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黒薔薇の客人 ―天秤の魔女と不老の魔女



 その日のヴェルディエ横丁は、ひどく静かだった。


 昼でも夜でもない、薄い群青色の空。

 人通りのない路地の奥で、星屑を散らした木の看板が、からん、と一度だけ鳴る。


 夢と魔法の雑貨店「マキ」

 ――人を幸せにする夢と魔法を


 店の中には、柔らかなランプの光が満ちていた。


 天井から吊るされた古いランプ。

 壁一面の時計は、それぞれ好きな時間を指している。

 真昼、真夜中、昨日の夕方。

 どれも、互いのことなど気にしていない。


 カウンターの奥で、マキは乳鉢を回していた。


 砕いたカモミールと、火を落とした星砂と、子どものあくびをひとかけら。

 匙を回すたび、ふわりと眠気の匂いが立ちのぼる。


「……これで、“試験前で眠れない子”用は十分ですね」


 紙包みに粉を移しながら、マキは小さくつぶやいた。


 本当の名を、マギリカという。

 世界のどこかでは、「天秤の魔女マギリカ」と呼ばれている。


 願いと代償、罪と罰を天秤にかけ、冷たく判決を下す魔女。

 かつて王国の制度の中で、裁定官として人の人生を量り続けた魔女。


 ――もっとも、本人は好きでそうしていたわけではない。


 王国の制約条例に従うしかなかった。

 どの魔法が禁止で、どの行為が処罰対象か。細かく決められた紙切れ。

 天秤の魔女は、それに従って裁定しなければならなかった。


 殺したくなくても、天秤の針は罪の重さを示す。

 針が一定以上に傾いたとき、マギリカは「処刑」の札を下ろすしかなかった。


 だからこそ、今は「マキ」と名乗っている。


 天秤の魔女だと知られれば、嫌でも昔の役目を期待される。

 細々と店を構え、迷い込んできた客とだけ向き合う――静かな生活を守るために。


(今日は、このまま誰も来ないといいんですが)


 カウンターを磨きながら、マキはぼんやり思う。


 客の来ない時間は嫌いではない。

 ランプの匂いと、オイルの気配と、壜の中で星砂がこすれ合う微かな音。

 店そのものの鼓動だけが、静かに鳴っている。


 ――その静けさが、少しだけ歪んだ。


 カチ、カチ、カチ。


 壁一面の時計たちが、一斉に秒針を揃えたのだ。

 逆さに動いていたものも、止まっていたはずのものも。

 いっせいに「今」という一点を指し示し、同じ速さで時を刻み始める。


「……あら。重たいお客さまですね」


 マキは顔を上げた。


 ランプの炎が、一度だけ低く伏せられる。

 銀の鏡は横丁の空ではなく、霧のかかった峠道を映した。

 扉の向こうから、冷たい空気だけが先に入り込んでくる。


 そして――鈴が鳴いた。


 ――ちりん。


 扉が静かに開く。


 黒がひと塊、店の中へ滑り込んできた。


 漆黒のドレス。喪服にも礼服にも見える、飾りの少ない布。

 胸元と腰には、控えめな黒薔薇の刺繍。

 薄いヴェールの下で、金色の瞳が淡く光を宿している。


 年を取らない魔女。

 人々は彼女の“変わらなさ”を恐れ、噂だけで名前を作り替える。


 けれど彼女は、ただの魔女だった。

 ただ――長く生きることになってしまっただけの。


「久しいな、マキ」


 起伏の少ない、平坦な声だった。


 マキは口元だけで笑う。


「これはこれは。相変わらず、良い黒を着ていますね。リリアナ」


 リリアナ。

 マキがまだ学院で、机の上に星図を広げていたころから知っている相手。

 数少ない――いや、ほとんど唯一の“親友”と呼べる存在。


「おまえの店は、迷子でないと入れない造りだ。責任は横丁にある」


「横丁に押しつけないでください。わたしの結界も混ざっているんですから」


 リリアナは店内を一度見回した。


 時計。鏡。星屑の小瓶。

 昔、魔女学院の寮で見た、マギリカの机のまわりとよく似ている。


 視線がマキの顔に戻る。


「……マギ――」


「ここでは“マキ”です」


 マキは少しだけ声を落とした。


「本名は、あまり口にしないようにしているんです。

 “天秤の魔女マギリカ”などという名前を、横丁でばらまかれては困りますから」


「嫌われている自覚は、あるようだな」


「ええ、とても。

 だからこそ、ここではただの雑貨屋です。静かな店主、ということにしておいてください」


「了解した。ここでは“マキ”だ」


 リリアナは黒いドレスの裾を揃えて、椅子に腰掛けた。


 顔つきは変わらない。

 不老というのは、若さを保つ魔法ではない。

 “変化しない”という呪いに近い。


 それでもマキにはわかる。

 この女が、時間に疲れているときの目だ。


「さて。本日はどのようなご用件で?」


「よく眠れる紅茶がほしい」


 リリアナは迷いなく言った。


「シンプルですね」


「眠りが浅い。ここ数十年ほどな」


 淡々と言う。


「夜、目を閉じると、昔のことばかり浮かぶ。

 死んだ顔も、生きていたころの顔も。

 戦も、流行り病も、ささいな喧嘩も」


「……長命の副作用ですね」


「副作用という言い方が、腹立たしい」


「便利でしょう?」


 マキはいつもの調子で返す。


「わたしは、きっかけを魔法にするだけです。運命を視るのは、あなたですよ」


「つまり、“今夜くらいは静かに眠りたい”と。

 過去も未来も少し黙っていてほしい、と」


「ああ。

 ひとつの夜を、ただの一夜として終わらせたい。それだけだ」


「ささやかで、贅沢な願いですね」


 マキは顎に指を添えた。


「よく眠れる紅茶。それ自体は難しくありません。

 ただし――」


 指先がカウンターを、とん、と叩く。


「夢の中に出てくる顔を、完全に消すことはできません。

 あれはあなたの記憶ですからね。

 記憶を“全部静かにしろ”と言われても、それはもう別人です」


「消したいわけではない」


 リリアナは即答した。


「消したいなら、とっくにやっている。

 そうではなく、並べ方をどうにかしたい」


「並べ方」


「今は、雑に放り込まれた箱の中身みたいだ。

 古い戦の隣に、昨年の夕食の光景がある。

 あれもこれも一度に顔を出す。

 せめて今夜くらい、“今日のこと”を先にしてほしい」


「……なるほど。時間の並び方を、少しだけ撫でてほしいわけですね」


 マキは、ふっと笑う。


「いいですね。それは、わたしの得意分野です」


「得意なのか」


「天秤の魔女は、もともと“重さ”と“順番”を扱う役目ですから。

 今はただの夢売りですけどね」


 マキは、小さなガラス壜を取り出した。

 ラベルは白紙だ。


「では、条件を。

 あなたの願いは、“今夜一度きり、よく眠れる紅茶”」


「ああ」


「代金は――ふたつ、いただきます」


「またか」


「ひとつは、長い時間の中で“いずれ薄れるはずだった記憶”。

 もうひとつは、紅茶のクッキーです」


 リリアナは、ちらりとカウンターの端を見る。

 そこには、いつのまにか小さな箱が置かれていた。


「……気づいていたか」


「この店で、わたし以外が甘い匂いをさせることはありませんからね」


 マキは包み紙にそっと指を触れる。


「この紅茶クッキーは、ほとんど趣味で受け取ります。

 正式な対価は、記憶のほうです」


「了解した。

 記憶ひとつ、クッキーひと箱。

 それで足りるのか」


「今夜の紅茶なら、十分ですよ」


 マキは壜の栓を抜いた。


「では、“そのうち消えるはずだった夜”を、ひとつ」


「……魔女学院の寮の屋根の夜がある」


 リリアナは少しだけ目を細めた。


「試験前夜。

 おまえが“星を見れば落ち着く”と言い出した。

 窓から勝手に出て行った」


「若気の至りですね」


「わたしもついて行った。

 屋根は古くて、瓦が割れかけていた。

 おまえは星図を広げて、何かぶつぶつ唱えていた」


 言いながら、リリアナは首を振る。


「細かい星の形は、もう見えない。

 風が寒かったことと、落ちかけたことだけ覚えている」


「十分ですよ」


「教師に見つかった。

 わたしは怒られた。おまえは涼しい顔で言った」


 リリアナの声が、わずかに低くなる。


「“落ちる前に星を見られたなら、だいぶ得だ”」


「……ひどい」


「そのときも、そう思った」


 それでも、その夜の輪郭はもうかなり薄い。

 このままいけば、いずれ「昔、屋根にのぼった気がする」程度の影に変わるだろう。


「その夜をやる。

 あれがなくても、わたしは困らない」


「では、お預かりします」


 マキは壜の口を、リリアナのほうへ向けた。


「思い出してください。

 窓枠の冷たさ。瓦のざらざらした感触。

 星を見たときの、首の角度」


「おまえは、そういうところだけ細かい」


「天秤は、細かく見ないと狂いますから」


 リリアナは目を閉じた。


 まぶたの裏で、古い夜がひとつ、輪郭を持ちはじめる。

 冷たい石。湿った風。誰かの笑い声。


 そして、それらがふっと軽くなる。


 壜の口から、白とも黒ともつかない靄が立ちのぼり、

 ゆらゆら揺れながら中に吸い込まれていった。


 ぱちん、と小さな音。


 壜の内側に、星座のような黒い線が一本、刻まれる。


「完了です」


 マキは栓をし、ラベルにさらりと文字を書いた。


『学院寮の屋根で星を見た夜』


「さて。昔話代もいただきましたし、本題の紅茶を淹れましょう」


「昔話代、というのか、これ」


「人の話を聞くのは、けっこう疲れるんですよ」


「おまえは楽しそうだった」


「聞き慣れた声でしたからね」


 マキは棚から茶葉と小瓶をいくつか取り出した。


 紅茶葉。カモミール。レモンバーム。

 それから、「安堵」と書かれた小瓶をひとつ。


「それは?」


「“よく終わった日”の感覚だけ、集めたものです。

 畑仕事を終えたあととか、帳簿を閉じた商人とか。そういう人たちの」


「また妙なものを」


「眠りには、こういう“区切り”が必要なんですよ」


 茶葉の上に、「安堵」を一滴。

 湯を注ぐと、柔らかい香りが広がる。


「注意事項を三つ」


「言え」


「ひとつ。

 この紅茶は、今夜一度きりです。

 同じ葉を明日また淹れても、ただの美味しいお茶です」


「ああ」


「ふたつ。

 今夜の眠りは深くなりますが、夢の細かい部分は多く忘れます。

 昔の景色も、人の顔も、いまよりあいまいになるかもしれません」


「それでいい」


 リリアナは迷いなく言った。


「覚えておくべきものは、どうせ勝手に残る。

 こぼれる分は、こぼれてもいい」


「わりきりが早いですね」


「長く生きていると、そうなる」


「みっつ」


 マキは、リリアナの前にカップを置く。


「この配合は、あなた専用です。

 “よく眠れたから”といって、誰かに同じものを飲ませてはいけません」


「理由は」


「あなたの“時間の重さ”に合わせて調整しています。

 普通の人が飲めば、身体が起きたがっても、心が起きられなくなります」


「それは困る」


「でしょう?」


 リリアナはカップを手に取った。

 香りを確かめ、ひと口含む。


 熱が喉を通り、胸の奥に沈んでいく。


「……悪くない」


「味に関しては、魔法抜きでも自信があります」


「眠くなりそうだ」


「この場で寝ないでくださいね。運ぶのは面倒ですから」


「横丁の角までは歩ける」


「危険な発言です」


 マキは小さく息をついた。


「リリアナ」


「なんだ」


「さっきの記憶。

 もう、細かいところは思い出せませんか?」


「もう曖昧だ。

 星の形も、おまえの顔も。

 ただ、“落ちる前に星を見てよかった”という、おまえの苛立つ台詞だけ残っている」


「言った覚えはあります」


「なら、それで十分だ」


 リリアナは、空になりかけたカップを見つめたまま言う。


「わたしは、おまえに屋根から引き上げられたことを忘れてもいい。

 おまえが覚えているなら、それでいい」


「……ずいぶん勝手な言い方ですね」


「昔からだ」


 マキは、ふっと笑った。


「天秤の魔女だったころ、わたしは多くのものを切り捨てました。

 それでも、自分のことになると――どこかで誰かに覚えていてほしいと思ってしまう」


「人間らしいな」


「ええ。

 わたしがまだ、“人間らしい”と言われるうちは、そこまで悪くないのでしょう」


 リリアナは立ち上がった。


「今夜は、よく眠れそうだ。

 昔の顔が出てきても、今ほど騒がしくはないはずだ」


「そうだといいのですが」


「おまえの魔法だ。信用はしている」


「それはそれで、プレッシャーですね」


 扉に手をかけ、リリアナは振り返らない。


「また来る」


「眠れなくなったら、ですね?」


「それもあるが」


 少しだけ間を置いて、続けた。


「昔話を忘れる前に、話しておきたくなったらだ」


 マキは静かに目を細めた。


「昔話は、話したぶんだけ形が変わります。

 でも、誰にも話さないまま消えるよりは、いくらかましですよ」


「性格が悪いな」


「お互いさまですよ」


 昼でも夜でもない空気が、ひとすじ流れ込む。


「おやすみなさいませ。

――よく眠れますように」


 マキの声に、返事はなかった。

 代わりに、鈴が一度だけ鳴る。


――ちりん。


 扉が閉まり、店内に静けさが戻った。


 時計たちは、また好き勝手な時間を指し始める。

 ランプの炎が、ばらばらのリズムで揺れていた。


 マキは棚の一角を見上げた。


『学院寮の屋根で星を見た夜』


 さきほどの壜が、そこにある。


「……長い時間の中で、軽い夜を一つ残すのは、案外むずかしいですね」


 指先でラベルをなぞりながら、マキは小さく笑った。


「でも、“よく眠れた一夜”を欲しがる誰かのためなら、

この記憶を少し薄めて分けてあげてもいいかもしれません」


 カウンターの上には、紅茶クッキーの箱。


 マキはひとつつまんで、口に運んだ。


「……うん。対価としては、じゅうぶんですね」


 甘さが、舌の上でほどける。


「人を幸せにする夢と魔法を。

もっとも、魔法は時に毒にもなりますが」


 そうひとりごちてから、マキは小さく息をついた。


「今夜くらいは、毒が少なめでも、いいでしょう。

――まぁ、はっぴいえんど、かな」


 ヴェルディエ横丁の上空には、今日もまた、昼でも夜でもない空が広がっていた。

 知らない星座がひとつ、静かに増えていたが、それに気づく者はほとんどいなかった。


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