星降る遊び場は、夜明けまで③
洗濯屋の天井裏は、いつも通り、埃っぽくて狭かった。
低い梁の下に並べられた薄い布団のうちの一枚が、リナの場所だ。隣ではもう年下の子が疲れ果てて眠り込んでいる。階下からは、大人たちの怒鳴り声と酔っぱらいの笑いが、まだかすかに漏れていた。
リナは布団に潜り込み、胸元の笛をぎゅっと握る。
白木の感触。指先に伝わる、慣れない道具の重み。耳の奥には、まだマキの声が残っていた。
――夜明けまでに戻ること。
――友だちの名前を忘れないこと。
――遊び場の話をし続けること。
「……大丈夫。できる」
小さく呟いて、リナは笛を唇に当てた。
「一度だけ、だよね」
ひとつ深呼吸して、思いきり息を吹き込む。
音が鳴ったかどうかは、よくわからなかった。
耳には何も届かない。けれど胸の内側で、星を撒いたみたいな冷たいざわめきが広がる。
布団の感触が遠ざかっていく。狭い天井裏のはずなのに、頭上の空間がぐんと広がり、足元から重力が抜けた。
「わ――」
声を上げるより先に、世界が反転する。
目を閉じていたはずなのに、まぶたの裏へ無数の光の粒が流れ込んできた。耳の奥では、誰かの笑い声や、風を裂く音や、木々のざわめきが混ざり合っていた。
ふいに、足がなにか固いものに触れる。
反射的に目を開けた。
そこは、洗濯屋の天井裏ではなかった。
目の前に――星が、降っていた。
***
夜空いっぱいに、星がばらまかれていた。
頭上にはいくつもの流れ星が尾を引き、遠くで花火が音もなく咲いては消えていく。地面は木の板でできた広場になっていて、その周りには木馬や滑り台、からくり仕掛けの迷路が立ち並んでいた。
「すっご……」
思わず声が漏れる。
頬に当たる風は、洗濯屋の裏路地の冷たさとは違う。少し甘くて、少し土の匂いがして、どこか懐かしい。
「ねぇ、新しい子だ!」
背後から声がして、リナは振り向いた。
同じくらいか、少し上くらいの子どもたちが何人もいた。ぼろぼろの服の子もいれば、ふわふわの寝間着の子もいる。みんな目を輝かせて、リナを見ていた。
「はじめて見る顔だね」
「どこから来たの?」
「名前は?」
一度に質問を浴びせられて、リナはたじろぐ。
「あ、あたしはリナ。貧民街の洗濯屋で働いてて……」
「貧民街! あっちの方か!」
快活そうな少年が笑った。栗色の髪をぐしゃっとかき上げ、胸をどんと叩く。
「おれはテオ! あとは――」
テオは指を折って周りを指さした。
「あっちで木馬に乗ってんのがミラとミロ。双子!
あそこで星を集めてるのがサビナ。
あそこの木の上で寝てるのがユリック。
あと――」
「ちょっとテオ、全部言わないでよ」
近くにいた女の子が口を尖らせた。肩までの黒髪を三つ編みにして、鼻の頭に星形のシールを貼っている。
「名乗るのは自分でやるから。リナ、あたしはナナ。よろしくね」
「……よろしく」
戸惑いながら答えると、ナナはにっと笑った。
「ほら見ろよ、新しい子、ちゃんと挨拶できるじゃん!
前の子なんて着いてすぐブランコから落ちて、泣いて帰ったんだから」
「泣いてない!」
遠くから抗議の声がして、みんながくすくす笑う。洗濯屋の大人たちの笑いとは違う。残酷さが混じっていても、同じ目線で混じり合う軽さがあった。
「ねぇリナ、どこから回る? 木馬? 空飛ぶブランコ? 星すくい?」
「星すくい?」
「ほら、あそこ」
ナナが指差した先で、小さな池が光っていた。水面いっぱいに、星の欠片みたいなものがぷかぷか浮かんでいる。それを子どもたちが網ですくい上げては、笑い声を上げていた。
「取った星はね、飲み込めるんだよ」
「飲むの?」
「お腹の中が光って、少しのあいだだけ飛べるようになるの」
テオが誇らしげに言う。
「やってみたい?」
「……うん!」
自分の声が弾んでいることに、リナは驚いた。昼間の裏口で出していた声とは、まるで別ものだった。
ナナとテオに手を引かれ、リナは星の池へ駆け出した。
***
星降る遊び場での時間は、たしかに夢のようだった。
星を飲み込めば身体がふわりと軽くなる。空飛ぶブランコに乗れば、本当に夜空すれすれまで飛べる。木の迷路は自分の影と鬼ごっこをする仕掛けになっていて、木馬は勝手に駆け出して風を切った。
誰も怒鳴らない。皿を割っても、木馬から落ちても、ちょっとしたケガをしても、「ほらほら、立てる?」と笑って手を引いてくれるだけだ。
途中、星すくいの池の縁から、うっかり足を滑らせて落ちた子がいた。
「きゃっ!」
水しぶきと一緒に、その子の姿が一瞬だけかき消える。
「うわ、やったな!」
テオが笑いながら手を伸ばし、水の中から引き上げた。星を飲みすぎていたのか、その子のお腹はうっすら光っている。
「大丈夫?」
「へーき! ちょっと冷たいだけ!」
ケラケラと笑う声。洗濯屋で聞く泣き声とは、違った。
リナは、その真ん中で思う。
――ここが、本物ならいいのに。
いつまでも朝にならなければいいのに。
そう思った瞬間、遠くの空でひときわ大きな花火が咲いた。夜空の端が、ほんの少しだけ白む。
「……あ、やば」
ナナが空を見上げる。
「もうすぐ夜明け。そろそろ帰らないと」
「え?」
「マキに言われなかった? “夜明けまでには戻ること”ってやつ」
テオが肩を軽く叩く。
「帰りたくない気持ちはわかるけどさ。ここにいるだけじゃお腹はふくらまないし、現実のきみが倒れたら、それこそ遊べなくなるだろ?」
「……そう、だけど」
名残惜しさが、胸の奥で膨らむ。
「ね、リナ」
サビナが小さな手で袖を引いた。星をすくう網をまだ握りしめている。
「また来るでしょ?」
「……うん。また来る」
「じゃあ、なまえ覚えててね」
サビナは自分の胸をとんと叩いた。
「サビナ。サ・ビ・ナ。忘れたら、やだよ」
「忘れない」
リナは強くうなずいた。
テオも、ナナも、双子のミラとミロも、ユリックも。さっき聞いたばかりの名前が、頭の中でくるくる踊っている。
「じゃあ、今夜は解散!」
テオが手を振る。
「また、こよな!」
「うん、また!」
リナは胸元の笛を握りしめ、唇に当てた。夜空がさらに白み始める。名残惜しい声があちこちから飛び交う。
息を吹き込むと、足元の板がほどけるように消えた。星が遠ざかり、暗闇が反転する。
次に目を開けたとき、彼女は洗濯屋の天井裏の布団の上にいた。
胸はどきどきしている。身体はぐったり重い。けれど心だけが妙に軽かった。
「……本当に、行けたんだ」
小さく笑い声が漏れた。
朝は、ちゃんと来る。女主人は相変わらず怒鳴り、皿は割れ、客は理不尽な文句をつける。
それでも、その日のリナの足取りは、いつもより少しだけ軽かった。
夜になれば、あそこへ行ける。そう思うだけで、怒鳴り声も水しぶきも、どこか遠くに聞こえる。
***
そんな夜が、いくつも続いた。
リナは毎晩のように笛を吹き、星の池で星をすくい、空飛ぶブランコで夜空を切り裂き、木馬で風を追いかけた。時々、危ない遊びも混じる。高いところから飛び降りてみたり、星の川すれすれを走るブランコにしがみついてみたり。
「落っこちたら?」
「そのときは、そのとき!」
テオは笑う。
「ここは“遊び場”だろ。危なくったって、楽しいほうがいいじゃん」
その言葉に、リナは胸をすくような自由を感じた。
昼の世界では、皿を割れば叱られる。じっとしていても叩かれる。なにをしても誰かが怒鳴る。
でも、星降る遊び場では――転んでも、失敗しても、笑われるだけだ。
だからこそ、彼女は少しずつ、ルール以外のことを忘れていった。
自分の眠りが削られていること。マキの言った「魔法は時に毒にもなる」という言葉。
朝になると、体は前より重くなっていく。階段を上り下りする足は鉛みたいで、手桶を持ち上げる腕はしびれたようにだるい。
「最近、顔色が悪いよ」
年長の子が心配そうに言ったことがある。
「ちゃんと寝てる?」
「寝てる」
嘘ではない。
ただ、その眠りは、マキの言う通り「布の端を切り取られた」みたいに薄くなっていただけだった。
夜になればまた笛を吹く。楽しくて、やめられなかった。
そうして、何度目かの夜。
リナは、はじめて違和感に気づく。
「ねぇ、テオ。ミロは?」
星の池で網を振り回しながら、彼女はふと周りを見回した。
「ミロ?」
テオは首をかしげる。
「ミロって、誰だっけ」
「誰って……ミラの双子の弟だよ。いつも一緒に――」
言いかけて、リナは口をつぐんだ。
すぐ近くで星をすくっていたミラも、きょとんとした顔でこちらを見る。
「わたし、一人っ子だよ?」
「うそ。だって、前は――」
前は、なんだ?
リナの頭の中で、なにかがざらりと音を立てた。
たしかに、「ミラとミロ」と名乗っていた気がする。同じ顔をした二人が、「どっちがどっちだ?」と笑い合っていた気がする。
でも、その姿形が、うまく思い出せない。
「冗談きついな、リナ」
テオが笑って頭をかく。
「ここには前からミラしかいないだろ? なぁ、ナナ」
「うん。一度だって、ミロなんて名前、聞いたことないよ」
ナナも笑いながら言った。その笑い声には、嘘の気配がない。
「……うそ」
足元が揺らぐような感覚。
頭の中で、名前の輪郭だけが宙ぶらりんになっている。声は覚えている気がする。笑い方も、走り方も。
でも、霧みたいに、指の隙間からこぼれ落ちていく。
「忘れたら、やだよ」
サビナの言葉が、脳裏によみがえった。
名前を忘れた瞬間、その子は「誰からも覚えられていない子」になる。星降る遊び場からも、この世界からも。
マキの説明が、今さらのように胸に刺さる。
「……あたしが、忘れた、の?」
唇を震わせて呟く。
「誰を?」
誰も、知らない。
彼女だけが何かを忘れている。忘れてはいけないはずの、誰か一人を。
「……ねぇ、リナ。顔、真っ青だよ?」
ナナが心配そうに覗き込んだ。
「今日はもう、ブランコはやめといたら?」
「……うん」
その晩、リナは少し早めに笛を吹き、現実へ戻った。
***
天井裏に戻っても、眠気はなかなか来なかった。
リナは暗がりの中で手探りに木箱を開け、古い紙切れと炭筆を取り出す。震える手で、遊び場の子どもたちの名前を書き出していく。
テオ。ナナ。サビナ。ユリック。ミラ。
……そのあとに、なにを書けばいいのかわからない。
紙の端に「ミ」と書いて、手が止まる。
「ロ」なのか、「ナ」なのか、「ル」なのか。筆先が迷う。
「ミロ、だった、よね」
そう呟いて炭筆を走らせようとした瞬間、なにかが邪魔をした。
指先が急に重くなり、見えない誰かに止められたみたいに、筆が紙から離れる。代わりに、黒いシミがじわりとその場所に広がっていった。
「……やだ」
リナは紙を抱きしめるように丸めた。
胸の奥で焦りが渦を巻く。
こんなことがこれから何度も起きたら――自分は、何人の名前を忘れてしまうのだろう。
その夜、彼女はほとんど眠れなかった。目を閉じれば、知らないはずの誰かの笑い声が聞こえる。手を伸ばしても届かない何かが、星の川の向こう側で手を振っている気がした。
朝になったとき、体は鉛のように重くなっていた。
「最近、ほんとに変だよ」
年長の子が心底心配そうな目で言う。
「洗濯物、何度言っても同じとこ洗い直してるし、皿も落としたでしょ。昨夜なんてさ、あんた、立ったまま寝てたんだよ?」
「……ごめん」
謝る声も、自分のものとは思えなかった。
頭の中にモヤがかかったみたいだ。昼間の声も物音も、ぜんぶ遠い。
その日、リナは仕事を途中で放り出し、こっそり裏口から抜け出した。
足は勝手に、あの路地を探していた。
迷えばいい。空が変わるまで歩けばいい。
気がつけば、またヴェルディエ横丁の空の下に立っていた。
星屑の看板が、からん、と鳴る。
扉を開けると、鈴の音が迎えた。
「まぁ。お早いお帰りですね」
マキはカウンターの向こうで本を読んでいたらしい。顔を上げて微笑む。
「リナさん。眠りの調子は、いかがです?」
「……最悪」
リナは、ほとんど転がり込むようにカウンターにしがみついた。
「ミロが、いないの」
「ミロ?」
「ミラの弟。双子。みんな、誰も知らないって言う。ミラに聞いても『一人っ子だよ』って笑うの。……でも、あたし、知ってる。知ってた、はずなの。なのに、顔が思い出せない。声も、消えそうで。名前を書こうとしたら、紙が、にじんで……!」
言葉が涙と一緒に溢れた。
マキはしばらく黙って聞いていた。
やがて、静かに本を閉じる。
「そうですか」
その声に驚きも同情もなかった。ただ、結果を確認しただけ――そんな調子。
「お話しましたよね。“向こうでできた友だちの名前を、一人も忘れてはならない”と」
「忘れたくなんてなかった! 本当に!」
「わかっています」
マキはうなずく。
「だからこそ、困るのです。忘れたくないと願ったところで、人間の頭はそう器用にはできていませんからね」
彼女はリナの顔をじっと見つめる。
「あなたが削ったのは、“眠り”の端切れです。眠りは、記憶を繕う針のようなもの。繕う時間を削れば、いずれ一番大事なところからほつれていく。――記憶なんて、真っ先に」
「じゃあ、あたしのせいってこと?」
「ええ。あなたがそう選んだのです」
さらりと告げる。
「星降る遊び場に行く子たちは、大人たちからはとっくに忘れられた子が多い。あなたも、その一人になりかけているだけです」
「……やだ」
リナは首を振った。
「忘れたくない。みんなのことも、自分のことも。遊び場のことも。眠れないのも、もうやだ。どうしたらいいの? マキ、あんた魔女なんでしょ? なんとかしてよ!」
叫び声は、洗濯屋で怒鳴り返したときより必死だった。
マキは目を細める。
「助けようと思えば、わたしにも色々できるでしょうね」
「……じゃあ!」
「けれど」
言葉を、すっと切る。
「あなたの代わりに選んであげるつもりはありません」
「どうして!」
「わたしはきっかけを魔法にするだけです。運命を視るのは、お客さま自身の仕事だと、最初に申し上げました」
マキはカウンターの下から、小さな箱を取り出した。中には、リナの眠りの端切れが詰まったガラス壜が入っている。前よりずっと濃い。
「あなたには、選択肢が二つあります」
指を二本、立てた。
「一つ。笛を壊して、“星降る遊び場”との繋がりを断つこと。これ以上あなたの眠りは削れませんし、新しく誰かを忘れる速度も、すこしは緩やかになるでしょう」
「……『すこしは』?」
「すでにほつれてしまった部分は、元には戻りません。ミロさんとやらのようにね」
リナは唇を噛みしめた。
「もう一つ」
マキは続ける。
「笛を持ち続け、今まで通り、遊び場へ通うこと。あちらの子どもたちは、あなたを歓迎するでしょう。その代わり、こちらの世界でのあなたは、ますます薄くなる。眠りも、記憶も、存在も」
「それって……あたしも、『忘れられる子』になるってこと?」
「かもしれませんね」
肩をすくめる。
「どちらが幸せかは、わたしにはわかりません。大人たちに忘れられたぶんだけ、子どもたちと笑っていられるなら、それを“めでたい”と感じる人もいるでしょう」
金色の瞳には、哀れみでも怒りでもない、冷めた光だけが灯っていた。
「真実を知りたいなら、時に勇気も必要です。知らないままでいる勇気と、知ってしまう勇気。どちらを選ぶかは、いつだって、あなた次第ですよ」
リナは拳を握りしめた。
星降る遊び場の光景がちらつく。テオの笑顔。ナナの声。サビナの小さな手。木馬、ブランコ、星の池。
それから、ミロ――だったはずの、誰かの途切れた笑い声。
「笛を……壊したら」
かすれた声で訊ねる。
「もう、行けない?」
「ええ。二度と」
「みんなは?」
「ここから見送ることはできるでしょう。でも、会いには行けません。それでも、物語として語り続けることはできますよ。あなたが――忘れないかぎりは」
忘れない。
本当に、自分にそんなことができるのだろうか。
眠りは薄い。布団に入っても、浅い夢を漂うばかりで、深く沈めない。頭の中の引き出しはもう半分、勝手に開いたり閉まったりしている。
それでも。
リナは笛をぎゅっと握りしめた。
「……今夜、もう一回だけ行く」
顔を上げる。声は震えていたが、目だけはまっすぐだった。
「最後に、ちゃんとみんなの名前を呼ぶ。忘れたくないって、ちゃんと言う。それから戻ってきて――笛を壊す」
マキは、ほんの少しだけ目を見開いた。
「ずいぶんと、勇気のいる選択ですね」
「怖いよ」
リナは正直に言った。
「楽しい場所を捨てるのも、みんなの前からいなくなるのも、こっちの世界でまた皿洗って怒鳴られるのも。ぜんぶ怖い」
それでも、と続ける。
「ミロのこと、忘れたくない。名前も顔も、全部思い出せなくなってるのに、忘れたって思いたくない。これ以上、誰かを“なかったこと”にしたくない」
マキはじっと彼女を見つめた。
やがて、口元にうっすら笑みを浮かべる。
「人間にしては、ずいぶんと、我慢のできる子ですね」
褒めているのかどうかは、よくわからない。
「約束は守ること。夜明けまでに戻ること。そして――壊すと決めたら、ちゃんと壊しなさい。中途半端が一番、世界に毒ですから」
「……わかった」
リナは、ふらふらとした足取りで店をあとにした。
扉の鈴が鳴る。
ヴェルディエ横丁の空が、静かに瞬きをした。




