星降る遊び場は、夜明けまで④
その夜。
洗濯屋の天井裏で、リナは深く息を吸った。
隣の子は、もう寝息を立てている。
階下からは、いつも通りの怒鳴り声と笑い声。
胸元の笛が、脈打つように重かった。
「これで、最後」
自分に言い聞かせるように呟き、笛を唇に当てる。
息を吹き込む。
星が、また、降った。
***
星降る遊び場は、いつも通り賑やかだった。
「リナ!」
テオが真っ先に駆け寄ってくる。
「今日、遅かったじゃん。どこ行ってたんだよ」
「ちょっと……用事」
リナは曖昧に笑った。
ナナも、サビナも、ユリックも、ミラもいる。
みんな、いつも通りだ。
ミロの姿だけが、やっぱりどこにもない。
「あのね、みんなに話があるの」
リナは広場の真ん中で立ち止まった。
「今日で、あたし、ここに来るの最後にする」
一瞬、遊び場のざわめきが止まった。
「え?」
ナナが目を丸くする。
「なんで? なにかイヤなことあった?」
「違う。……違うけど」
リナは胸の奥を押さえた。
「このままここに通ってたら、あたし、もっといろんなこと忘れちゃう。
ミロのことみたいに。
忘れたくないのに、思い出せなくなってくの、やだ」
「ミロって、誰?」
また、その問いが突き刺さる。
リナは唇を噛んで笑った。
「……あたしの、友だちだよ。
ここにいた、はずの子。
でも、あたしがちゃんと覚えてなかったから、いなくなっちゃったんだ」
サビナが不安そうに、リナの袖を掴んだ。
「リナ、わたしのことは、忘れない?」
「忘れない」
リナはその小さな手を握った。
「テオも。ナナも。ユリックも。ミラも。
みんな、忘れないようにする。
こっちには来られなくなっても、向こうでずっと話す。
星降る遊び場って場所があったこと、ここにいたみんなのこと、ずっと話す」
「向こうって?」
テオが眉をひそめる。
「……現実の世界」
その言葉は、星空の下では場違いに重かった。
「ここだって現実だよ」
ナナが少し拗ねたように言う。
「転んだら痛いし、お腹も減るし。
星だって、本物みたいに冷たいのに」
「うん。そうだね」
リナはうなずいた。
「だから、“どっちかをなかったこと”にはしたくない。
ここも、あっちも。
ただ、あたしの眠りが、もうもたないだけ」
テオはしばらく黙っていた。
やがて、大きく息を吐く。
「……ずるいよなぁ」
「え?」
「大人だって、ちゃんと寝ないと倒れるくせにさ。
子どもにばっか、こういう選択させる」
子どもらしからぬ愚痴だった。
でも、その口調はどこか軽くて、いつものテオらしかった。
「なぁ、リナ」
テオは右手を差し出した。
「じゃあさ。お別れの代わりに――約束しよう」
「約束?」
「きみが向こうで、ここでのことを話す。
おれたちがこっちで、きみのこと、忘れないようにする。
忘れないように“努力する”。
……たぶん、何人かは抜けちゃうかもしれないけどさ」
自嘲気味に笑う。
「それでも、“忘れないようにしようとした”ってことだけは、本当だから」
リナは差し出された手を見つめた。
そして、自分の手を重ねる。
「うん。約束」
「よし」
テオはぱん、と手を打ち鳴らした。
「じゃあ、今日は朝までフルコースで遊ぶぞ。
……って言いたいけど、ダメなんだよな」
空を見上げる。
そこには、まだたっぷりと夜が残っていた。
「でも、最後くらい、いつもよりちょっとだけ無茶しようぜ」
そう言って、彼は笑った。
その夜、リナは彼らと、いつもより少しだけ激しく遊んだ。
高いところから飛び降りた。
星の川すれすれを走るブランコに乗った。
木の迷路のいちばん奥まで、一緒に駆け抜けた。
転んで膝を擦りむいても、誰も怒らない。
涙がにじんでも、「痛かったね」と笑いながら手を引いてくれるだけだ。
やがて、空の端が、うっすらと白む。
夜明けが近づいていた。
「もう行かなきゃ」
リナは息を切らせながら笛を握った。
「ねぇ、最後にもう一回だけ、名前呼びさせて」
みんなが輪になってリナを囲む。
リナは、一人ひとりの顔を見る。
「テオ。
ナナ。
サビナ。
ユリック。
ミラ。
……あと、ミロ」
言った瞬間、胸の奥が締めつけられた。
誰も、その名に反応しない。
でも、空のどこかで、ひとつの星が一瞬だけ強く瞬いた気がした。
「忘れない。
忘れたくない。
忘れないように、頑張る」
声が震える。
サビナが泣きそうな顔で笑った。
「わたしも、忘れないようにする。
……忘れちゃっても、怒らないでね?」
「怒らないよ」
リナはサビナをぎゅっと抱きしめた。
「だから、サビナも。
あたしのこと、ちょっとでいいから、どこかに残しておいて」
「うん」
サビナは小さくうなずいた。
テオがリナの背中を軽く叩く。
「行けよ。夜明け、容赦ないからな」
「……うん」
リナは、もう一度みんなの顔を見た。
そして、笛を唇に当てる。
「――バイバイ」
息を吹き込むと、星がほどけ、遊び場が遠ざかっていく。
最後に見えたのは、星降る遊び場の真ん中で手を振る子どもたちの姿と、
その少し離れたところで、灰色のマントを翻している少年の影だった。
彼は、ほんの少しだけ、前よりもくっきりとした輪郭をしていた。
それは、誰かに“思い出された”ときの、人の影の濃さに、どこか似ていた。
***
目を開けると、そこは洗濯屋の天井裏だった。
喉が痛い。目の周りも、鼻の奥も痛い。
気づかないうちに泣いていたらしい。
胸元の笛が、静かに横たわっていた。
「……ごめん」
誰にともなく呟いて、リナは布団を抜け出した。
外は、まだ真っ暗だった。
でも、東の空が、うっすらと青く変わり始めている。
裏路地には、石ころと木箱が転がっていた。
リナはそのひとつを手に取る。
「壊すって、決めたんだもん」
震える手で、笛を地面に置く。
白木の笛は、星明かりを吸って、かすかに光っていた。
「ごめん。ありがと」
小さく呟いてから、勢いよく木箱を振り下ろす。
乾いた音がした。
白木がひび割れ、星の模様が砕ける。
もう一度。もう一度。
粉々になるまで、リナは腕を振り下ろし続けた。
気づいたときには、東の空に、細い朝焼けがにじみ始めていた。
「……っ、はぁ、はぁ」
息を切らしながら、リナは地面にへたり込んだ。
足元には、白い木片と、砕けた笛の破片が散らばっている。
胸の奥が、すうすうと寒い。
遊び場への道が、本当に切れたのだと、体が知っている。
「でも……終わりにしなきゃ、もっとひどいことになる」
自分に言い聞かせるように呟いて、リナは立ち上がった。
砕けた破片のうち、星の模様が残っているものをいくつか拾い集める。
それを布の端に包み、ポケットにねじ込んだ。
***
それから、いくつかの月日が流れた。
リナの体調は、少しずつ戻っていった。
眠りの質が、すぐに良くなったわけではない。
でも、あの笛を吹くたび引き抜かれていた糸が止まったぶん、これ以上ひどくはならなかった。
洗濯屋の仕事は相変わらずきつい。
大人たちは怒鳴るし、皿は割れる。
でも、彼女の中にはもうひとつの場所の記憶があった。
星降る遊び場。
子どもの笑い声。
名前たち。
何度も何度も、頭の中で繰り返した。
仕事の合間に、路地の隅で、紙切れに名前を書き続けた。
テオ。ナナ。サビナ。ユリック。ミラ。ミロ。
「ミロ」と書くたびに、紙が少しにじんだ。
それでも、文字は読める範囲で踏みとどまっていた。
時々、どうしても思い出せない顔があった。
名前だけが浮かんで、輪郭が霞む子どもたちもいた。
それでもリナは、語ることをやめなかった。
貧民街の子どもたちに、夜になると物語を聞かせるようになったのは、その頃からだ。
「ねぇ、リナ姉ちゃん。今日のお話は?」
「星の国の話がいい!」
洗濯屋の裏路地に、小さな子どもたちが集まる。
リナは古い木箱に腰かけ、膝に紙切れを乗せた。
「じゃあ、今日は“星降る遊び場”の話ね」
彼女は、ゆっくりと語り始める。
大人のいない、夜だけの遊び場。
星の池。空飛ぶブランコ。
そこに集まる、テオやナナやサビナたちのこと。
子どもたちは目を輝かせて聞いた。
「ほんとにあるの?」「リナ姉ちゃんも行ったの?」と口々に問う。
「さぁね」
リナは笑ってごまかす。
「でも、もし本当に行けるところだとしたら――
朝までには帰ってこなきゃダメだよ。
友だちの名前も、ちゃんと覚えとかないとね」
子どもたちは、不安そうに、でもどこかワクワクした顔でうなずく。
路地の角から、それを見ている影があった。
灰色のマントを羽織った少年。
前にリナに、ヴェルディエ横丁の話をした、あの少年だ。
彼の輪郭は、以前よりもはっきりしていた。
頬に少し赤みが差し、瞳にはかすかな光が宿っている。
リナが物語の中で「灰色のマントの迷子の子」のことをちらりと語るたび、
彼の影は、ほんの少しだけ濃くなる。
少年は、そっと微笑んだ。
誰にも見えないところで、小さく手を振る。
リナは気づかないふりをして、物語を続けた。
***
ヴェルディエ横丁のいちばん奥。
夢と魔法の雑貨店「マキ」では、今日もランプが淡く灯っていた。
カウンターの上には、小さなガラス壜がひとつ。
中には、白木の破片がいくつか詰められている。
星の模様がかろうじて残っているものもあった。
壜のラベルには、きれいな文字でこう書かれている。
『とある少女が壊した、星降る遊び場の鍵』
マキは、その壜を指先で軽く弾いた。
ガラスが小さく鳴る。
「子どもたちは、
大人になりたくないと願いながら、
大人になった自分に話を聞いてもらいたがる」
ひとりごとのように呟く。
「忘れたくないと泣きながら、
それでも忘れてしまう生き物で。
それでもやっぱり、“忘れないようにしようとした”自分だけは、信じていたい」
金色の瞳が、かすかに笑う。
「ずいぶんと、わがままで、愛らしい生き物ですね。人間は」
マキは壜を棚に戻した。
棚には、他にもいくつもの壜が並んでいる。
忘れられた願い。壊された玩具。売り渡された眠り。笑い声。涙。
そのひとつを、マキは指でなぞった。
細長い壜の中には、灰色の布の切れ端が入っている。
『名前を持たなかった、迷子の少年のマント』
「……もっとも、本当は“名前を持たなかった”わけではないのですけれどね」
マキは、くすりと笑った。
「あの子には、昔、ちゃんと名前がありました。
大人になりたくないと願う子どもたちの物語の、いちばん古いほうの頁にだけ、
小さく書き込まれていた名前」
指先で、ガラス越しに灰色の布をちょんとつつく。
「ピーター。
――“ピーター・パン”」
その名を口にした瞬間、壜の中の布きれが、かすかに震えた気がした。
「物語が何度も語り直されるうちに、
あの子は“誰でもない子ども”の象徴に変えられてしまった。
都合のいいように切り貼りされて、“名前”だけがこぼれ落ちた」
マキは肩をすくめる。
「だから今のあの子は、“名前を持たない迷子”としてここにいる。
案内人でも番人でもない。
ただ、“大人になりたくない”という願いと一緒に、物語からあふれ出た残り香みたいなもの」
そこで、ひと呼吸おいて、わざとらしく言葉を曖昧にする。
「――ということに、しておきましょうか」
本当のところを全部言うつもりはなさそうに、唇の端だけで笑う。
「名乗らない子は、名前を忘れられる心配がない。
だからこそ、いつまでも“迷子のまま”でいられる。
便利といえば便利で、寂しいといえば寂しい役どころですね」
金色の瞳には、哀れみでも怒りでもない、冷めた興味だけが灯っていた。
「さて。あの子も、リナさんも。
“語られるかぎり存在し続ける”という点では、同じなのでしょう」
マキはカウンターの端に肘をつき、
壜の向こうに広がる、昼でも夜でもない空を眺めた。
「星降る遊び場を捨てたぶんだけ、現実での居場所を探す。
現実で居場所を見つけたぶんだけ、遊び場の記憶は淡くなる。
どちらが幸せかなんて、わたしには、やっぱりわかりません」
肩をすくめる。
「でもまぁ――」
唇に小さな笑みを浮かべる。
「リナさんが、“これでよかった”と思える日が来るなら。
星降る遊び場の子たちが、ふとした拍子に、あの子のことを思い出す瞬間があるなら。
世界のどこかで、まだ誰かが“ピーター・パン”と物語を語り継いでいるのなら」
金色の瞳が、わずかに細められた。
「――まぁ、はっぴいえんど、かな」
ちりん、と鈴の音がした。
新しい客を告げる音か、
それともどこか遠くで砕けた星の音かは、誰にもわからなかった。
ただ、ヴェルディエ横丁の上空では、今日もまた、昼でも夜でもない空に、
知らない星座がひとつ、静かに増えていた。




