ニチジョウ
森の朝は静かだった。
鳥の声より先に、鍋の蓋が鳴る。
「ナナ、火が強いよ」
エナの声は、家の奥から聞こえた。
ナナは慌てて薪を一本抜き、鍋をかき混ぜる。湯気 が少し落ち着いたところで、ほっと息をついた。
「おばあちゃん、これくらいでいい?」
「ええ、上手になったね」
褒められると、ナナは返事をしない。ただ口の端を少し上げて、鍋を囲炉裏から下ろした。
足元で、ルルが前脚を踏み鳴らす。爪が床に当たって、軽い音がした。
「まだ」
そう言うと、ルルは鼻先でナナの膝を押した。
息がかかって、くすぐったい。
家は森の奥にある。
道はあるけれど、使う人はいない。木々は勝手に育ち、勝手に影を落とし、季節だけが正確に通り過ぎていく。
「今日は、いい天気になるわ」
エナは窓の外を見ながら言った。
ナナも同じ方を見る。木の隙間から光が落ちて、朝露がきらきらしていた。
「洗濯する?」
「そうね。……でも、午後でもいいかしら」
エナは椅子から立ち上がろうとして、やめた。
ナナは何も言わず、水差しを持っていく。
それが、いつもの形だった。
食事を終えると、ナナは森へ出た。
ルルが先に駆け出し、落ち葉を蹴散らす。戻ってきては、また走る。
ナナはその様子を見ながら、指先に意識を集めた。
風が、少しだけ向きを変える。
折れていた枝が、元あった位置に戻る。
昨日と同じ場所、同じ角度。
ナナは、そこで手を下ろした。
家に戻ると、エナが椅子に座っていた。
朝と同じ場所で、同じ姿勢で。
「森は変わらないわね」
「うん」
ルルがエナの足元に体を押しつける。
エナは少し困った顔で、その頭を撫でた。
ナナは囲炉裏のそばにしゃがみ、灰の中に残った火を寄せ集めた。
さっきまで湯気を立てていた鍋は、もう音を立てていない。
ナナは鍋に触れ、指を引っ込めた。
それだけだった。




