星降る遊び場は、夜明けまで②
そう言って、マキは棚の奥へ指先を滑らせ、いくつかの小瓶や木箱をやり過ごした。
やがて、細長い木箱をひとつ取り出す。
淡い青緑色の、節の少ない木でできた箱。表面には、子どもの落書きのような星や月が、銀色のインクで描かれている。
「こちらです」
箱をカウンターの上に置き、そっと蓋を開く。
中には、小さな木製の笛が一本、布に包まれて収められていた。
白木のような、やわらかな光を帯びた素材。
指穴のまわりには、やはり子どもの手で彫られたような、ぎこちない星や花の模様が刻まれている。
「……笛?」
「ええ。とても古いものです。
夜にこれをひと吹きすれば、“星降る遊び場”へ行くことができます」
「星降る……遊び場……」
リナの目に、一瞬だけ、夢を見るような光が宿った。
「そこには、大人はいません。
皿を割っても、石を蹴っても、笑い転げても、誰にも怒鳴られない。
子どもたちだけの国です。夜空には花火と流れ星。木馬やブランコや迷路があって、眠くなるまで、好きなだけ遊べる」
「……そんなところ、本当にあるの?」
「嘘をついても、わたしには得がありませんから」
マキは、さらりと言った。
「ただし――先ほども申し上げた通り、魔法にはルールが必要です。
世界の理からあまり逸れないよう、きちんと“毒見”をしておかなければなりません」
リナは、喉の奥に、ひゅっと冷たい空気が入るのを感じた。
「どんな……ルール?」
「まず一つ目」
マキは笛を取り出し、両手で大切そうに持ち上げる。
「“夜明けまでには、必ずこちらに戻ること”。
星降る遊び場は、夜のあいだだけ開く場所です。
空が白み始める前に、笛をもう一度吹けば、きちんと自分の寝床に戻れます」
「夜明けまでに帰る……それくらい、できるよ」
「二つ目」
金色の瞳が、すっと細くなる。
「“向こうでできた友だちの名前を、一人も忘れないこと”。
名前を忘れた瞬間、その子は“誰からも覚えられていない子”になります。
星降る遊び場からも、この世界からも――きれいさっぱり、です」
「……消えちゃう、ってこと?」
「言い方を選ぶなら、“なかったことになる”に近いですね。
誰も思い出さない物語は、最初から語られなかったことになる。
人も、だいたいそれと同じです」
リナは眉をひそめた。
「でも、名前くらいなら覚えられるよ。
あたし、そんなに物覚え悪くないし」
「そうでしょうとも。今は」
マキは、意味ありげに微笑んで続ける。
「三つ目。
“星降る遊び場でのことを、こちらの世界で語り続けること”。
誰にも話さなくなったとき、その遊び場は、きみの中からも少しずつ薄れていきます。
語られない場所は、世界の端から順に削れていきますから」
「話すって……誰に?」
「耳を貸してくれる誰か。
いなければ、ノートに書いても構いません。
届くかどうかではなく、“残そうとした”という事実が大切なのです」
リナは、少しだけ考え込んだ。
洗濯屋に、彼女の話を聞く大人はいない。
けれど、路地には年下の子どもたちもいる。
物語をせがまれる夜も、たまにはあった。
「……わかった。
ちゃんと話す。名前も覚えておく。
夜明けまでには戻る」
そして、恐る恐る尋ねる。
「それで……代償。眠りを取るって、どういうこと?」
「簡単なことです」
マキはカウンターの外へ出て、リナの前にしゃがみ込んだ。
背丈は近いのに、目線の高さだけが、どこか遠い。
「手を、少しだけお借りしても?」
リナが右手を差し出すと、マキは手首の内側に、そっと指を置いた。
ひやりとした感触。
それは冷たさというより、“温度がない”ものに触れた感覚だった。
「脈は少し早め。
眠りは浅く、夢見がち。
日中の疲れが、そのまま持ち越されていますね」
「……そんなの、分かるの?」
「少しだけ。
人の眠りは、わたしには“布”のように見えるのです。
あなたのは、ほつれて、ところどころ薄い。
穴だらけの毛布のようなものですね」
「ひどい言い方」
「ですが、そのぶん、少し端を切り取っても、あなたはきっと文句を言わない」
マキは穏やかに告げた。
「この笛を使うたびに、あなたの眠りは、わずかに削れていきます。
ぐっすり眠った、という感覚。
暗いところに沈んでいく、あの感じ。
そういったものが、少しずつ薄れていく」
「……じゃあ、もっと眠れなくなるの?」
「眠れなくなるわけではありません。
眠りはする。ただ、“休んだ気がしない”時間が、少し増えるだけです」
指先が離れる。
「代わりに、あなたは夜ごと、もう一つの世界を手に入れる。
現実では得られなかった“遊び場”の時間を。
眠りの一部と引き換えに」
リナは、しばらく黙っていた。
眠り。
満足に眠った記憶など、もともとほとんどない。
「……別に、いいよ」
小さく、しかしはっきりと言う。
「あたし、どうせまともに寝たことなんてないし。
眠ってるあいだに、大人は勝手に酷いことするし。
遊べるほうが、ずっといい」
マキの目が、ほんの少しだけ和らぐ。
「子どもにしては、ずいぶんと物わかりがいいですね」
「大人になるよりは、マシだもん」
「そうでしょうとも」
マキは立ち上がり、カウンターの内側へ戻った。
「では、条件は出揃いました」
指を折りながら、静かに確認する。
「夜明けまでに必ず戻ること。
友だちの名前を、一人も忘れないこと。
星降る遊び場のことを、語り続けること」
最後に、穏やかに付け足す。
「そして代価として――
リナさんの“眠り”の一部を、わたしがいただくこと。
異論はありますか?」
「……ない」
リナは、うなずいた。
「それなら」
マキは、笛を布ごとリナに手渡す。
「夜、ひとりになったら、一度だけ吹いてください。
息が続くあいだだけ音を鳴らす。
目を開けたときには、もうそこにいます」
「帰るときは?」
「夜明け前に、もう一度。
それだけ守れば、大丈夫です」
マキはまっすぐに告げる。
「これは夢ではありません。
楽しいでしょうが、現実のあなたに、きちんと影響を残します。
それでも行くと決めるなら――」
金色の瞳が、やわらかく細められる。
「ようこそ。“星降る遊び場”へ」
リナは、笛をぎゅっと握った。
「……行く。もう決めた」
「では、契約成立です」
指が鳴る。
足元の影が一瞬だけ波打ち、胸の奥で、細い糸が引き抜かれる感覚がした。
痛みはない。
ただ、長く着ていた服の裾を、少し切られたような物足りなさだけ。
「今の……なに?」
「眠りの端切れを、少し。
お代の前払いです」
マキは小さなガラス壜を取り出す。
中で、薄い霧がふわりと揺れていた。
「では今夜、またどこかの世界で。
――いい夜を、リナさん」
リナは笛を抱えたまま、店を出た。
鈴が鳴り、ヴェルディエ横丁の、昼でも夜でもない空が、静かに瞬いた。




