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ムカシ

その日の午後。


 空気は、少しだけ重いまま。


 机は、ずれたまま。


 椅子も、向かい合わせのまま。


 カイさんは、今日は早めに帰った。


「無理するなよ」


 それだけ残して。


 ナナは、奥の部屋にいる。


 おばあちゃんは、縁側に座っている。


 外は、曇り。


 光がぼんやりしている。


「ナナ」


「なに」


「前はね」


 おばあちゃんの声は、穏やか。


「もっと、泣き虫だったよ」


 ナナは、瞬きをする。


「……いまも泣くよ」


「ううん」


 ゆっくり首を振る。


「もっと、小さくて」


「よく、怖がって」


 視線が、遠くを見る。


「夜になると、ここに座ってね」


 畳を、ぽんと叩く。


「“いなくならないで”って」


 ナナの胸が、きゅっと縮む。


 記憶の奥で、何かが揺れる。


 暗い夜。


 冷たい空気。


 強く握った手。


「覚えてない」


 反射的に言う。


 おばあちゃんは、笑う。


「そうかい?」


 その笑い方が、少しだけ、ちがう。


 懐かしむというより。


 確認するみたいな。


「ナナはね」


 ゆっくり、言葉を選ぶ。


「変わらないようにって、よく言ってた」


 ナナの呼吸が止まる。


「このままがいいって」


 心臓が、強く打つ。


 “このまま”。


 ぴったりの部屋。


 歪まない布。


 ずれない机。


「……そんなこと」


 言った?


 思い出そうとすると、

 頭の奥が白くなる。


 おばあちゃんは、ナナを見る。


 でも、その目は、今を見ていない。


「がんばり屋だったよ」


 ぽつり。


「自分で、なんとかしようとして」


 その言葉が、

 まっすぐ胸に刺さる。


 ナナは、畳を見る。


 手が、少し震えている。


 昨日、自分で動かした。


 戻さなかった。


 がんばろうとした。


 前と、今。


 何かが、つながりそうになる。


「でもね」


 おばあちゃんの声が、少しだけ揺れる。


「そんなに、がんばらなくてよかったのに」


 その瞬間。


 視線が、ふっと曇る。


「……ナナ?」


 今度は、迷うような声。


「泣いてるのかい?」


 ナナは、はっとする。


 自分の頬に、涙。


 気づいていなかった。


「ちがう」


 拭う。


 でも止まらない。


 胸の奥で、


 “変わらないように”


 という言葉が、ぐるぐる回る。


 もし。


 あの夜。


 小さかった自分が、


 本気で願ったとしたら。


 強く、強く。


 変わらないで、と。


 ナナは、顔を上げる。


 おばあちゃんは、少し不安そうに笑っている。


 でもその目は、また少し遅れている。


 今のナナと、昔のナナが、


 どこかで重なっているみたいに。


 ナナの中で、


 初めて、はっきりしそうになる。


 この家は。


 ずっと“このまま”だった。


 それを望んだのは――


 喉の奥まで、言葉が上がる。


 でも。


 まだ、出ない。


 出せない。


 ただ、分かってしまいそうで。


 怖い。

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