タメス
カイさんが帰ったあと。
家は、静かだ。
甘い匂いだけが残っている。
ナナは、台所に立つ。
胸の奥に、小さなざわめき。
確かめたい。
壊したいわけじゃない。
ただ、昨日と今日が
本当に続いているのか。
棚を開ける。
布を一枚取る。
引き出しの奥へしまう。
代わりに、別の布を置く。
ほんの少しだけ、向きを変えて。
机を、指一本分だけ動かす。
それだけ。
息を止める。
何も起きない。
崩れない。
でも。
空気が、ぴん、と張る。
目に見えない何かが、
わずかに引っ張られたみたいに。
ナナは、奥の部屋を見る。
おばあちゃんは、昼寝をしている。
呼吸は、変わらない。
けれど、まぶたが揺れる。
夢の中で、何かを探しているみたいに。
ナナの胸が、きゅっとなる。
“同じ”にしなかった。
それだけ。
それだけなのに。
家の輪郭が、
ほんの少しだけ浮き上がる。
ぴったりだったはずのものが、
わずかに噛み合っていない。
ナナは、自分の手を見る。
普通の手。
何もしていない。
……はず。
それでも。
変えたとき、
何かが反応した。
その事実だけが、
消えない。
夕方前。
家の中は、薄い橙色。
昼の張りつめた空気は、まだ残っている。
ナナは、机の前に立っている。
指一本分だけずらした机。
違いは、ほとんど分からない。
でも、自分には分かる。
ぴったりじゃない。
それが、ずっと胸に残っている。
奥の部屋では、おばあちゃんが眠っている。
静かな呼吸。
その音を聞きながら、ナナは思う。
もし。
これがただの思い過ごしなら。
もっと変えても、何も起きないはず。
ナナは、机を両手で押す。
ぎ、と音がする。
大きく動かす。
畳の縁に沿っていた位置から、少し外す。
今までと、明らかに違う。
次に、椅子。
二つを並べていたのを、向かい合わせにする。
三つ目も、置く。
位置を、中央に。
“いつも”の形から、はっきり外す。
息が、少し速い。
止まれ、とどこかが言う。
でも、止まらない。
棚を開ける。
布を何枚か取り出す。
畳んであった向きを崩す。
重ねる順番を変える。
引き出しを、少しだけ開けたままにする。
今までの家とは、違う。
誰が見ても、違う。
ナナは、立ち尽くす。
何も起きない。
家は、崩れない。
壁も、天井も、そのまま。
ほら、と心のどこかが言う。
ただの思い込み。
そのとき。
奥の部屋から、布ずれの音。
ナナの心臓が跳ねる。
駆け寄る。
おばあちゃんが、目を開けている。
焦点が、少し合わない。
「……ナナ?」
「うん」
声が、かすれる。
おばあちゃんは、ゆっくり起き上がる。
周囲を見渡す。
いつもと違う配置が、視界に入る。
その瞬間。
ほんの一瞬だけ。
表情が、空白になる。
理解できないものを見た顔。
「……ここは」
小さな声。
「……どこだい?」
ナナの背中に、冷たいものが走る。
「うちだよ」
すぐに言う。
即答。
でも。
おばあちゃんの視線が、机の位置をなぞる。
椅子を見る。
三つ目を見る。
指先が、わずかに震える。
「……ちがう」
ぽつりと。
ナナの胸が、強く締まる。
何が違うのか、
聞きたくない。
でも、聞かなきゃいけない気がする。
「なにが」
おばあちゃんは、答えない。
ただ、ゆっくりと首を振る。
そして。
その違和感を、なかったことにするみたいに、
無理やり笑う。
「寝ぼけただけだよ」
笑顔。
でも、目が追いついていない。
ナナは、部屋を振り返る。
自分が変えた配置。
はっきりと違う。
でも。
この違いに、
こんな反応が出るなんて。
胸の奥で、何かが繋がりそうになる。
でも、まだ言葉にならない。
ただひとつ、分かる。
“同じじゃない”とき、
おばあちゃんが揺れる。
ナナは、立ち尽くす。
戻す?
このままにする?
その選択が、
急に重くなる。




