私よりも泣いた。
「おかえり、ルティア」
「……ただいま、フリッツ。お茶を淹れるから座って」
「お茶は私が淹れる! 今日は私が淹れるの!」
復帰初日、廊下でエーリヒと並んで歩いた。すれ違う人々の視線が、ちらちらとこちらを向くのが分かった。衝立の向こうの幽霊が、外務次官の隣を歩いている。宮廷の噂話は伝令係より速い。フリッツが悔しがりそうだ。
その人々の中に——元婚約者の姿を見た。彼は足を止めた。何か言いたそうに口を開きかけて、けれど——隣にいるエーリヒの視線に気づいて、そのまま目を逸らした。
会議に座って字を書いているだけの女は、外務次官の隣を歩いていた。外務次官は、何を話せばいいか分からないどころか——ずっと笑っていた。
元婚約者が何を思ったかは知らない。所感欄に書く必要もない。書くとしたら——「所感。もう、どうでもいい」。それだけだ。
◇
49冊目の議事控帳。
真新しい表紙を開く。衝立は撤去されていた。宰相の判断で席の配置が変更され、議事控官の席は会議室の中——出席者と同じ側に移されていた。4年間見つめ続けた衝立の隙間は、もうない。隣は——外務次官席。
インクを整え、筆を取る。帳面の右側に、所感欄の罫線を引く。この罫線だけは、自分で引かないと落ち着かない。
所感欄の第1項。
「本日より議事控官に復帰。衝立が撤去されたため、全出席者の表情を直接確認できる。業務上の所感——会議の全容把握が容易になり、分析精度の向上が見込まれる」
ここまでは真面目に書けた。
「業務外の所感——隣席の外務次官がこちらを見るたびに、筆が止まる。分析精度の向上は見込めないかもしれない。要改善」
これは所感欄に書くべきことではない。
分かっている。分かっているけれど、消せない。消せないまま、もう2年経った。これからも消せないだろう。
48冊分の「消せない」の先に、ようやく49冊目がある。
帳面を閉じようとして、気づいた。
49冊目の最初のページの——1行目に。私が書いていない文字がある。
「所感。議事控官ヴェルデン殿は本日、首を3回傾けた。ただし理由は嘘の検出ではなく、照れ隠しであると推察する。裏取り完了。以上。——外務次官エーリヒ・ローゼンクランツ」
勝手に人の帳面に書き込まないでほしい。
——消せないけれど。
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