ヨル
夜は、冷たい。
月の光が、森の輪郭だけを浮かび上がらせる。
ナナは、扉の前に立ったまま。
カイさんは、家の中には入らない。
「怖いこと言うかもしれない」
さっきの言葉を、繰り返す。
ナナは、うなずく。
「今日さ」
カイさんは、静かに続ける。
「エナさん、俺のこと覚えてなかった」
「……うん」
「でも、ナナのことは?」
ナナは、瞬きをする。
「覚えてたよ」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
即答だった。
カイさんは、少しだけ視線を落とす。
「じゃあさ」
ゆっくり言葉を選ぶ。
「消えてるのは、
俺だけだと思う?」
ナナの呼吸が、止まる。
「……どういうこと?」
「天気も、ずれてた」
昨日は晴れだった。
でも、おばあちゃんは雨だと言った。
「三つ目の湯のみも」
ナナは、無意識に振り返る。
机の上に、まだ置いたまま。
「ナナ」
名前を呼ばれる。
「もしさ」
声が低くなる。
「何かが変わってるんだとしたら」
夜が、静まり返る。
「それ、
おばあちゃんだけだと思う?」
胸の奥が、ひゅっと冷える。
「ちがう」
反射的に言う。
「おばあちゃんは……」
そこで、止まる。
“ずっと同じ”はずだった。
でも、さっきの顔。
初めて会うみたいな目。
「俺は、外から来てる」
カイさんは言う。
「外は、毎日変わる」
ナナは、朝の会話を思い出す。
「ここは?」
問われる。
森は、変わらない。
そう思っていた。
「ナナ」
カイさんの声が、やわらぐ。
「ここが変わらないって、
誰が決めてる?」
答えが出ない。
出したくない。
「もし」
少し間を置く。
「もし、ここが誰かの形で保たれてるなら」
そこまで言って、止めた。
ナナの呼吸が浅くなる。
「……誰かって」
かすれた声。
カイさんは、首を振る。
「今は、そこまででいい」
はっきり止める。
森が、音を吸い込む。
ナナは、扉の縁を握る。
「ねえ」
「ん?」
「帰っちゃうの」
その言葉は、思ったより小さい。
「……今日、変だったのに」
カイさんは、すぐには答えない。
家の奥を、ちらりと見る。
眠っているおばあちゃん。
「長居しない方がいい」
静かに言う。
「今は」
「なんで」
「俺がここにいる時間、
増えすぎると」
言葉を選ぶ。
「たぶん、
もっと揺れる」
ナナの指先に、力が入る。
「揺れるって」
「ナナが、きつくなる」
断言しない。
でも、確信はある声。
ナナは、唇を噛む。
引き止めたい。
でも、それが正しいのか分からない。
「……ごめん」
カイさんが言う。
「今は、毎日来る」
「でも、今日は帰るよ」
ナナの目が、揺れる。
カイさんは、一歩だけ近づく。
手を伸ばす。
少し迷ってから、
そっとナナの頭に触れる。
あたたかい。
「ちゃんと考えなくていい」
低い声。
「でも、目はそらさないで」
ナナは、うなずく。
それしかできない。
手が離れる。
月明かりの境界まで下がる。
「明日、来る」
それだけ言って、背を向ける。
足音が、森に溶ける。
ナナは、しばらく動けなかった。




