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マギリカがマキになるまで

ヴェルディ横丁の空は、今日も中途半端だった。


昼でも夜でもなく、曇りとも晴れともつかない薄い群青。星と月が、まだ出番でもないのにうっすら顔を出している。


路地のいちばん奥で、木の看板が、からん、と一度だけ鳴った。


夢と魔法をあつかう雑貨店 マキ

――人を幸せにする夢と魔法を


扉の内側には柔らかなランプの光。壁一面の時計は、今日も好き勝手な時間を指している。


カウンターの奥で、マキは乳鉢を回していた。黒髪を一つにまとめ、朱色の瞳だけが静かに輝いている。


カウンターの影には、黒い狼が丸くなっていた。墨を流したような毛並み。金とも赤ともつかない瞳。


ガルム。


かつて、天秤の魔女マギリカと並んで名を恐れられた黒狼。今は、昼寝と店番を半々くらいこなしている。


「……退屈だな」


ガルムが、片目だけ開けてぼそりと言った。


「退屈くらいがちょうどいいですよ」


マキは手を止めずに答える。


「天秤を振り切るような願いは、あまり来てほしくありませんから」


「昔は、それが毎日だった」


「昔は“天秤の魔女マギリカ”でしたからね。今は“見習い魔女マキ”です」


朱色の瞳が棚の一角へ向いた。そこには、小さな古い天秤が置かれている。


飾りのようでいて、飾りではない。あの日から、ずっとついてきた相棒。


「……思い出してるな」


ガルムが低く言う。


「庶民を焼いた日々も、王を殺した日も」


「ええ。たまには思い出しておかないと、自分が何者だったか分からなくなりますから」


「今の“マキ”だけ見てれば、十分だろう」


「世界はそうでも、わたしはそうでもないんですよ」


マキは乳鉢の手を止め、天秤を指先で軽く叩いた。ちいさく、かちりと鳴る。


「……ガルム。昔話をひとつ、してもいいですか?」


「好きにしろ」


黒狼は頭を前足に乗せ、目を閉じた。


「どうせ止めても、お前は思い出す」


「正論ですね」


ランプの火が、ひとつだけ弱まる。時計たちの針が、一瞬だけ足並みをそろえた。


――三百年前の、別の空が、静かにひらいていく。


三百年前の空は、今よりずっと分かりやすかった。


昼は青く、夜は黒い。星座は季節ごとにゆっくり動くだけで、時間はどこでも同じように流れていた。


そのかわり、世界は今よりずっと残酷だった。


王都の外れに処刑塔があった。石造りの塔の影。木組みの台。縄と鎖と、乾いた血の色が風にさらされている。


塔のふもとに、黒い狼が寝そべっていた。ガルムだ。


彼には首輪も鎖もない。だが、この場所から離れられないよう契約で縛られている。


役目はひとつ。天秤が「罪あり」と示した者を、最後に噛み砕くこと。


そのすぐそばに、黒髪の魔女が立っていた。


マギリカ。


天秤の魔女。この王国における魔法裁判の最高責任者。


彼女の周囲には、目に見えない天秤がいくつも浮かんでいる。


いま、その一つの皿には若い女が一人乗っていた。痩せた腕、ひび割れた手。その掌には、かすかな魔力の痕跡が残っている。


もう片方の皿には、細かい文字で埋められた紙束が積み重なっていた。


「王の許可なく魔法を行使した庶民は、身分を問わず罰せられる」

「魔法とは、貴族と王家に属する特権である」

「庶民が魔法を持つことは、秩序への反逆の芽である」


王が作った魔法制約条例。その条文ひとつひとつが、鉛みたいな重さで皿にのしかかる。


「この女の罪状は」


ガルムが、欠伸まじりに問う。


「飢えた子どもたちのために、パンを増やしたこと」


マギリカは淡々と答えた。


「それだけか?」


「それだけです」


天秤の針が、じわりと条例側へ傾く。


女の皿は天へ持ち上がるように軽くなっていく。どれだけ必死に子どもを抱きしめても、その努力は針を動かさない。


「天秤は公平です」


マギリカは小さく呟いた。


「わたしの感情も、女の事情も、天秤には関係ありません」


「便利だな」


ガルムが言う。


「お前が泣こうが怒ろうが、針は条文に従う。“責任は天秤にある”って顔ができる」


「責任者が、それを言ってはいけませんよ」


マギリカは天秤から指を離した。


針が、かちりと音を立てて一定の位置で止まる。


「――罪あり」


その一言で、女の顔から血の気が引いた。足もとで兵士たちが縄を準備する。


「最後に何か言い残すことは?」


マギリカが形式的に問うと、女は震える声で笑った。


「魔女さま……うちの子たちは、助かるんですかね」


マギリカは、一瞬だけ黙った。


王は違法な魔法で増やしたパンを没収する。魔法を使った母は処刑される。残された子どもたちに残るのは、汚れた床と空っぽの皿だけ。


「――それは、この法廷の管轄外です」


マギリカは規定どおりに答えた。


縄が締まる。台が外れる。ガルムは動かない。


逃げる意志のない者を追うのは、仕事ではないからだ。


その日の午後、二件目の天秤が開かれた。


痩せた少年。罪状は「凍死しそうだった弟を温めるため、火の魔法を使ったこと」。


三件目。老いた男。つぎはぎだらけの上着。罪状は「倒れかけた小屋の柱を、土の魔法で補強したこと」。


天秤の皿には、同じ条文が何度も何度も積み重なっていく。


「庶民は魔法を持ってはならない」


針は、毎回同じ方向に傾いた。


そんな日々が、どれほど続いただろう。


マギリカは数えるのをやめた。いくつ名前を読み上げたか。どれだけの首が縄に掛かったか。夜、目を閉じれば、処刑台の上に並ぶ影がいくつも揺れる。


けれど、彼女は泣かなかった。


泣いても針は動かないからだ。


ある日、処刑が終わってから、ガルムが低く言った。


「お前は、“公平”だと思ってるか」


「天秤は公平です」


「聞いてるのは天秤じゃない。“天秤の魔女”本人だ」


マギリカは、ゆっくりと視線を落とす。


足もとの石畳には天秤の紋章が刻まれていた。その中心に立つのは、いつも自分だ。


「……条文に従う限り、判決は公平です」


「条文を書いたのは、誰だ」


「王です」


「庶民が魔法を持てば戦になる、という前提を決めたのは」


「王と貴族たちです」


「じゃあ、お前はただの“王の口”だな」


ガルムの言葉は鋭かった。噛みつくための牙ではない。逃げ道を塞ぐための言葉の牙だ。


マギリカは反論しなかった。反論できなかった。


「天秤は載せられたものの重さしか量れない。庶民の事情は載っていない。王の欲も載っていない。条文だけが、鉛みたいな顔をして座ってる」


「……そうですね」


「それで“公平”って呼ぶなら、笑える話だ」


ガルムは鼻を鳴らした。


「お前が、それに耐えられてるのが不思議だ」


「慣れましたから」


マギリカは簡単に言った。


その言葉が、一番安い嘘だと知りながら。


慣れたのではない。慣れたふりをしないと、自分が折れる。


天秤を支えるのは腕ではなく心だ。心が折れれば、針は最初から狂う。


だから彼女は、今日も泣かない。泣けない。


針が折れたのは、ある冬の日だった。


王の玉座の間。天井は高く、壁には戦勝の絵が並んでいる。暖炉の火だけが暖かく、足もとの床だけが冷たい。


その足もとに、十歳くらいの少年がひざまずいていた。鎖でつながれた手首は細く、服はみすぼらしい。


少年の罪状は「街を襲う疫病を止めるため、治癒の魔法を使ったこと」。


「陛下の許可なく魔法を行使した罪だ」


役人が読み上げる。


その治癒で救われた人間の名前は、誰も読み上げない。病が止まった街の息づかいも、誰も数えない。


マギリカは天秤を呼び出した。


一方の皿に、少年の行い。もう片方の皿に、魔法制約条例。


針は迷いなく条例側へ傾いていく。少年の人生より、王の「秩序」のほうが重いと、世界が告げる。


少年が顔を上げた。


「天秤の魔女」


怯えた声ではなかった。期待に縋る声だった。


「おふくろが言ってた。“天秤の魔女さまは、ちゃんと見てくれる”って」


処刑台の上で聞いた言葉と、よく似ていた。


マギリカの胸の奥で、何かがひび割れる。ひびは小さく、しかし確実に、契約の鎖にまで届いた。


「だから、おれ……助かるんだろ?」


「……」


マギリカの喉が、からからになる。


天秤の針は、ゆっくりと定位置に収まりつつある。少年の皿が軽くなり、条例の皿が鉛のように沈み込む。


その瞬間、マギリカは気づいた。


――天秤が公平なら、載せるものを変えればいい。


庶民対条例。それだけが選択肢だと思い込んでいた。


だが、本当にその二つしかないのか。


マギリカは生まれて初めて、天秤を「別の角度」から見た。


「……ガルム」


「何だ」


「もし、王と庶民を天秤にかけたら、どうなると思いますか」


「やっとその質問が出たか」


ガルムは低く笑った。


「ただ、やるなら――もう引き返せないぞ」


「わたしは、もうとっくに引き返せないところまで来ていると思うんですが」


マギリカは王をまっすぐに見た。


装飾過多な王冠。絹のマント。周囲を固める貴族たち。誰ひとり、「助かるべきだ」と言う顔をしていない。


「陛下」


マギリカは静かに口を開いた。


「庶民が魔法を持つことは、それほど恐ろしいですか」


「当然だ」


王は即答した。


「魔法は力だ。力は支配のためにある。庶民が力を持てば、秩序は崩壊する」


「戦争になると?」


「そうだ。血が流れる」


「……今、流れている血は、庶民の血だけですが」


「それが秩序だ」


その瞬間、マギリカの中で何かが静かに切れた。


怒鳴り声ではない。涙でもない。ただ、切れるべき糸が、やっと切れただけだ。


「では」


彼女は足もとに魔法陣を描き始めた。細い線が床を伝い、壁を伝い、玉座の間全体を包む。


天秤が現れる。


これまで誰も見たことのないほど巨大な天秤が、空に浮かぶ。


王と貴族たちがざわめいた。


「何をしている、天秤の魔女!」

「ここは法廷ではないぞ!」

「お前に王を量る権限は――」


「ありますよ」


マギリカは、はっきりと言った。


「わたしは、この世界の“最高責任者裁判官”ですから」


朱色の瞳が、鋭く細くなる。


「天秤の魔女マギリカとして、公平に審判します」


その宣言は、呪文でもあり、契約の再定義でもあった。


天秤の片方の皿に、王と貴族たち。魔法を独占し、庶民を縛る「この世の理」が載せられていく。


もう片方の皿に、庶民の命と奪われた可能性が積もっていく。


小さな魔法で助けられた命。取り上げられたパン。壊された小屋。寒さと飢えで死んでいった子どもたち。


それらが砂粒のように、ひとつひとつ皿に落ちていく。


ガルムは、その光景を黙って見ていた。


天秤の針が、ゆっくりと揺れ始める。


王の皿が、わずかに沈む。庶民の皿が、わずかに浮かぶ。


針は迷わない。迷っているのは、人間だけだ。


針が、かちりと音を立てて止まった。


王の皿は、明らかに重かった。


「罪あり」


マギリカの声は、玉座の間だけでなく、城下にも、遠い村にも響いた。


「庶民を理不尽に殺してきたこと。

魔法を独占して戦争の口実にしてきたこと。

“秩序”の名のもとに、未来を潰してきたこと」


朱色の瞳が、わずかに震える。


「この世界の“王のやり方”を、罪人とみなします」


「やめろ!」


王が叫ぶ。


「それを言えば、お前も共犯だぞ!庶民を殺してきたのは、お前自身の天秤だ!」


「ええ」


マギリカは静かに頷いた。


「だからこそ、わたしが“最高責任者”です」


魔法陣が赤く輝いた。


「天秤の魔女マギリカとして――死刑を執行します」


「ガルム」


彼女は名を呼ぶ。ずっと処刑場で共にあった黒狼の名を。


「最後の仕事ですよ。王と、その秩序に、牙を立ててください」


「命令だな」


「はい。これは命令です」


ガルムはゆっくりと立ち上がった。


黒い影が膨れ上がり、玉座の間を覆う。牙が光り、吠え声が空気を裂く。


赤い光が走り――王の悲鳴は途中で途切れた。


それ以上の音を、マギリカは聞かなかったことにした。聞いたところで、針は戻らないからだ。


その日を境に、王国は終わった。


城は崩れ、魔法制約条例は灰になった。


庶民は二度と「魔法を持っただけ」で処刑されることはなくなった。代わりに、世界には噂だけが残った。


「天秤の魔女マギリカは、庶民も殺したし、王も殺した」


貴族たちは震え上がった。


「王も国も“罪あり”と断じる化け物だ」


魔女たちは憎悪をこめて呟いた。


「同胞を何十と裁いたあとで、最後に王を殺して英雄面をするつもりか」


庶民の中にも、こう言う者がいた。


「あの魔女が、もっと早く王を裁いていれば、うちのおふくろは死なずに済んだ」


誰も間違っていない。そして誰も、全部を言えてはいない。


天秤にかけられた世界は再び均衡を取り戻した。だが、その針を動かした魔女の名は、「救世主」ではなく「天秤の魔物」として刻まれることになった。


マギリカ自身も、自分を赦さなかった。


庶民を殺したこと。王を殺したこと。世界を天秤にかけたこと。


その全部が、自分の名に縫い付けられている。


残ったのは、名前だけだ。名が残るかぎり、罪も残る。


「……それで、お前は逃げた」


ヴェルディ横丁の店で、ガルムが眠そうに言った。


「逃げた、という言い方は語弊があります」


マキ――かつてのマギリカは微笑む。


「天秤の魔女としての仕事が、一通り終わっただけですよ」


「庶民の処刑は終わらせた。王の首も落とした。あとは、誰の天秤を量るつもりだった」


「世界ぜんぶを量るのは、一度で十分です」


マキは、小さな天秤を指で揺らした。店のカウンターに置ける程度の、小さな秤だ。


「だから、範囲を狭めることにしたんです。――一人分の願いと、一人分の代償だけを量る店」


「それが、この雑貨屋か」


「そうです」


世界中から追われる身になった天秤の魔女は、名前を捨てた。


マギリカではなく、「マキ」と名乗ることにした。


世界を天秤にかけた名を隠し、ただの“見習い魔女”としてひっそり生きるために。


王都から遠く離れた大きな街の外れ。迷っている者だけがたどりつける路地に、小さな店を構えた。


古いランプ。星屑の小瓶。時間の狂った時計たち。そして、小さな天秤。


「ここで扱う天秤は、“世界”ではありません」


マキは棚の壜をひとつ手に取る。


「一人の願いと、一人の未来。そのくらいが、今のわたしにちょうどいい重さです」


「だから、あんなに制約にうるさいのか」


ガルムがあくび混じりに言う。


「代金は何か。注意事項はこれとこれ。守れなかったらこうなる――くどすぎて、聞いてるこっちが眠くなる」


「昔、誰も“注意事項”を教えてくれなかったので」


マキは軽く肩をすくめた。


「この魔法を使えば庶民が死ぬ、と。

この条文を通せば誰かの未来が消える、と。

誰も事前に教えてくれませんでした」


「天秤に乗せてから“後悔しても遅い”ってやつだな」


「ええ。だから今度は、わたしが先に言います」


マキはカウンターに手を置く。


「この魔法は、こういう毒を持っています。

こうすれば、少しマシになります。

それでも使いますか? ――と」


朱色の瞳が、ほんのわずかに笑った。


「わたしはきっかけを魔法にするだけです。運命を視るのは、その人自身ですから」


そのとき、木の看板が、からん、と一度だけ鳴った。


「……お客さまですね」


マキが顔を上げる。


「面倒そうか?」


「まだ分かりません。天秤を出すほどでもないかもしれませんし、出したくなるかもしれません」


「俺はどうする」


「いつも通り、影にいてください。“死刑執行人”の出番は、ないほうがいいです」


「……そうだな」


ガルムは、カウンターの影に身を沈めた。


――ちりん。


扉の鈴が鳴る。


昼でも夜でもない空の下、また一人、「世界の理」を知らない迷子が、夢と魔法の雑貨店に足を踏み入れた。


マキは、いつものように微笑む。


「いらっしゃいませ。夢と魔法をあつかう、ちょっとした雑貨屋・マキへようこそ」


天秤の魔女マギリカ――かつて世界を天秤にかけ、庶民も王も殺した魔女は、もうどこにもいない。


いるのはただ、少し冷めた目をした見習い魔女と、影に潜む黒い狼だけだ。


「人を幸せにする夢と魔法を。もっとも、魔法は時に毒にもなりますが」


マキは軽く肩をすくめる。


「――まぁ、はっぴいえんど、かな」


それが誰にとっての“はっぴいえんど”なのか。

それを決めるのは、天秤でも、黒狼でもない。


願いを口にする、その人自身なのだ。


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